56話 デートだ! 魔法だ! びしょ濡れだ!2
時は同期する。
りりが、当たり前のように念力で水を受け取る中、アーシユルを含めた群衆は驚きの視線を投げかけることしか出来ない。
そこは地上より10メートル。
地上とは違い、遮蔽物や人混みが無いので、遠く逃げる泥棒の姿がよく見える。
「いけるかな……いや、いけるはず」
半ば確信を持った独り言を零し、泥棒の元まで魔力で作り出した坂を伸ばす。りりにしか見えない、即席滑り台の完成だ。
走って追いつけないのならば、それ以外の方法を取ればいい。そう判断した結果だ。
更に、ひと1人が乗れるくらいの板を作り出す。こちらは形だけ固定化し、コントロール下から切り離せば、ビート板代わりとなる。
あとは、水を流して共に滑るだけ。つまりはウォータースライダーだ。
水を使う理由は、単に念力で作った物質同士が滑ってくれるか判らなかったので、摩擦を減らすためにというだけ。ぶっつけ本番なのだ。
「よいっ!」
目の前で浮遊させていた水を自由にし、それと共に、うつ伏せになって念力の板に乗って滑り出した……のだが。
「い、意外と早いいいいいい!!!?!?」
人々が見上げる中、魔人は悲鳴を上げながら宙を滑ってゆく。
走るよりは断然早い。しかも、人混み無視での移動だ。泥棒に追いつくまでは一瞬。
だが、テンションに身を任せて滑った先は商店街の中央。人混みの中だ。このままだと人間ボウリングが完成する。
「どいてええええ!!!」
焦って叫ぶと、気づいていなかった全員が声の方を見上げた。
そこには、バケツ1杯分の水と共に、黒髪の少女がものすごい速度で滑り込んで来るというシュールな光景が飛び込むことになる。
当然、りりの着地点に当たる周囲の人混みが割れた。同時に、それは人混みというクッションが消えて無くなった事を意味する。
「柔らかい壁! 柔らかい壁えええ!」
こんな馬鹿な事で怪我してたまるか! と、必至の思いで、着地点に念力で壁を作り出す。密度が薄く、柔軟性のある分厚いクッションのような壁だ。
りりは、そのまま僅かに泥棒を追い抜き、誰にも見えない壁に正面から激突した。同時に、流れていた水もそこで弾けて当たりに飛び散った。
柔らかい壁自体は作り出すことに成功していたものの、速度が出ていたために、それなりに衝撃は受ける。
怪我はしないで済んだが、弾けた水をかぶったため、髪はしなびて癖っ毛は鳴りを潜めていた。
「いった……っ……さあ! 追いつきましたよ泥棒さん! そのメモ帳返してください!」
泥棒の姿を確認し、威勢よく指を指して叫んだは良いが、辺りは動揺し静まり返っていた。まるでキマっていない。
「……あ、そうか」
ふと思いつきで、呆気にとられてリアクションを返さない泥棒相手に、再度念力を使用する。思い描くは手の形。
返してとお願いして返してくれるようなら、この男は最初から盗みなど働いていない。その考えに思い至り、隙だらけの今のうちに奪い返してしまえば良いという結論に至ったのだ。
泥棒に向かって手をかざす。この動作自体は本来必要ないものだが、この方がイメージを掴み易い。つまりこれは補助的な動作になる。
魔人に手をかざされた泥棒は、ハッとして身構えるのだが、既にその手元には見えざる手が迫っていた。
りり以外の誰にも見えない手は、泥棒から強引にメモ帳を奪い返すことに成功する。
「な、あ!?」
泥棒は、突如メモ帳が我が手を離れ浮かびだした事で、慌てて手を伸ばす……が、りりが作り出した[手]自体に阻まれ、取り返す事叶わなかった。
「これは大事な物なんです。泥棒なんかに渡せるわけないじゃないですか」
「……っ! この! 魔人だからってなぁ!」
泥棒は逆上し、腰のホルダーからポケットナイフを取り出し、りりに向かって突進する。
右利きなのか、左肩から前のめりになった鋭い突進だ。
昨日までのりりならば、何も出来ずにそのまま刺されていただろう。
が、今のりりは念力の真なる使い方を知っているのだ。もはやこの程度の相手は敵ではない。
「壁ぇ!」
手をかざし、掛け声を上げると、りりと泥棒の間に分厚い壁が出来上がる。
咄嗟に作られたそれは、厚さが10センチにも到達する、密度の濃い硬い壁だった。
これが、ものの1秒かからずに出来上がる。当然不可視だ。
全力で走っている眼の前に、不可視の硬い壁があればどうなるか?
泥棒は、鈍い音を立てて頭から壁にぶつかり、跳ね返るように地面に向かって落ちた。足が速い事が祟ったのだ。
直後、泥棒が頭をぶつけた位置に鉄塊がぶつかり、倒れた泥棒の顔面へと跳ね返り直撃する。泣きっ面に蜂だ。
だが、泥棒は既に意識を手放しているのか、一瞬ビクンとしただけだった。
「うわぁ……痛そう……」
思わず同情する。
泥棒は、ノーガードで額を強打し、受け身を取ることも出来ずに後頭部から落ちているのだ。
たんこぶは免れない。鼻血も出ている。
そこへ、鉄塊投擲の主が駆け寄ってくる。
「りり! 無事か!?」
「大丈夫だよ。ちょっと転けたくらい。ピンピンしてる。メモ帳も無事だよ。ほら」
アーシユルを安心させようと、着地が危うかった事は伏せつつ、宙に浮かせていたメモ帳を手渡し、ようやく念力の全てを霧散させた。
同時に、念力で出来たスライダーに僅かに残っていた水が、足場を失ってぱらりと落ちる。
「取り返してくれたのか……ありがとうりり。しかし……お前、空歩けたのか……と言うか滑ってたよな?」
アーシユルは、りりが滑り出した辺りを見返す。勿論そこには何も無い。
「いや、私も初めての経験だよ。咄嗟に思いついただけ」
「初めてでアレか……今度訓練しようぜ! アレが出来たんなら、もっと色々出来るだろ!」
アーシユルの目は、少年そのままという程に輝く。あまりのストレートさに、りりも笑みを零した。
「そうだね。思いの外、念力って凄いんだなって事が判ったよ」
念力、エナジーコントロール。
魔力を用いているだけで実質的にこれは物理現象なのだ。
執行者のイメージ通りに動き、そのイメージそのままを物理現象として発現する魔法。それこそが、念力の、エナジーコントロールの本当の力、その一端になる。
もっと早く気づいても良さそうなものだったが、他の誰も念力の使い方なんてものを知らなかったし、本来知っているりりの家族でさえも、りりが落ちこぼれ故に話さなかったのだ。そのおかげで、りりは少しズボラな一般人という枠に落ち着いていたとも言える。
しかし、この大陸で、このゼーヴィルという街で、シャチという人魚に、魔法の知識の一旦を知る者に出会い、それは一変した。
あの時に知った魔法の芽は、ここへ来て開花しはじめたのだ。
「あの空を滑ってたやつは念力なのか……後で詳しく教えてくれ……さて、だが先にこっちを片付けなきゃな。あと、りりの着替えもな」
「そうだね」
髪の毛から足先まで。分散したとはいえ、バケツ一杯の水をかぶっているのだ。ワンピースの裾を絞れば、ぴちゃぴちゃと水が落ちる程度には濡れている。靴の中も言わずもがなだ。
それはそれとして、2人の視線は示し合わせたかのように、地面で伸びる泥棒へと落ちる。
「さて……どうするかな」
「ここって取り締まりとか居るの? 警察とか」
「警察? 多分騎士団がそうなる。りりが泥棒を捕まえたっていうのをアピールするのもアリな気もするが……」
「するが?」
「魔人がヒトを害したっていう事例として取られかねない」
「……え?」
りりはゾッとした。
一度確かにヒトを、それも、他国のとは言え騎士団を攻撃しているのだ。それを騎士団の目に晒せば、今度こそ逮捕……と言わずとも、情報が騎士団から流れ、住民から私刑というのもありえない話ではないように思えたのだ。
「……逃げよう」
「いや、それは無理だ。完全にりりがやったところ見られてるだろ」
辺りを見渡せば、買い物客がぐるりと取り巻いてりり達を見ていた。
その誰もが、まるでバリアでもあるかのように、静かに一定距離を引いている。
不安から、呼吸が浅く、早くなってゆき、思わずアーシユルの袖を掴む。
「これだけ騒ぎになったんだ。直ぐに騎士団は……言うまでもなく来たな」
噂をすれば影が差す。
言ったそばから人混みが割れ、そこからゼーヴィル駐留の騎士団が駆けつけた。
剣と槍を担いだ者が2名づつだ。
「お前達! この騒ぎは何だ!?」
「……安心しろりり。あたしに任せておけ」
アーシユルはりりの背中を軽く叩き、不敵に笑い、鉄塊召喚ジンギの血を拭って騎士団を出迎える。
不安に思っていたりりだったが、アーシユルがとてもたくましく思え、少しだけだが安心したのだった。




