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影食いリルマ  作者: 雨月
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白井海編:狂気に歪む世界

 二月が迫る。

 後期の試験は近かったが、俺は現実逃避して一日中遊び倒していた。

 この世界で夢を見つけることは多分に難しく、そもそも夢という言葉自体がまやかしだ。夢と、目標などという言葉を作った人間は後先の事を考えていなかった。より光り輝くものは見方によってはより深い闇を生む。

 どんなに物事を否定しても、俺は後悔することになる。何も行動を起こさなくても、何も行動を起こさなかったという行動を起こしたことになり、その選択がいい結果に結びつくことはない。

 もし仮に、何もしなかったが最良の結果を産んだら、人は怠惰の船に乗り込んで堕落の海へと向かう。

 勉強をせず、遊びまわった日の帰りの事だ。

 市中が一望でき、また綺麗な夕焼けを拝める丘の上の公園を通っていたら知り合いが複数体の影に襲われていた。

「白井っ」

 俺はたまらず駆け出した。こんな突発的な事はこれまで初めてで、そんなことが起こる時は必ず、俺の隣に誰かが居てくれた。まるで誰かが見守ってくれていたかのように、俺は無事であり、被害はほとんどなかったんだ。

 だが、この一瞬は、ここだけは俺が何とかしなければならない。決意をしたのは一瞬で、俺の手に、気づけば影を容易く切断できる巨大な影の肉切包丁を握りしめていた。

 軽く驚いたが、好機だと思い、そのまま影に躍りかかった。

 抵抗する影の胸に包丁を突き刺す。

 その行為は赤子の手を捻ることよりも楽だった。俺が相棒と呼んでいた人物も、このような児戯を続けていれば、時期に飽きて鬱憤が溜まってしまう事が容易に想像できる。

 すぐにまた、別の影へと迫り、得物をねじ込む。そして次、また次と大切な人を襲った連中を消してやった。

 どいつもこいつも、俺が襲いかかった相手はすぐに動かなくなり、消えてしまった。

 初めての割には、こんなものかという失望感に似たものを抱いた。何か物凄く楽しいことだと錯覚していたのかもしれない。

 心がとても冷え切っている。冷え切って、いいことはあまりない。

「白井、怪我はないか?」

 それでも、当初の目的は達したのだ。

 守りたいと願った相手は無事に、生きている。俺は自分のためにではなく、誰かを守るために事を成した。

「助かりました」

 助け起こすと、俺の手に持っているものを見ている。

「それ、なんですか?」

 なぜか緊張しているようで、空気が張りつめだした。

「これか? 俺もよくわからないんだが、多分、手帳の力が出たんじゃないかな」

 俺の答えに不満があったのか、不快そうな顔を見せて俺から離れる。

 その態度に、むっとしてしまう。助けてやったのに。そんな高慢な気持ちが湧きあがった。

「……あなた、誰ですか」

「え?」

 言葉が耳に入り込んできても、たとえ判別できる言葉の羅列だったとしても、理解が出来なければコミュニケーションは成り立ちえない。

 俺を誰だと睨む白井は、俺の知っている白井海だ。

「啓輔さんじゃ、ありませんね?」

「何、言ってるんだ」

 困惑するしかない。否定された時、世界が歪んだ。

「俺は、右記啓輔だ」

 相手に宣言するよりも、自分に言い聞かせる感じになってしまった。

 そして俺の答えは、白井にとって受け入れたくないもののようだ。

「白々しい事を。啓輔さんがそんな邪悪なものを持っているわけ、ありませんっ」

 邪悪という言葉は一般人が知っていたとしても、死ぬまでに使わない漢字として有名だと言われたら納得してしまうほどである。

 この状況でもまだ、どこか現実逃避し続けている俺に対し、白井は違っていた。俺を、明確な敵として、認めたくない相手としてとらえている。

「いってくださいっ」

 数体の影を動かし、俺を襲うよう指示する。

 視線が交差し、俺は白井がこちらを殺すつもりだという事を知った。

 おかしな話だ。これまで、自分を殺そうとしてきた相手に会った事なんてないのに、殺意を知っているなんて。

「……気でも触れたのか、白井っ」

 このまま一方的に殺されるつもりはなかった。

 俺には権利がある。どうして俺が白井海によって殺されなければならないのか、相手に尋ねる権利だ。そして、それを果たすための手段がある。

 さっきは海を守るために使用した力を、自分に使うのだ。俺の右手に握っているものは、何も叩いて音が鳴るおもちゃってわけじゃない。

 跳びかかってきた影に一撃を入れ、さらに迫る影の首を落とす。

 自分でも恐ろしいほどその所作は手馴れていて、どこか懐かしむような感覚さえ覚えた。握られている獲物は俺の手によく馴染む。

 残りの影もさばき、俺は防御から一転、相手に攻め込む。

「いくら手帳の力を手に入れたとはいえ、おかしな動きを……」

 一瞬目が合う。その目には怯えが見て取れた。

「終わりだな」

「くっ……」

 焦った表情でさらに影を出す。相手が俺に来るよりも先に白井の懐へと入り、そのか細い首を左手で抑え、力任せに押し倒す。

 倒す時の勢いをプラスさせ、刃物を、影の滴る包丁を深々と突き刺した。どこに刺さるのかを確認する必要はない。

 もはや、俺が握っていた包丁は身体の一部だ。狙った場所は、絶対に外さない。

「白井、俺はな、右記啓輔だよ」

 これまで味わったことのない、手ごたえのない感覚。満足できるはずもない、欲求へのごまかし。お腹が減った時に水でごまかすのと変わらない。

「そう、ですか」

「ああ、そうだ。びっくりさせるんじゃないよ、まったく」

 地面に根元まで刺さったままの包丁を無視し、地面に押し倒した白井を立ち上がらせる。

「怪我は?」

「していません。大丈夫です」

 その表情はそれでも暗い。

 認めたくない現実に直面しているようだった。

「そうか。よかった。ところで、頭の方は冷えたか?」

「……はい、すみませんでした。ただ、このまま殺されるんじゃないかという恐怖はまだ感じてます、あなたに対して」

 嘘偽りのない震えた声だった。手も震えている。

「俺が……俺が怖いってのか?」

 白井海の頭は冷えていない。こいつは、間違っている。

「はい」

「……ばかばかしいな。俺は帰るよ」

 いったい、白井に何が起こったのだろうか。それとも、あちらの言う通り、俺の方が何かおかしいことになっているのかもしれない。

「こんなの、あり得ません。認めない。認めたくない。違う、絶対に違う。でも、そうだし、なんで、こんな。嫌だ、嫌です。私は、どうすれば、けど、あれは、あのままでは……」

 人は容易く壊れるのだろうか。去り際に聞こえてきた知人の声に、かすかな恐怖を覚えた。

 しかし、今の俺に出来ることはない。より、相手を刺激する結果を招くだけだ。何もしないことも、起こすべき行動の一つとして存在する。

 自宅に帰り、三つ折りに畳んだ布団に腰を下ろす。やけに疲れた気がした。単純に、運動不足に違いない。あと、心もひどく疲れている。

 理由は簡単だ。大切だと思っていた相手にあんなことを言われたのだ。

「案外、メンタル弱いんだなー」

 出来るだけ軽い口調で口にしてみても、その疲れが癒えることはない。あり得ることはないが、俺の気持ちは別の世界が存在するのなら写ったりするんだろうか。

「……ん?」

 視界の端に、白井が入り込んだ。瞬きをすると消えた。幻覚らしい。

「やっぱり、疲れているのか」

 再度瞬きをする。白井が窓の方を見ている。こちらには背を向けていた。

 そして気づけば、俺の右手には影の滴る包丁が握られている。

 瞬きをする。白井は消えていない。

「これを刺せば、あの幻影を殺せば……完全に消えるかもしれない」

 自分でも驚くほどの冷たい声が出ていた。

 再度、包丁の柄を握り直す。これはいい物だ。まるで自分の体の一部のような気がしてならなかった。

 瞬きをする。

 幻覚は振り返り、目を大きく見開いていた。誰かに襲われると思ったのだろうか。

「……人の部屋で、あの女は幻覚になろうと迷惑をかけるのか」

 俺の手に、もう包丁は握られていない。代わりに握っているのは文庫本だ。気まぐれで買ったもので、あの時、白井もいた気がする。変わったものを読むんですねと笑っていたっけな。

「くそっ……」

 もう一度瞬きをする。まだ消えてはくれなかった。あの胸に包丁を突き立てれば、消えるのだろう。間違いないと誰かが脳内で叫ぶが俺は首を振った。

 幻覚に襲い掛かるほど俺は壊れちゃいない。いや、逆かな。壊れた人間に心は届かない。

 もう一度瞬きをすると、幻覚は消えた。俺は一つ、選択肢を消してしまい、代わりに別の物を選んだことになる。何を消して、何を選んだのかを説明することは出来ないが。

 それと同時に、玄関の開く音がした。誰かが来たらしい。

 チャイムを鳴らす前に、玄関の扉を開ける相手だ。居留守をつかっても、ばれるだろう。下手をすると、どこに逃げても追いかけてくるに違いない。

「白井……」

「啓輔、君」

 彼女の右手には、光を受けて鈍く光る包丁が握られている。次の瞬間には駆け出し、俺へと迫る。うちの廊下はそんなに長く、そして広くはない。

 俺を殺すつもりだ。

 身体にぶつかってきた白井だったが、相手の足を踏んだおかげで凶刃は空を切る。俺はその根元を上手く握ることが出来た。

 上手くできたのも、手帳の力だ。これは俺本来の力じゃないが、使えるものは使っておこう。

「あなたの事が好きです。だから、死んでください」

「おかしいだろって、脈絡なくてさ」

 白井の腕をひねり、包丁を落とす。蹴り飛ばして棚の下に滑り込んでいった。もう、凶器はない。

 ない、はずだった。俺の右手に、影の包丁が握られている。

 もし、包丁が喋ったのなら言うだろう。この女を刺せ、じゃないとやばいぞと。唆すつもりなのだろうか、おかしな話だ。

「あり得ないな……」

 俺も包丁を放り棄て、相手を組み敷く。

 白井は抵抗しなかった。

 俺が放り投げた包丁は、消えている。

「……冗談にしては、性質が悪すぎるぞ」

「啓輔君……」

 思いつめた表情の白井に、どう声をかけたものだろうか。

 だからといって、力を緩めたり、隙を見せたら殺されそうだった。今生きているからと言って、五分後もその保証はない。

 一瞬をさぼることで、五分後を失くすことだってありうる。

「どうしてこんなことをしようとしたんだ」

「啓輔君が好きだからです」

 嘘でもなんでもない、心からの答え。

「その考えは、病んでるよ……俺も、白井の事は好きだけどさ、殺そうなんて思わない」

「私が狂った、ずっと狂っていたとしても?」

「ああ、たとえ、狂ったとしてもありえない。いったい、何があったんだよ」

「その凶刃は、出しちゃ駄目なんですよ」

 まるで親の形見でも見るような目つきだった。恨みの根は深く、それを消すには人の一生では足りない。

 いったいどうして、そんな表情が出来るんだ。

「どうしてそう思う?」

 俺は同時に海の身体を触る。女性の身体は柔らかい。

 しかし、探しているものは見つからなかった。

「……残念ながら、スマホは落としていますよ」

 俺のスマホは、部屋にある。このままでは、助けを呼べない。

「もし、スマホを持っていれば私はあの時点でリルマさんに連絡を入れて、今日を終えていた事でしょう、何も知らずに」

 そうか、だから白井は影に襲われても助けを呼んでいなかったのか。

「さぁ、啓輔君。先ほどの話に戻しましょう」

 いつだったか、白井の瞳に映る色は、どこかで見たような狂気をにじませたそれだった。

「影が滴るものは一度でも人を殺めています」

「……俺が人を殺したと、そう言いたいのか?」

「はい」

 迷いはなかった。

「ところで、啓輔君、お触りはもうおしまいですか?」

「当たり前だ」

「続けてもいいんですよ?」

 即答される。当然、無視する。

「俺は殺しちゃいない」

「忘れているだけですよ。啓輔君は、いずれ狂って、人を襲うでしょう。私はそれが、嫌なんです。認めたくありません。あなたが狂う世界なんて、汚らしくて怖いんです」

 俺は心の中でため息をついた。

 一般的に言うのなら、いいや、今のこの状況だけを見れば狂っているのは白井海だ。

 俺は絶対に、狂っちゃいない。

 しかし、俺の得物を見た以上、今後海は俺を狙い続ける。もしかしたら、手段を選ばず知人にまで被害を及ぼすかも……それはとても、嫌な話だ。手帳の力だと証明するには他人に手帳を渡す必要がある。そして、危険すぎる行為だ。唯一の抵抗手段を失い、滅多刺しで殺される。

 結局のところ、話はこのままいけば平行線。相手が納得してくれる条件を出し続けなければならない。

「……俺は、お前のわがままに付き合ったんだ。今度は、俺のわがままに付き合え」

「わがままとは、何でしょうか?」

「俺と一緒に生活して、本当に俺が狂っているかどうか判断するといい」

「……それが?」

 証明するに足りるのか、違うだろうと白井は言っている。

 俺の心の中で、もういっそのことこいつを警察に突き出すべきだと誰かが告げる。お前が普通の人間ならば対処できまい。出来るとしたら、影食いの関係者。そして、おそらく白井は……良くて軟禁されるだろう。

 白井海という人間に会えなくなる。それは耐えられなかった。定期的に海を見ないと、俺はおかしくなるんだと思う。

 これは、俺がおかしくなったからではない。一度海は俺の中に入り込んだと言ったことがある。俺はそれを信じているし、白井も認めるだろう。俺から出て行った白井はごく普通と言える人間に代わっていた。

 考えられることはいくつかある。だが、有力なのは二つだ。一つ目は、単純に改心した。今一つ、信じちゃいない。二つ目は、俺の中に狂った部分を残していった、だ。

「啓輔君、黙り込んでどうしました?」

「……考えていただけだ」

 一瞬のさぼりだった。その気になれば、逆転していたかもしれない。

 海が何もしなかったのは、俺の提案を待ってくれているからだろう。

「共同生活する間、俺は一切刃物を持たない。俺が刃物を持ったら、刺せばいいさ。これでどうだ?」

「うーん……」

 どこか楽しそうな表情だった。

 場違いだ。

「もっと、譲歩が欲しいですね」

 満面の笑みを浮かべていた。彼女はこの状況を楽しんでいた。

「譲歩だぁ?」

「そうです」

「どんな?」

「ふふ、そうですねぇ」

 そういって、目を閉じ、黙り込んだ。

 きれいな顔をしている。俺がどうして白井に惹かれてしまうのかはわからない。

 単純に好きだから、だろうか。とてもそれだけだとは思えなかった。

「キスしてくれても、よかったんですよ?」

「こんな状況で誰がするか……そんなことより、お前の提案は?」

「今すぐに私から離れて、目を閉じてください。そうすれば、今、提案した啓輔君だけを、一回限り信じます」

 包丁を持たれて、刺されたらそこで終わりだ。

「いいだろう、白井の条件をのんでやる」

 だが、これは、言いよどんではいけない。

 白井の問いかけは、相手への信頼を意味する。遅れて答えれば、打算的、もしくは腹の内を探ろうとしていると受け止められる。

 俺は白井から離れて目を閉じた。

 本当に相手の事を信頼しているのなら、この時間はただの休憩時間だ。何か悪戯されるかもしれないと思いつつ、楽しげに眼でもつぶっていればいいさ。

 例え、蹴とばした包丁を探す音が聞こえても、だ。

 包丁を見つけたらしい海は、こちらへと近づいてきた。心が冷えるほどの息が、耳に当たる。

「ねぇ、啓輔君。海って呼んでください」

 落ち着いた声音だった。それでいて、そのうちに興奮を隠している。

 どんな表情をしているのか気になり、目を開けようとする。すると、喉に何か冷たいものが走った。そして、熱くなった。

 薄く、包丁で喉の皮を切られたらしい。

「私がいいと言うまで、待ってください。もし、目を開けたら刺しますから」

 悪い子にはお仕置きが必要ですからねと口走る。

「わかったよ、海」

「これから……、これからずっと、今から先、末永くお願いしますね、啓輔君」

 海に口づけされて、俺は今日から続く明日を願った。

 俺はこの先、一瞬たりとてサボれないのだろう。


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