24話 最悪の存在
りりの肩、そしてアーシユルの掌からのちょっとした出血……たかがそれだけのものが背ビレの持ち主を呼び寄せていた。
2人は恐怖から氷を作る事もすっかり忘れて抱き合う。
「りり、りりぃ……」
「だ、大丈夫です。サメなら鼻を殴れば良いと聞きました」
「りり。違う。サメじゃない」
「……え? じゃあイルカ? なら……」
「阿呆! 人魚だ!」
「苦しい。苦しい!」
りりはアーシユルに力いっぱい締め付けられ腕をタップする。
鮫を殴るという苦し紛れの虚勢を張るも、アーシユルはこれを人魚だと言い放つ。
人魚なのは確かなのだが、それはりりのイメージする人魚のイメージとは大きくかけ離れていた。
視界に映るのは、暗い海中に蠢く巨体。
背ビレから逆算すると全長は5メートルを僅かに超えている。ジョーズで有名なホホジロザメよりも大きいのだ。
ふと、泡と共に背ビレを伴って巨体が消える。
月明かり一つしかない、夜の深まった海だ。いくら透明度が高かろうと、僅かに潜られただけで姿を完全に見失ってしまう。アーシユルが溺れた日中とは話が違うのだ。
姿が見えなくなった事で2人は恐怖心を更に増幅させていった。
人は未知を恐れる。直接的に見えるモノも恐ろしいが、想像力を掻き立てる分、見えない方が恐ろしいというものもままある。これはその典型だった。
「いやだよぉ、こわいよぉ、あたしま……だっ!?」「あ"っ!?」
泣き言を言うアーシユル。それを言い切る前に2人に強い衝撃が襲う。水中より襲い来る人魚の尾ビレの薙ぎ叩きによるものだ。
まるで丸太のような、太く逞しい尾ビレの一撃は、一発で容易く2人を引き剥がしてしまう。
弾き飛ばされたりりは、直ぐ様海中から顔を出す。
感じているのは打撃を受けたという実感と、どこかふわふわとした認識と燃え上がる闘争心だけ。痛みは多少感じているものの障害にはなっていない。脳内麻薬の作用によるものだ。
騎士に受けたピンポイントでの蹴りとは違い、面で受けた分まだ動けていた。
「った……アーシ……」
アーシユルの安否の確認をしようと目を開けると、突如月光が途切れるのを感じ、天を仰ぐ。
たった今2人を叩いたばかりの人魚が……既にりりの真上に飛び上がっていたのだ。
全長5メートル……重さにして2トンを超える巨体が海面から完全に離れていた。
しかし、りりは人魚という質量爆弾が落ちてくるという非現実感についていけない。口が勝手に、思ったことをそのまま呟く。
「シャチだ……」
白と黒に輝く巨体。
パッと見ると何処にあるのか判らないつぶらな目と、巨体な割に小さな口。
後頭部から首筋にかけては、水流を阻害しないように分厚い皮膚が伸び、腕や足先には大きなヒレを靡かせている。
それはりりの知るシャチの姿とは大きく外れるものの、シャチという生き物が亜人としての姿を手に入れたのならこのような姿をしているだろうというものを真芯で捉えていた。
「りり!!」
アーシユルの絶叫は激しい飛沫にかき消され、りりの元には届かない。
そして、流線型の雄々しい体躯が、凄まじい滞空時間をもってして横倒しに落ち……呆然として何も出来ないままのりりを押しつぶし海の中へと沈めた。
りりは脳ごと全身を揺らす激しい衝撃に、肺の空気を軒並み吐き出し、代わりにたっぷりと海水を吸い込み、一瞬で酸欠になり沈んでゆく。
1メートル沈み、ダメ押しに更に尾に叩かれてもう1メートル沈む。
パニックになってもがきたいと思うも、重ねて全身を襲う衝撃により身体が痺れて動くことが出来ない。
3メートル沈む。
肺に水が入っている為浮上できない。
4メートル沈む。
海面で、必死にりりを探すアーシユルを見上げる。
5メートル沈む。
大量の気泡と星々、それに月光の輝きを背景に、優雅で巨大なシャチ型人魚のシルエットが浮かぶ。
6メートル沈む。
意識が遠くなってゆく。
7メートル……。
人魚は月を背にし、凄まじい勢いでりりに迫った。
身体は衝撃により痺れたまま。
身体は僅かに動かせるようになってくるが、大量に水を飲んでいるので浮上もままならない。酸欠で意識を保つのもやっと……。
だが諦めない。
自分がやられてしまえば次はアーシユルだと確信していたからだ。
絶対に生きて戻ってやる! と、力を振り絞り左手を人魚の方へと突き出す。
この状況で何か出来るとしたら……それは念力……または、例の未知の魔法しかない。
それがどういうものであるのかも使い方すらも判らないまま、とにかく必死で力を込める。
……が、突如つき出していた腕に人魚の牙が突き立てられていた。
りりはあまりの事態に目を見開く。
たった今まで離れた位置に居たはずの人魚が、凄まじい身体能力を持ってして一瞬で距離を詰めてきて噛み付いて来たのだ。
小さく見えた口は、今は大きく裂けている。黒い肌故に見づらく、小さく見えていただけだったのだということを思い知った。
自分の腕が食われ噛みちぎられかけているという緊急事態に思考は鈍麻する。
血が海中に綿のように舞う頃……ようやく痛みがやってきた。
強すぎる痛みは炎を感じさせる程の熱を錯覚させる。りりは今、左腕を灼熱で焼かれるような痛みに曝されていた。
なんとか痛みに耐えようとするのを嘲笑うかのように、人魚は噛み付いたまま首を振るう。
腕の肉は面白いように抉れ、辺りに血の綿が一層増えた。
りりは海中であることも忘れて思い切り悲鳴を上げようとし、更に海水を飲んでしまう。
確実な死を意識した。
その時、バチッ。という、炸裂音が飛び込んだ。
水中なので正しくはガチッとしたクリック音に近い音。続いて「ギギイイイイイ」と、人魚から歯を軋ませる音を感じ取る。更に続いて二度の炸裂音。
電撃だ。
人魚を通し、りりも軽く感電した。
シャチは哺乳類に漏れなく肺呼吸。これが人魚であるというのならばそれは尚更になる。
そんな人魚を襲ったのは、どんなに弱くとも電撃だ。浴びれば、身体が一瞬硬直して空気を吐き出してしまう。それは、どんな生き物だろうと同じ。
海中で空気を吐くという事はそのまま窒息を意味する。
人魚は一瞬の混乱と麻痺から復帰し、慌てて海面へ向かって勢いよく泳ぎだした。りりの腕をその口に引っ掛けたままでだ。外す余裕がない程の事なのだ。
海面に出る直前。りりの腕が縦に裂けた。それにより、りりは人魚から引き離されシャチ型人魚と共に海面へと復帰する。
更なる激痛を伴う事だったが、海面に出ることが出来たので呼吸を整えんとした……が、その腹にアーシユルの鋭い拳がねじり込まれた。
無理矢理に肺が押し上げられたことにより、悲鳴の代わりに海水が吐き出されてゆく。
乱暴ながらそれは功を奏した。
激しく咳き込んだものの、ようやくわずかにではあるが呼吸が可能になったのだ。
「さっきは動揺したが、あたしは諦めが悪いんだ。雷撃は良いぜ。あたしの鉄塊投擲との相性も抜群だしな」
先程の電撃はアーシユルが浴びせたものだと理解し、頼もしく思った。
だが、そんなジンギが何処にそんなものが有ったのかが理解できない。
浮かんだ疑問、返事、感謝を投げかけようとするが……それは叶わなかった。
呼吸ができたという余裕から直ぐに痛みを思い出したのだ。
呻き声が勝手に上がる。思考の全てが激しい苦痛で支配されてゆく。
左腕の燃えるような痛みに、身体は寒気と吐き気を訴える。更には怠さと目眩。
貧血症状だ。
出血性ショックで気を失っていないだけマシだが、それも時間の問題だった。
そんなりりの様子を見てアーシユルは叫ぶ。
「おい、りり! しっかりしろ! どうした!? やられたのか!?」
月光しかない暗がりの中、アーシユルはりりの抉れた左腕に触れてしまう。りりはこの世の終わりのような悲鳴を上げた。
アーシユルは、手に伝わる裂けた肉の感触に顔面蒼白になり、ようやくここでりりが負傷していることに気がついた。
暗い中では、海に溶ける血など見えるわけもないのだ。
「ちぃっ!」
アーシユルは、直ぐ様ナイフで自身の服を切り裂き、りりの腕の根本をキツく縛る。
その応急処置により出血は少しマシになるが、りりはもう意識を飛ばさない事でもう必死という段階だ。
「りり! グライダーだ! グライダーで押しつぶせ! その後に雷撃を叩き込んだらいくら海での人魚と言えども……」
と、アーシユルはそこで言葉を詰まらせる。
りりはその行動のちぐはぐさを不思議に思い、意識朦朧の中、痛みを堪えながら視線を追う。
視線の先……海面には、シャチのようなシルエット。
それが、月暈ともいわれる月の周りにできる夜の虹を背負っている。
その光景は、どんな絶景や美術品にも勝るとも劣らないものだった。




