37話 金のなる木
「臭かったです……」
「へぇ、鼻も戻ってたのか。良かったじゃないか」
トイレの直後の会話だ。りりは羞恥心から敬語が戻ってきている。
「思えば海でも潮の香りとかしてましたよ……ええ」
普通に感じているものを意識するのは難しい。
いつから嗅覚が戻っているのかをいざ考えた時、それはキスをした後の気絶から目覚めた後だった。
当たり前に漂っている当たり前の匂いに今まで気が付かなかったのだ。
「で? 上手くいったのか」
「……いきました……ええいきましたとも。こんな使い方したの初めてです」
「良かったじゃないか。何処も汚れなかったんだろ?」
「そうですけど……なんか……辛い……」
デリカシーのないアーシユルの質問に、より一層嫌になったトイレ事情を思い出して涙目になる。
だが、アーシユルの助言があったからこそこの程度で済んだのも確かなので、複雑な表情を浮かべる他ない。
トイレから部屋へと戻り、ベッドへ腰掛ける。
足腰は本調子ではないので、移動だけでしっかりと時間が消費されてしまう。
「ところで、なんで私が寝たきりになってた時、その……下の処理とかしてくれなかったんですか? おかげで少し荒れてるんですけど」
感覚が鈍くなっているのでどうにかなっているが、デリケートゾーンから広範囲に痒みがあるのだ。
今は、それを気合で我慢している状態になる。
「悪かったよ……でも、覚えてないかもしれないが、ちょっと触っただけで悲鳴上げて暴れてたんだぜ? 念力のせいか物も飛び交うしで掃除が出来なかったんだ」
「それは……ごめんなさい」
無意識下でやっていた事だったが、紛れもなく自身のやった事なのだ。バツの悪い思いをし、素直に謝罪した。
「まぁ、汚れまみれになるハンターに綺麗好きな奴が少ないっていうのもあるからな。ちょっと一般人の感覚っていうのからは外れていたかもしれん」
「寧ろハンターこそ奇麗好きじゃないと駄目なんじゃ」
「何でだ?」
アーシユルは、本気で判らないという顔をして顎を触る。
「あー、細菌とかウイルスとかの概念が……」
「ウイルス……神も言ってたな。何だそれ?」
「えっとね……」
正しさは省略し、飽くまで判りやすいようにだけして細菌のことも兼ねて説明をする。
目には見えない程の小さな生き物が割と何処にでも居るという事。
体内で繁殖すれば害を引き起こすものもあるという事。
それは痒みだったり、腫れ物を作ったり、熱を出させたりという症状を引き起こし、最悪死に至るものまであるという事。
これらを聞いたアーシユルの顔は険しくなる。
「……目や鼻が死ぬ程痛くなったりとかもか?」
「それは……」
言わんとしている事は理解できた。騎士達の事だ。
モノはどうあれ、あれは間違いなくりりがやった事になる。
アーシユルは責めているわけではないのだが、りりはどうしても責められている気分になって落ち込んでしまう。
「はい……でも、具体的に何が起きたのかまでは……」
「魔法は感覚で使うって言ってたな……すまん。責めるつもりはなかったんだ」
「……うん」
アーシユルはベッドに腰掛けて、りりの頭を撫でる。
りりの、騎士に対する罪悪感は消えないが、それでも少しだけ心が軽くなった。
「という事は、手負いのハンターが後日死んだりとかっていうのはそれか?」
「さあ? 毒とかもあったりするんじゃ?」
「毒? 誰かが密かに殺してるって事か?」
「え? なんでそうなるの?」
話が食い違っている。
2人して、頭の上にクエスチョンを浮かべた。
アーシユルは少しだけ悩んでから、埒が明かないと、齟齬を埋めるために口を開く。
「りりの言う毒ってなんだ? あたしの持ってる常識では、毒って誰かが持ち込んでくる致死性の液体なんだが」
「えーと……液体もありますけど、毒って基本的に攻撃とか防御とかに使う生物由来の分泌物が多くて……」
「なんだと……?」
それは動物番組で仕入れた程度の情報だ。そこからの知識なので、生物毒の事をそのまま毒と言っている。
どうやって出来るのかまでは知らないものの、漠然とどういう生き物が毒を持っていて、それがどういう効果を及ぼすのかという知識があった。
「毒を使う生き物といえば、蛇とか蜂とかが代表格で、警戒色っていう、派手な色をした生き物が有毒生物であることが多いんだけど」
「うわー……本当かよ……凄い情報仕入れちまった……」
アーシユルは、そう言いながらフラフラと壁まで歩き、上手く翻訳機に当たらないようにしつつ頭をぐりぐりと擦り付ける。
奇行に見えるが、りりの齎した情報はこの世界に於いてのブレイクスルーなのだ。常識破壊の衝撃は強い。
「今までずっと魔物の呪いだって言われてたんだぞ……それが全部毒のせいって……」
「逆に、ここでの毒ってどうやって作られてるの? 持ち込まれるって言ってたけど」
「知らん」
額を壁から離して戻ってくる。顔は引きつったままだ。
「たまに毒売りってのが現れて、値段まちまちに売っていくんだと。何度か買ったやつが捕らえられた事もあるんだが、入手先の犯人像はどれも違うものだったんだ」
「ふぅん?」
「作り方を問いただした奴も居たそうなんだが、売ったやつは知らないの一点張りだったそうだ」
つまり、毎回違う人物が売りに来ているという事だ。
そして、毒の製法は不明のまま……。
「それよりだ。この事、誰にも言ってないよな? 嘘でもないな?」
アーシユルの目は血走っていた。
「う、うん……言うのも初めてだし本当の事だよ……私の持ってる常識がこっちでも通じるっていう前提があればだけど……でも、生き物なんてどこでもある程度変わらないと思うし、多分合ってる」
それを聞いて、アーシユルの顔が……あまり人に見せられないような笑みに変化する。
「ふ、ふは……ふはははは! この情報は売れるぞ! 金貨何枚くらいになるかなぁ」
「ア、アーシユル?」
「売るなら商人じゃないな……国相手だな……欲を抑え込んで冷静に……冷静に……」
そんな独り言を言いつつアーシユルは皮算用を始めた。今は見えない金貨の山を写して……。




