16話 魔人
「──! ──────! ─────────────!」
夜。荷台。
りりは外より聞こえる罵声により目を覚ます。
何を言っているのか聞き取れないのは、途中で一瞬目を覚ました際に、邪魔だからと額の二本角型音声変換器を外していたためだ。
不穏な空気を察知し、手探りで音声変換器を拾い上げ装備。フードを深めに被って状況把握に務める。
「うるせえ! 馬車には あたしの奴隷しか居ねえよ!」
これはアーシユルの声。
りりの感性から凄いことを言っている。アーシユルの口の悪さも相まって余計にだ。
だが、実際今りりはそういう体裁なので嘘は言っていない。
奴隷という前提から嘘なのはまた別の話だが……。
「チビには聞いてない。そちらの男性に言っているのだ」
これが罵声の持ち主。りりはこの聞いたことのない声で目が覚めたのだ。
「私はただの御者でして、詳しくは……」
「では見させてもらおう。事は大きいのだ。それに、どちらにせよお前達には拒否権はない」
アーシユルがギャーギャー言っている中、りりは近づいてくる足音に不安を覚える。
そもそもが奴隷の格好をしている上に亜人として扱われているのだ。相手の思想によってはろくな目に合わないのは目に見えていたのだが……。
不安は的中する……それも悪い方向に振り切れて。
馬車の荷台を覗き込んできたのは、軽鎧を纏った男性騎士……りりの……いや、魔人の追手だ。
目にはモノクル型マルチグラス。暗い中でも視界を確保する上、対象を見ただけで名前や種族を表示してしまう代物。
それを見て、りりは直ぐ様ダメだと悟った。
なぜなら、騎士の目に映るのは[ヒト(78%)]という、この世界には有り得ないデータなのだから……。
「居たぞ! こいつだ! 確かにヒトじゃない!」
「チッ! 大当たりか。捕らえるぞ!」
りりの視界に騎士が1人増える。
1人が馬車に乗り込み、狼狽えるりりの腕を掴み、乱暴に馬車の外へと放り投げた。
いとも容易く放り投げられたりりは、辛うじて受け身を取るも軽い擦り傷を作ってしまう。
「痛った……」
顔を上げて見渡す。騎士は全部で3人。
1人は、少し離れた位置でアーシユルと御者に対して抜剣して牽制している。
1人は、馬車からりりを投げた後、同じく抜剣して荷台から剣を構えていた。
1人は、りりの元へ拘束具を持って近づいてきている最中。
りりはどうにかしてこの場を切り抜けたいと思うものの、相手は武装した騎士……つまり治安部隊の公務員だ。
公的機関に対する攻撃は則ち反逆行為。武装をしているアーシユル達でさえ、彼らには抗議をしているものの抵抗を示していない。|普通はやるものではない《・・・・・・・・・・・》。当然だ。
そして、仮に暴れようにも丸腰のりりではどうすることも出来ない……はずだったのだが。
この時……ふと、りりは念力のことを思い出していた。
何か出来るとしたらそれしかない……と。
こちらへ来てから使ったのは、神子と会った際のただの一度きり……だが、調子が良かった。それなりの重量の金属塊を浮かせてなお余力があったのだ。
だが、剣を取り上げる程強いかと言われればそんな事はないように思える。
それでも、やるだけやるしかない……と、りりはネガティブな気持ちを振り払って、向かってくる騎士に手をかざした。
刹那。「動くな!」という恫喝と共に、腹部に強い衝撃が走った。
りりは衝撃に良いように弄ばれ、ワケも分からぬまま地を転がる。
少し……何が起きたのか把握できずにいたりりだが、横腹から来る激しい傷みと吐き気で瞬時に状況を理解した。
全力で蹴られたのだ。
男に本気で蹴られるというのは、今まで生きてきた中で初めての経験だが、小柄なアーシユルでさえりりの力の2倍以上はあるのだ。鍛え抜かれた男性のそれは、それを悠に越えてくる。
りりは耐えきれずその場で嘔吐した。
辺りにはむせ返るような胃酸の匂いが立ち込める。
その側では、ただの一撃で虫の息になり、痛みに蹲る哀れな生き物が転がっていた。
アーシユルが叫び、騎士がそれを恫喝する。
その声は、激痛に悲鳴も上げられないりりの元には届かない。
りりは口に付く吐瀉物を拭うことも出来ずにいたのだ。
痛む腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべ、ガクガクと焦点の合わない目で震えながら騎士を見上げる。
騎士の表情から読み取れたのは……警戒と加虐だった。
騎士は、神話の存在である魔人が、まさか蹴りの一撃でダウンするなど思ってもいなかったのだ。
大したことはないじゃないか……と、気を大きくし、りりという魔人へと近づいてゆく。
それが悪手だとは知らずに……。
りりは怯えていた。
痛い。熱い。怖い。どうしてこんな目に会わなければいけないの? ……巫山戯てんの!?
と、いきなりやってきた理不尽に、恐怖は凄まじい勢いで怒りに変わってゆく。
ムカつく。気分が悪い……こんな奴っ!
感情が怒りの一色で塗りつぶされた頃。りりは痛みを忘れていた。
潤いすぎて曇る視界に映るのは、憎き騎士と吐瀉物だけ。
負の感情をありったけ込め、念力により、視線だけで吐瀉物を持ち上げる。
それは、せめてゲロでも浴びせさせてやる! ……という、とにかく一矢報いたい一心……ただそれだけの気持ちだった。
本来念力を使うのに手は必要ない。手を使うのは、飽くまでもイメージの補強に便利だからという理由でしかない。
念力により持ち上げられた吐瀉物は、手というガイドが無いため上手くコントロールされず、ポタポタと少しづつ零れ落ちてゆく。
痛みに痙攣する怒りの形相で念力を使用するりり。
一方で、魔人が実際に魔法を使っているのを目の当たりにした騎士達は一瞬怯んだ。
それに呼応するかのように……害意という呪いを乗せた吐瀉物は射出された……。
コントロールの行き届いていない吐瀉物の塊は、自然と空中分解する。
それは、まるで勢いのない散弾銃のように、万遍なく騎士達にぶつかった。
これは苦し紛れの一撃……嫌がらせに近い何か……そうなるはずだったものだ。
騎士達は咄嗟に吐瀉物を防ごうとしたものの、1人は目に、1人は口にそれを少し浴びてしまった。
「うげ! 汚ねえ! 口にはいっ! ……舌が! いてぇ……いてぇぇぇ!」
「うぉっ!? 目に! 痛え! 染みる! ……ってぇ……痛え……いてええええ! んぐあああ!」
吐瀉物をほんの僅かに浴びただけの騎士達は、途端に尋常ではない苦しみの声を上げる。
アーシユル達の方を牽制していた騎士は、背後で突如苦しみだした同僚に驚き振り返った。
しかし、何故彼らが苦しんでいるのかが理解できずに固まってしまう。
だが、それは息を呑んで発せられたアーシユル達の声で氷解することになった。
「魔法だ……武装猪のやつだ……」
「魔法だな……おっちゃんなんて初めて見たぞ……」
アーシユル達は戦慄に鳥肌を立たせる。剣を向けられているとは別の理由でだ。
そして直ぐに口から不満が溢れ出す。
「くっそ。クリアメめぇ! おかしいと思ったんだ! 時間が無かったとはいえ詳しく説明しなかったのはこのせいかよ! あいつ魔人じゃねえか!」
「実在したんだな……」
「……チッ!」
騎士は、りりという確かな魔人の存在に、既にアーシユル達を牽制している場合ではないと同僚の元へと走った。
駆け寄った騎士が見たのは理解不能な光景だった。
同僚達が、何処にも外傷は無いというのに、痛みでこの世の地獄を味わって転げ回っているのだ。
「何をした……キサマぁ!」
騎士は、りりを……魔人を見据え、畏怖と敵意を込めた剣を構える。
他の4人は兎も角として、唯一この騎士だけがりりの魔法を見ていない。
そのため、騎士は警戒心を振り切らせ、戦慄の表情を張り付けていた。
魔法。それは、種族毎に使うものが決まっている。
例えば、猪の中にたまり現れる[武装猪]と呼ばれる魔物であれば、落ちている石や、折れている剣等を身に纏って突進する。
そもそも猪自体が相当に頑丈なのだが、そこに殺傷性のある攻撃が加わるので、接近戦だと手がつけられない。
だが、夜になると魔法が使えなくなるのが判明している。
出現したのならば夜に狩る……といったようなマニュアルが出来ていた。
しかし、魔人の使う魔法は完全なる謎だ。
騎士は、クリアメより一応ではあるが、念力という名の[武装猪]と似た魔法を使うという情報を手に入れていた……のだが、それではこの苦しみの説明がつかない。
この時点で、魔人の魔法は未知以外の何物でもないという判断が為される。
魔人は未だ腹を押さえて苦しんでいるという手負い……にもかかわらず、一瞬で2人を行動不能にせしめた。
騎士からしてみれば、ただでさえ神話の……伝説上の相手と対峙しているというのだ。
同僚2人が悲鳴を上げてのたうち回っているという目の前の現実は、恐ろしいなどという言葉で例えられるようなものではなかった。
しかし、一方でりりの方も困惑と恐怖を覚えている。
たかだか吐瀉物を飛ばしただけだというのに、2人が半狂乱でのたうち回っている……そう。りり自身、何故そうなっているのかが判っていないのだ。
だが、それを聞きつけて残りの1人が来てしまったので、そちらに思考を割くことが出来ない。りりは未だダメージから開放されてはいないのだ。そもそも考えが纏まらない。
改めて剣を向けられ、藁にも縋る思いで念力を使い、騎士の持つ剣を奪おうとする……が、それは剣の刃をカタカタと鳴らす程度に終わった。
神子の所で使った時よりも、遥かに念力が弱まっている。
りりがその事実に気づいた時に同じく、騎士は剣から伝わる妙な振動に危機を感じ、焦りと恐れに身を任せて斬りかかろうとした。
「キサマぁ!」
「ヒッ!」
りりはギュッと目を瞑って身体を硬直させ、怖い時には本当に「ヒッ!」とか言うんだ……等と、どうでもいい事を考えていた。
と、その時。
バチッ
「んがっ!?」
空気の割く放電音と共に、蛙が鳴いている途中に潰れたかのような悲鳴が上がる
振り下ろされるはずだった剣は騎士の手から零れ、地面に落ち、心粋な金属音を当たりに響かせた。
バチッ バチッ
と、更にもう2回。悲鳴も同じ数だけ。
りりは不思議に思い目を開けると、全身を強張らせ、立ったまま固まる騎士の姿が目に入った。
感電している。
「雷撃ジンギだ。これでちょっとは動けない……ぜ!」
言いながら、アーシユルは手に持った鉄塊で、倒れそうになる騎士の顎を殴り抜けた。公的機関の代行者である騎士……それに手を出すのは有り得ないことにも関わらずだ。
顎が砕ける音がして、騎士はその場に膝をついて意識を失う。
「あー、やっちまった……これであたしも犯罪者かな……りり、動けるか?」
そう言うアーシユルは、手に持った鉄塊をポイと放り投げ、どこか誇らしげにしてりりに向かって手を伸ばした。
「ありがとうございます……でも……痛くて……できれば肩を貸して欲しいです……」
「おう……おっさん。あたしらが乗ったら直ぐに出してくれ」
「ああ」
アーシユルは、掠れた声を出して苦しむりりを抱え、トナカイ馬車の荷台へと連れ帰る。
それを見送るしかない騎士の2人は、怨嗟の声を上げながらのたうち回って睨んだ。
憎しみの視線を背に、立派な犯罪者になった亜人逃がし屋一行は、この場を後にして行った……。




