5、今日、あなたは私を捨てる
翌朝、空が白み始めた頃、自分の部屋の机の上にカレンデュラのブローチを置いた。
入団時にシリウスがくれたものだが、魔術師団のローブにも、私服にも、常に身につけていたものだ。
透き通るようなサファイアとダイヤが、精巧な金細工で作られたカレンデュラの花に添えられ、一見して高価なものだと分かる。
元々ネックレスとか指輪を私に寄越そうとしていたようで、普段からそんなものつけないのだから、恥ずかしくて絶対つけないと言ったらブローチになって贈られてしまった。
こんな高価なものいらないと言ったけれど、普段おしゃれのひとつもしないのだから、持っていろと言われ、それで喧嘩にもなったのだけど。
だって、私なりに身綺麗にしていたつもりだ。
ダサいと言わんばかりの言葉にイラッとしたのはしようがないと思う。
口答えしようとする私に、本当は『一度きりの防御の魔法』が発動する魔法具だとシリウスに言われた。
魔術師団に入団したのも心配してくれているのは知っていたけれど……。
目を丸くする私に、『黙って身につけていろ』と言われた時の彼の真剣な表情に、心臓がうるさく騒いでいたのを思い出す。
甘い過去の記憶に、ふっと口元が緩むも、どこか自嘲気味だった。
――いっそのこと踏みつけてしまおうか。
そんな凶暴な感情が胸の中に渦巻き、ぎゅっと目を閉じて何とか心を落ち着かせようと深く呼吸した。
あの日の幸せな気持ちを持って行くことほど未練がましいことはしない。
カレンデュラに添えられたサファイヤがどうあっても彼の瞳を思い出させるだろう。
二年暮らした寮の部屋に染みついたオレンジの精油の香りがしてふっと息を吐く。
この香りも、私が好んで使っていたものだけど、シリウスが好きだと言ってからはこればかり使っている。
「ほんと、単純……」
ふっと笑い、窓から見える景色に色々な思い出が頭の中に溢れ始めた。
姉が神殿に通い始め、寂しい公爵家での生活から抜け出せた四年前。
たくさんの仲間と過ごした日々も……。
その思い出の中には、いつだってシリウスがいた。
こんな日が来るなんて、夢にも思わなかった。
一週間経ったのに、あの日のあの二人の抱きしめ合う光景が、あまりにも鮮明に脳裏にこびり付いて離れない。
彼に『愛してる』と、言って欲しかったわけじゃない。
『結婚しよう』と言って欲しかった訳でもない。
ただ、もう一度、貴方の笑顔が見たかった。
いつも私に向けられていた、あの抜けるような青空みたいな澄んだ目に、私を映して欲しかった。
あの腕の中に抱きしめて、欲しかった。
もう泣きたくないと思うのに、ひとりぼっちの部屋では、暗い感情だけが込み上げてくる。
「何が、『行くな』よ……」
あの日、竜谷に行くといった日、必死で引き留めてくれた彼の熱い腕が忘れられない。
裏切られたことが辛いのか、彼と一緒になれなかったことが辛いのか、もう分からなかった。
そして、私は視線をブローチに戻すことなく、まとめた自分の荷物を持って部屋を後にする。
今日はシリウスの誕生日。
彼らの婚約が発表される日だ。
――今日、あなたは私を捨てる。
***
「……何してるの?」
ヴァスにダン、ビアンカにレクスがいかにも『ザ・遠征』といった大きな荷物を抱えた格好で寮の門の外に立っている。
何だかワイワイと楽しそうに盛り上がっているので、感傷に浸りながら自分の部屋を出て来たのに拍子抜けしてしまった。
全員まるで今から遠足にでも行くかのような表情だ。
ひょっとして私の代わりに魔物の調査をこの人数ですることになったのだろうか。
何かあった時のために二人は残っておかないといけないというのに。
「何って、俺たちもここを辞めようかなって」
「は⁉︎ 何言って……!」
ヴァスの言葉に驚きの声をあげるも、レクスも笑顔で頷く。
「そう、僕も実は他国の魔術関係の研究室に誘われてたんだけど、なんかここが居心地良くて迷ってたんだよね」
「俺は、実家が国境に接してるからな。ちょいちょい兄貴に戻ってこいって言われてんだ。このタイミングで戻るのも悪くねぇかなって」
「私も、皆がいなくなったらつまんないじゃない? 第二魔術師団にも有望そうないい男もいないし。私に釣り合う男を探しに行ってみたいと思ってたのよ」
ビアンカは優しく微笑んで、私の頭をよしよしと撫でている。
「なんで……。第一魔術師団のみんなが抜けたら……何かあった時にどうするのよ」
「あ゙? お前昨日公爵に言われたこと忘れてんのか? 『代わりなんていくらでもいる』って言われたんだぞ? 俺らは」
「ダン。代わりがいくらでもいると言われたのは私よ。貴方達じゃない」
ダンは苦虫を噛み潰したように言うが、父は彼らを馬鹿にしたのではなく、私に言ったのだ。
「アリア。我らが副師団長に、『誰でも代わりがいる』と言われたら僕らの立場なんてないに決まってるだろう?」
普段は穏やかなレクスが、声は柔らかいのに、不穏な空気を流している。
「そうそう、レイルズ公爵が今後魔術師団と白魔術師団の管轄を担当するって言われてあのままあそこにいようかなって思う奴なんていねーよ。しかも、シリウス師団長まで辞めるってんならもう誰が統率すんの? って感じだしな」
「ダンの言うとおり、俺たちは、はっきり言ってエリートだぞ? 選ぶ権利はこっちにあるってことだよ」
ドヤ顔で言うヴァスの言葉を信じられない目で見つめた。
「それに、俺達は期待してたんだ」
「え?」
「そうそう。僕ら、あれだけ牽制されてたのに、何なんだって感じだよね」
呆れたように話す彼らの会話が理解出来ず首を傾げる。
ダンとヴァスとレクスが三人『うんうん』と頷く姿をビアンカは呆れ顔で見つめた。
「牽制って何が?」
「ま、とにかく私たちはシリウスにも怒ってるってことよ」
そう言って、ビアンカが私の頭を優しく撫でる。
「アリア」
「え?」
不意に真剣な目でビアンカが私の顔を覗き込む。
その瞳はとても優しくて、包み込まれるような温かさがあった。
「ごめん、あたしあんたのお姉ちゃん嫌いなんだわ」
「は⁉︎」
またしても予想だにしない言葉に思わず大きな声が出る。
「え? は? ……何を急に……」
「いや、最後だし言っても良いかなって。だってさ、完璧な聖女だか何だか知らないけど、苦手だったのよね。アリアはお姉ちゃん大好きだから言わなかったけど。あるじゃない? なんか癪に障るっていうか、馬が合わないっていうか。そしてこの一件が決定打ね」
「ビ、ビアンカ……?」
やれやれというふうに話すビアンカをポカンと見ると、彼女がふっと笑う。
「あんたは、みんなが『姉様のこと好き』って思ってるかもしれないけど、あたしは好きになれなかったから。みんながみんな『聖女』様のこと好きってわけじゃない。少なくともあたしたちはあんたが大好きだから……それにね、アリアは白魔法がすごいと引け目を感じてるかもしれないけど、あんたの魔術すごく好き」
「ビアンカ……」
「無駄がなくてキラキラして、ずっと近くで見てたかったのよ。だから、自信を持って。出来ないとか、ダメだなんてここの誰も思ってないから。『姉様』に負けてることなんて何もないから」
ね? と綺麗に笑ったビアンカの言葉に涙が滲む。
「ビ……ビアン……」
「アリアは『姉様』のこと嫌いになれないかもしれないけど、文句の一つぐらいぶつけたって良いんじゃない? もちろんシリウスにも」
もう、私の滲んだ視界にビアンカの美しい顔は映っていなかった。
「う……っ、ねぇ様の……シリウスの……バカ」
泣きながら俯いて言った私の言葉にダンが「声ちっさ!」とツッコミが入り、キッと顔を上げる。
抜けるような青空の中、寮の東側から覗く王宮を睨みつけた。
「ね……姉様のバカー!! シリウスのバカー!! あんたまじで本当に許さないからね! バカバカバカー!」
お腹の底から声を出して力の限り叫ぶ。
「祝福なんてしないんだから! シリウスなんて〇〇で**で、⬜︎⬜︎なんだからー! だから……う……うわあぁぁああん!」
「公爵令嬢の口から出る言葉じゃないね」
「お淑やかのかけらもねぇな」
そんなレクスとダンの言葉が本当は温かいのを知っている。
声を荒らげて泣く私の背中をビアンカが優しく撫でると、私はぎゅっと彼女に抱きついた。
「幸せに、なんなさいよ」
彼女の言葉にまたさらに声を荒げて泣いた。
こんなに私は泣き虫だっただろうか。
帰る場所も無くなってしまったと思っていたけれど、この心優しい仲間の存在は今後も私の心の支えになることは間違いないだろう。
魔術師団に……魔術師団学校に入って良かったと、今改めて私は思った。
失ったものばかりではない。
二度目の人生で彼らの命を守れたのだ……。
泣き止んでからも、なかなか足が進まなかった私に気を利かせたレクスが「じゃあ行くね」と東の道に去っていくと、ダンは西へ、ビアンカは北に。別れを惜しみつつも、それぞれが自分の道へ足を進めて行った。
寮の門に残ったのはヴァスと私だけ。
「ヴァスはどこに行くの?」
「俺はジダルに行くから、……」
ジダル王国はここから南に位置する隣国で、竜谷を過ぎた先だ。
私の手を引っ張りながら笑顔で竜谷方面に歩くヴァスに、わざと聞こえるように大きなため息をつく。
「ねぇ、ヴァス。みんないなくなって今更だけど、本当に貴方たちを巻き込みたくないのよ……、今からでも戻れない?」
「バカ言え。あんなパワハラまみれの職場が俺に合うわけないだろ。ジダル王国の魔術師団にでも就職するか、その奥の魔物被害の多い領地に売り込みに行っても良いな。何にせよ俺の実力なら引く手数多だろうからな」
「……うん。まぁ、そうね。その自信がどこから来るのか分からないけど、羨ましい限りだわ」
自信満々のヴァスは満面の笑みを浮かべてこちらを見る。
「最後の副団長との旅を楽しむか」
「そうね、私も最後の遠征気分を楽しむわ」
そう笑って、私は竜谷に続く道に足を進めた。




