32話 淫魔の口づけ
月も出ない曇り空の下、涼しい夜風に黒と赤の髪が靡く。
りりは動けないのでアーシユルの方から口を重ねる。
お互いに気持ちを通じ合わせた熱のある二度目の口づけに、2人の理性は飛んだ。
本能の赴くまま、舌を絡ませて唾液を流し込み合う。
すると、先程よりもずっと強烈な痺れが脳を焼く。しかも、それは収まるどころかどんどんと強まっていった。
何も考えられない。
それは勢いでなされた先程の口づけの比ではない。
暴力的とまで言える快楽にどっぷりと浸かる。
いつの間にか右手がアーシユルの左手と絡み合っているのに気づくと、高揚感を高めていった。
左腕は動かないわ痛いわで、アーシユルも気遣ってかそちらには手を伸ばしてはいない。
逆に、手が動かなくて良かったと思った。動いてしまえばどうにかなってしまいそうだったからだ。
だが、実際には既にどうにかなってしまっていた。
感覚が無い下半身は別にして、そこから上はもうずっと電流が流れっぱなしになって、視界はチカチカと明滅している。
今アーシユルの方を気にする余裕がないが、ぼんやりと聞こえる息遣いに、なんとも愛おしい気持ちになっていた。
アーシユルがりりを思う気持ちが100とするならば、りりの方は30くらい。
一応告白をされたので数値は徐々に上がっているのだが……釣り合うにはまだまだ足りない。
りりはアーシユルを可愛いとは思っていたが、それは女の子としての評価だ。異性を見る時の可愛いではない。
もっと言えば、13歳という年齢でクリアメのようになるのだと意気込んでいたのが微笑ましいとすら思える程に意識していなかったのだ。
アーシユルの見た目は女の子。
だが、イタズラを仕掛けたり、目の輝かせ方や料理、行動のダイナミックさは完全に男の子。
そう思っていたのがほんの少し前まで……。
出会って数日。
高々数日の話だ。しかし、濃厚な数日だった。
アーシユルが狩りをしていた時と、トイレに行っている時以外はずっと一緒に居たのだ。
何度も心配をかけ、お互い助け合ってなんとかここまで来た。
だからといって、現時点でアーシユルを愛しているわけではない。
好きか嫌いかで聞かれると好き。しかし、それはライクでありラブではない……まだだ。
つまるところ、りりは今は流されて今行為に及んでいる……のだが、これには理由がある。流されやすいからという理由だけではない。
気持ちがズレて居るにも拘らず、2人が共に暴走している理由も同じ。
2人の脳髄は、焼け焦げる様な暴力的な快楽に打ちのめされ……ようやく口を離した。
アーシユルは、そのまま怪我人であるはずのりりの上にズルズルと身体を覆いかぶせてしまう。
単純に疲れたのだ。それも死ぬ程。
何が起きたのか?
2人のファーストキスは流れに流されたものだ。しかし、その威力は常軌を逸していた。
アーシユルの言っていたヒトの生態の一部……性快楽の話がここに繋がってくる。
ヒトの舌は興奮物質の受け渡しを行うに特化している。
口づけによる興奮物質を交換だけで強く興奮出来るように、快楽物質の受容体が多いのだ。
しかし、人の舌はそれ程ではない。その代わり、唾液中に大量の興奮物質を放出する。
結果、何が起きるか?
初めてのキスは、りりがパニクっていて興奮していなかった。興奮していたのはアーシユルだけだ。それでもあの威力だった。
りりがアーシユルからの興奮物質を受け取って僅かに興奮する。そして、お返しとばかりに大量の興奮物質を唾液中に放出する。
その時にキスは終わった……のだが、有ろう事かキスはもう一度行われた。
しかも、今度はお互いが合意の上にそれなりに興奮した形でだ。
アーシユルに届くのは、十分に興奮した上でヒトには考えられない量の興奮物質を含んだ唾液だ。
皮肉なことに、それを受け止めきれてしまうアーシユルは、りり以上の人外の快楽に打ちのめされる……のだが、受けた以上返すのが道理。
アーシユルは爆発的な快楽物質を受け取り、同量の興奮物質を返す。
りりはそれを受け取り、興奮し、更に量を増やしてアーシユルに返す……という無限上昇ループが構築されてしまったのだ。
つまり、[ヒト]と[人]の人種の差が引き起こした事故だ。
ヒトとヒト、人と人ならばこのような事故は起きない。
相性は最高にして最悪。
かくして、2人は息も絶え絶えになり、岩にもたれて動けなくなってしまう。
それは、この世界でただ1人これを引き起こしてしまえる、りりという名の魔人の[淫魔の口づけ]と言って相違のないものだった。
ただし、これは淫魔も腑抜けになって動けなくなってしまう。
2人は呼吸を荒くして意識を朦朧とさせる。
やがて、全くそのままの体勢で、共に眠ってしまった。
アーシユルの起動していた光ジンギは、可動限界を迎えて消え去り……日没後の海岸には、2人を残して波の音だけが響くのだった。




