69話 人助けから一転
実質的に町を支配する幾匹もの猫に遠巻きに見つめられて町を出た。
ちょっとした柵とゲートを通ればそこからはすぐ草原が広がる。
草原と言えど、流石に町に近い位置までは草が刈られているが、それも100メートル程度までだ。あとは川へ続くまでのこじんまりとした道以外は背の高い草が生い茂っている。
南との風景の差は、馬車の往来で踏み固められた道があるか否か程度。
西側には往来がほぼないというのが見受けられた。
出る際に、道以外の、特に背の高い草むらでは野生動物の存在があるので危険だ。という助言を受けたので、それを心に留めて川までの道を行く。
道中、他者とはすれ違わなかった。
「この辺りならいいかな?」
りりは前回、ゴーグルなしでグライダーで飛んでえらい目にあったので、今回はゴーグルを用意してのチャレンジと洒落込むつもりでいた。
町からは十分に離れたので、ひと目を気にする必要はない。しかし、すれ違わなかったにしてもこの場に人が居たのなら意味がないと、あたりを見渡す。
すると、川沿いの小さな岩の上にぐったりとうつ伏せに倒れている女性を発見した。
どう見ても寝ている訳ではないように見える。
「大丈夫ですか!?」
声に反応したのか、女性はよろよろと顔を持ち上げて苦しそうな表情を浮かべる。返事は無い。
りりにはこれが衰弱して声も出せないでいるように見えた。
心配になり駆け寄ってゆく。
近寄るにつれ、女性は服を着ていないことが判る。
暴漢に合ったのだろうかと不愉快な気分が滲む。
草むらを隔てているとは言え、こんな町から目と鼻の先で女性がひどい目にあっているのだ。許せるものではない。
更に近づく。女性の顔に傷はない。
しかし、その顔は今まで見てきた西洋風な顔とは違い、東洋人とのハーフのような顔立ちだった。こちらの世界へ来て以来初めて見るタイプの顔だ。
「大丈夫ですか!? どこかお怪我……は…………あ……?」
側まで近寄ると、岩の向こうに隠れていた部分も含めて女性の全体像が入ってくるのだが……それは異様なものだった。
完璧なヒトの肌の色に、完璧なヒトの髪に見えるモノを持ち、完璧にヒトの体の上半身を模倣した……タコだ。
上半身はともかく、下半身が肌色のタコそのものという異形の姿。
異様な見た目に本来なら警鐘を鳴らすのは人の性だが、シャチという人魚の存在を既に見ているりりだ。驚きながらも、これを亜人……それもなんらかの事件の被害者と考え警戒心を緩める。
「大丈夫……ですか? 声聞こえますか?」
返事はない。
代わりに下半身の部分が大きく動き、勢いよくりりへと墨を放出する。
量自体はしれたものだったが、それは計算されたかのように的確にりりの両目を潰した。
りりの視界が奪われる……だけでは済まなかった。
「いた……痛い、いたいいたい! 熱い! 熱い! あああああ! あついっ!!!」
突如襲ってきた激しい痛みに耐えかね、両目を押さえる。
痛みは過度になると、痛みを通り越して熱感を与えるのだが、今りりを襲っているのがそれだ。
しかも、りりはこれに覚えがある。なにせ、他ならぬ自分が騎士やシャチにやったことなのだ。
「毒だ……毒だこれ。ヤバい。アーシユル! ……アーシユル!」
冷や汗をかき、想い人の名を呼ぶ。返事はない。
当たり前だ。場所こそ伝言を託したものの1人で来たのだ。
となれば逃げの一手と転身しようとするのだが……伸びてきたヌメる触手に足を掴まれ阻まれる。
走り出す前にそれをやられたのだ。転けこそしなかったものの、頭の中の挙動と違う動きになってしまったことにより、一瞬身体が固まってしまう。
それが致命的だった。
長く太い触手が、瞬く間にりりの身体を雁字搦めにする。
ぬめりに嫌悪感を覚えるじかんは僅かだった。何故なら、間もなく強く締め付けられ始めたからだ。
「ぐぅぅ……」
凄まじい怪力。
りりは今ではハンターとまでは行かないまでも一般人レベルには筋力が付いたはずなのだが、その人並みの全力を持ってしても手足が全く動かせない。
そこへ、更に上半身であるヒトの部分が覆いかぶさるように抱きしめる。
顔の位置にの胸が押し付けられていることが判るのだが、そこにはぬめりと強すぎる弾力以外のものを感じない。つまり骨と呼べるものの気配を感じ取れないのだ。
確信する。これは亜人ではなく、ヒトに擬態した魔物なのだと……。
そう、この生き物は亜人ではない。
一見すればヒトのように見える上半身。これは完全なる擬態である。
しかも骨が無いにもかかわらず、擬態と呼べる域を完全に逸脱した正真正銘の化け物と呼べる生き物だ。
普通にしていて身長は2メートル弱だが、触手の長さを含めればゆうに5メートルを超え、一対一であればシャチのような海水人魚を圧倒する戦闘力を有する。
それは陸上でも変わらない。陸生行動が十二分に可能で、見た目から想像のつかない耐久と怪力を持ち、おまけに毒の墨までをも行使する。
ヒトの知る限りの海の最強生物。それがこの蛸人だ。
ハンターギルドはおろか、ゼーヴィルに住む者全てが知る程の敵性生物なのだが、りりだけがこれを知らなかった。
その蛸人が、今まさにりりを襲っていたのだ。




