25話 魔人の原点
黒く輝く雄々しい巨体が、月暈を発して静かに佇む。
その光景に、りりは一瞬痛みを忘れて目を奪われた。
「魔人だ……あいつ魔人だ……」
アーシユルは何度目かの、そして最大級の絶望の表情を貼り付けていた。
「月光を……背負う者……だっけ?」
「あぁ……綺麗だな……最悪だ……」
アーシユルの声は、絶望を一周回ったのか穏やかに発せられたが、一瞬後、何かに気づいたように目を見開く。
「りり! 『月光を背負う者』は狼だった! だけど人魚でも月光を背負えているんだ! つまり、魔法は種族の固有能力じゃないって事だ! お前にも月光は背負える! 高速回復だぞ! 腕も治る! 勝てるぞりり!」
自棄糞気味に叫ぶアーシユル。本当に勝てるとは考えていない。藁にもすがる思いで生きる可能性に全額賭けしたのだ。
負けた時に払うものは、2人の命と身体の全て……。
そんなアーシユルに、りりは力なく答える。
「でも私……あんな綺麗なの背負えたり出来ない……」
もう今出来る事といえば、精々が空に浮かぶ月を眺めるくらい。
空から降り注ぐ月光はただの特別な光。日によって不快になる時もあれば、穏やかに感じることもある光……自身がそれを纏うという発想そのものが出来ない。
再び痛みと共に遠ざかっていく意識の中……ふと、考える。
そう言えば、自分はいつから念力が使えたのだろうか? と。
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確かな事。それは、かつて猪に襲われる時まで念力を使えていなかったという事実だ。
忘れていた記憶が……浮上してくる。
それは子供の時の何をやっても楽しかった時代。
故郷の裏山で友達と遊んでいた時の事だ。
鬼ごっこに、かくれんぼ、色鬼、ケイドロ。
その時にしていたのはかくれんぼ。
簡単に見つかっては面白みに欠けると思い、少し山の中へと入る。
ここまでくれば簡単には見つからないだろうと太い木の裏に隠れた。
しばらく息を潜めるも、見つかるどころかこちらまで探しに来る気配すらしない。
心細くなり、皆の元へと戻ることにした……が、いざ大木から出てみると、辺りは知らない景色……しばらく歩いてみても元の場所に戻ることは出来なかった。
早い話、迷子になったのだ。
すっかり日が暮れて夜になり、木の枝であちこちを切ったり、転けて擦りむいたりといった目に会い、やがて涙目になってゆく。
それは、痛みからではなく、誰も助けに来てはくれないという心細さからだった。
そんな時、近くの茂みが大きく揺れて猪が現れた。
ウリ坊でも、動物園に展示されているわけでもない、野生の大人の猪だ。
子供の目から見てしまえば実際の大きさよりもずっと大きく見え、心の底から恐怖した。
山の中だ。近くに誰も居ないので、襲われれば助からない。
その時……りりは子供ながらに端的な死を覚悟したのだった。
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心が騒めき、そして冷たくなってゆく。
「そうだった……私が初めて使った超能力は……念力なんかじゃ……なかった……」
呟くように声を漏らす。
湧いてくるものは勇気などという生易しいものではない。
りりは正真正銘最後のアクションだと、負傷した左腕に代わって右腕を前に突き出した。
全身に怠さを覚える。
今直ぐに腕を下ろして目を閉じれば直ぐにでも眠ってしまい、二度と目が開けられないであろうと確信する程。
これがりり1人だったのならば諦めてそうしていたに違いない。
前方の空間に力を込める。
弱々しい念力により、左腕から流れ出ていたおびただしい量の血を、空中に集めてゆく。
「おい、りり……これって……」
アーシユルは何か言おうとするが、それは纏まらず、続く言葉は紡がれない。
ありったけの理不尽を込める。
何故異世界に来てしまったのか。
不満を込める。
何故貨物車に追われて急死に一生を味わった上に、魔人呼ばわりされなくてはいけないのか。
思考は感情により散らかり放題になる。
何故スマートフォンの中の思い出達は消えなければいけなかったのか。
何故ここの神はこんなに酷い事をするのか。
何故騎士達はあんなことになったのか……。
思考が収束してゆく。
何故……何故……。
「何で私には魔人って呼ばれる程の力があるんだろう……」
ぽそり、と呟く。
それにはきっと理由なんか無い。勝手にそう結論付け、空中の血の塊に理不尽を、恐怖を、恨みを、憎しみを……そしてとびっきりの害意を込めた。
やり方は合っている。騎士の時も……なにより、かつて猪と対峙した時もそうだったからだ。
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猪と対峙した時……。
ただの子供だったりりが取れた行動は後ずさる事だった。
だが、それも直ぐに大木に邪魔されて失敗に終わる。
人間という警戒すべき存在に対し、猪は息巻き、害意を発し突進の姿勢を取る。
種族を隔てているとしても生命の危機に関する害意だ。それは伝わり、りりはパニックになって、それ以上どうやって逃げるか判らなくなっていた。
そして悪路だろうが弾丸のように走る、猪という全身凶器がりりに襲いかかる。
「来ないで!」
りりはそう叫び、無意識に猪に向かって両手を突き出していた。
その時に見たのは、感じていたのは月の光。
そこは木の多い茂る山中だ。本当の月光が届いていたわけではない。
その光はりりにだけ……りりにしか見えない "光ではない光" 。
そんな光を見ながら思ったことは……。
あんたが病気だったら怖くないのに!
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念力で浮かべている血の中に、破滅を呼び込む恐るべき呪いを込めてゆく。
初めて使った超能力。それはどこまでも我侭で、そして暴力的な力だった。
その時に芽生えた……いや、元々持っていた力が、今この時、命の危機に呼応するかのように、その対象たる人魚へと向かって噴出する。
「カース……」
冷たく言い放ち、死の呪いが込められた血を……人魚へと向かって飛ばす。
しかし、りりは瀕死。いつ死んでもおかしくない。そんな人間が放つ呪いの力はとても弱く不完全なものだ。
呪いが込められた血は飛ぶには飛んだが、空気中でバラバラに拡散していった。
「……くそ……ぅ……」
何をやっても上手く行かない。
そう思い、悔しさに苛まれながら、りりは亡くなった祖父の言葉を思い出す。
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「夜はな、怖いもんを呼び寄せるんや。夜が深まれば深まるほど強く、月が輝くほど静かにな……やから、今度から夜は無茶したらあかん。お爺ちゃんとの約束やで」
子供の頃に聞いた話。もう二度とは聞けない話。
これは、りりが猪を撃退していつの間にか救出された後に聞いた言葉だ。
以降、迷子になった出来事そのものからを忘れてしまったりりには、呪いを操る為に使った念力だけが残った。
これは、りりが念力が使える "程度" の落ちこぼれと思われた故に伝えられなかった月見山という血筋の話。
りりの本当の名前は月見病 裏理。
これが、りりすらも知らない、魔人の隠された本当の名前。
日本にて古来より呪術と言われるもの。病を超能力にて操るという能力者の家系[月見山]。そこに一人娘として生まれたりりは……生まれながらの魔人だった。
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海水人魚。
りりによってシャチと呼ばれてしまったこの個体は、月光を背負い肉体を活性化させるという魔法が使えた。つまり魔人であったのだ。
そんな魔人であるシャチは、りりと呼ばれる黒髪の少女がヒトならざる力を──魔法を行使しているのを目の当たりにして警戒する。
間もなく飛んできた血の散弾。一見弱々しく見えるそれを危険と判断し、シャチは直ぐ様すさまじい速度で海中へ潜航し回避した。
そして、放置していては危険と判断し、りりに向かって速攻をかける。
初速は小魚にも勝る瞬発力。最大遊泳速度は海の中でも最高峰。しかも、そこに至るまでの速さは一瞬。
それは大型の生き物がやって良いものではない。
このシャチこそ、海において、そして最悪陸においても最強の一角を担う個体……そのはずだった。
シャチは海に溶けるりりの血を僅かに浴びた。たかがそれだけ。
だが、そのたかがそれだけで、目に激痛が走る。
シャチは思わぬ痛みに海水を飲んだ。りりが激しい害意を、呪いを込めた血、諸共だ。
途端にシャチの喉は焼け、鼻は潰れ、続くように腹には激しい痛みが襲う。
突如発生した痛みにパニックを起こすも、一度加速した勢いは止まらず、ほぼそのままの速度で瀕死の魔人、りりに衝突した。
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りりは海の中、左下方より、何にも比べる事が出来ない程の衝撃を受け、そのまま海面から5メートル程吹き飛んだ。
衝撃と共に、残っていた僅かな気力と意識は根こそぎ消し飛ばされ……そこで途絶えた。




