白井海編:まどろみの世界
後期の試験が近づいてきているため、俺はこれまで大学で書き留めていたノートをせっせと復習していた。この抗議の試験は持ち込みオーケーだからそんなに気張る必要性はないんだが、教科書の方は少々分厚いからな。どこから探していいのかわからないし、苦労しそうだ。コピーして乗り切れるイベントじゃないな。
日中に影食いが無くてよかった。もし、講義中なんかに影食いのために来いと言われたらどうしようか迷っていたよ。ま、たまにサボっていたけどな。
つい、ノートの端っこの方に落書きをしてしまう。カブトムシのつもりだが、ゴキブリに見えてしまった。絵心はガキの頃からなかったから進歩のなさがむなしいね。
手を止め、伸びをする。
子供の頃は、楽しかったなぁ。今も楽しいけれど、毎日、何かしたいことにチャレンジして、夢を叶えようとしていたっけ。夢っていうよりはやりたいことか。
「……大学で夢が見つかったら苦労はしないよなぁ」
いつか夢を見つけるかもしれない。その時、出来る事や知識が多くないと対応できないだろう。だから、夢が見つかってない以上、得られる知識、技術は大切にしなければ。
曖昧且つあやふやな気持ちでは夢さんも俺に見つけてほしいと思わないだろう。食い気味にいかなければこちらに近づいてきてくれない。
適度な休憩をはさんで別の試験分野に手を出す。もう一度講義の内容を書いたノートや、教本として購入した物を見直した。
裕二たちに遊びを誘われたが、今の時期から始めないと首が締まる。俺だって世間一般的な学生だ。遊びたいと言う欲求はある。
ふと、脳内に白井の笑顔が浮かんだ。これは虫の知らせだろうか。無視をしようにも、脳内で反復横とびやら屈伸運動を始める始末。
勉強をしていて集中できないのなら、気分転換をするに限る。俺はスマホを操作し、白井に連絡を取ることにした。
結構長めのコール音の後、白井の声が聞こえてきた。いつもはすぐにとってくれるのに、珍しいなと思った。
「もしもし? 白井か?」
「ええ、啓輔さん。あなたの白井海ですよ」
よかった、白井だ。白井が出てくれたことに何故だかほっとした。別の誰かが出るとでも俺は思ったのだろうか。
ばかばかしい、白井のスマホに電話を掛けたのだから、他の人間が出るはずない。
「あなたの、は無視ですか」
俺が無言になった為か、少し構ってほしそうな声色になった気がする。本当に構ってほしいのは俺の方で、女々しいったらありゃしないぜ。
「悪い、他の事を考えてた」
「さては、私の事ですね」
「ま、そんなところだ」
どうです、この名探偵っぷりはと言われ、一つため息をつきたくなった。構ってもらいたい気分よりも、こりゃ癒しは求められそうにないなと諦めの気持ちが湧いてきた。
「出るのが遅かったけれど忙しいのか?」
彼女は一応、社会人扱いなんだろうか。普段、何をしているのかさっぱりでもある。
「いえ、スマホを落としていたんです。落として少し進んでいたので取るのが遅くなりました」
「あー、なるほど。俺もふっと、白井の顔がよぎって電話したんだ。これはスマホを落とすぞっていう知らせだったんだな」
こういう事って本当にあるんだな。もし、誰かがスマホを拾っていたらそいつが出ていたのかもしれない。
今度、テレビの奇跡体験に応募してみようと思う。
「虫の知らせって本当にあるんだな」
「それは、違います。虫の知らせではありませんよ」
「は?」
違うと言うのなら、ただの偶然だと言うのだろうか。
「啓輔さんの中に、白井海成分が入り込んでいるんです。時折、脳を刺激して成分を摂取したくなるよう操作しているんですよ」
「……それさ、過剰摂取するとどうなるんだ?」
俺の脳内で白井に侵食され、最終的に白井海がもう一人存在することとなっていた。
「摂取しすぎると全身の穴という穴から小さい白井海が湧き出てきます」
「うっわ、気持ち悪い」
「そして噴き出た白井海は他の人間に入り込み、繰り返します」
つかみどころのない人間枠かと思ったらまさかの寄生虫レベルだった。全人類が、白井海に恐怖する。
「ところで、啓輔さん」
どこか落ち着いた声音に切り替わった。
「これから会えませんか?」
「さてはお前、俺に過剰摂取させて小さい白井海を世に蔓延らせるつもりだなっ?」
「真面目な話なんです、ふざけるのは良くありませんよ」
怒られてしまった。
切り替えが早いってさ、ちょっとひどくないか。
「会えるよ」
ふと、布団を見ると白井がいた気がした。
「……ベージュのタートルネック、ブラウンのスカート、茶色のコート?」
そんな服装をしていた。つい、口から出てしまった。
「え? なんで啓輔さんが私の着ている服を知っているんですか?」
「いや、幻覚が……見えた気がしてさ」
こういう事は生まれて初めてだった。妙に存在感があって、触れても感触がありそうだった。
「そうかもしれません……いろいろな事がありましたからね。本人は元気だと思っていても、心や体が疲れていることはありますよ」
てっきり茶化されるかと思っていただけに、受け止められるとは意外なことだった。冷静に考えてみれば、お仕事か、胴かは知らないが本職っぽいし。
「勉強でもしていたのでしょう?」
「当たりだ。なんでわかった?」
「女の勘ですよ」
それってこういう時に使う言葉かね。
「待ち合わせの場所、駅前のベンチでいいですか?」
「いいよ」
「じゃあ、三十分後で大丈夫です?」
「ああ、問題ない」
「忘れずにお願いしますね。忘れたら直接脳内に小さい白井海を入れ込みますので」
「うぉい、真面目な話なんだろ?」
「真面目な中にも適度なおふざけは必要ですよ」
相変わらずずるい性格だ。今頃電話の向こうで舌でも出していることだろうさ。
「ま、その通りか」
俺は準備を始め、すぐに出ることにした。
「……またか」
俺の視界の隅に、白井がいた。どこかに行こうとしているようで、扉の方へと一歩を踏み出し、動いていない。
瞬きをするとそれは消える。やはり、幻覚だった。
「自覚がないだけで、実際は疲れている、か」
白井の言う通りのようだ。もし、疲れた状態で勉強なんか続けていても覚えが悪くなるだろう。
玄関で扉を閉めようと振り返ると、幻覚の白井が部屋から出ようとしていた。幻覚だとわかっていても、部屋に閉じ込めるのは気分のいいものじゃない。
何度か瞬きを繰り返しているうちに白井の幻覚は外へと出た。それを見届け、俺は扉を閉めて鍵をかける。
それから少し走って駅前までやってくると、既に白井が待っていた。
「悪い、待たせた」
俺の想像した通りの格好で、ベンチに座って本を読んでいた。紺色のブックカバーがかけられており、サイズは文庫本ぐらいだ。どんな本を読んでいたのだろう。
「まだ、待ち合わせ時間の前ですよ」
白井は苦笑して、俺を見ていた。
とても穏やかな目をしていた。いつもの雰囲気が鳴りをひそめている。
「待つのは好きだけど、誰かを待たせるのは好きじゃないんだ」
集合時間前だが、二人となるとそうもいかない。結果的に待たせてしまったわけだ。
「私も相手を待たせたりするのは好きではありません」
白井は本を閉じて隣に来ると、自然な動作で俺の腕を抱えた。そして、俺の肩に頭を預けてくる。
「このまま、デートしませんか?」
「それはいいけど……」
普段の白井の対応をとっていれば、俺はその手を振り払って何が狙いだと叫んでいた。
今の白井から感じられるものは、嘘偽りのない素直な行動のみ。その行動の裏に、何かを感じ取ることはない。
「俺に、真面目な話があるんじゃないのか?」
「あります。でも、少しの間でいいから、啓輔さんの恋人になりたくて……」
これは、白井の言う真面目な話ではないのだろう。しかし、内容的に十分、真面目な類だ。
「俺の、恋人?」
「ええ、ごっこで構いません」
なんだ、ごっこか。
残念だと多分に思ってしまっている俺は、白井の事が好きなんだと思い知らされた。それが否定から入ることはなく、腹の中心にすとんと落ちてくる。
「年上は駄目ですか?」
「……駄目じゃない」
「よかった。嘘の恋人でもいいから、今日は海と呼んでください。私は啓輔君って呼びますから」
啓輔君、か。
啓輔君、かぁ。
「喜んでもらえて何よりですよ」
「え? そんなわけねぇよ」
「顔がにやけてますよ?」
頬をつつかれ、真面目な表情を作ってみる。白井は俺の顔を見て噴出した。
「取り繕う必要はありません。今の私たちは恋人です。啓輔君のやりたいようにやってくれて、いいんですよ?」
全力で甘えに行く俺と、全力で足元をすくわれに行くつもりかと止める俺が脳内でせめぎ合う。
「葛藤してますね」
いつもの裏のありそうな視線じゃない、地合いに満ちた代物が辛い。
「俺を、甘やかさないでくれ。俺は、駄目人間になる自信がある」
イザベルが兄のジョナサンによって傷つけられた時、俺は誰かに助けを求めた。それまで直接的な関わりは短かった白井を想像したのは内心、海が俺にとって近しい存在だと思ったから。
何故近しいのかは俺自体、理解できていないし、考えてみてもわからない。
「二人きりの時は好きなだけ甘えてくださいよ。私からのお願いです」
上目づかいに、俺は否定できなくなる。
「返事は?」
「……えーと、はい」
「よくできました」
頭を撫でられ、辱められた気分になったが海の笑顔を見てどうでもよくなった。
俺たちはそのあと、公園へと向かった。
誰もいないベンチに腰かけると、海が自分の膝を軽くたたく。
「どういう意味か、わかりますか?」
「……わかる」
「じゃあ、どうぞ」
「お、お邪魔します」
誘われるままに太ももへ頭を載せ、恥ずかしいから目を閉じる。
これまで幾度の日々を送ってきた中での久しぶりの安寧を覚えた。それと同時に、こんなに嬉しい事が起こるのは不幸の予兆だと頭の中で何かが警鐘を鳴らす。
「真面目な話を始めますね?」
「……ああ」
俺の頭を軽く撫でて、海は語り始める。
風が吹いた。俺の頬に触れて、どこかへ行ってしまう。また、あの風は誰かの頬を撫でるのだろうか。
「これからいくつか質問をします。出来るだけ、即答していってください」
「わかった」
「たとえそれが、おかしな問題でもです」
「オーケー」
海の存在自体がおかしい時もあるからいけるだろう。何のことはない、日常に居ながら非日常を経験してきた俺にとって、いまさらおかしい事なんてあるわけがないさ。
「啓輔君は自分が正常だと、証明できますか?」
「出来ないな」
早速おかしな問題だが、即答できる問題だった。海がどうしてこんな質問をしてくるのかはわからないが、彼女が望むのであればどんな問いにでも答えるつもりだ。
例えそれが……。
「では、今啓輔君がいるこの世界が正しいものだと思いますか?」
「ああ」
俺がいて、誰かがいるのならその世界は正しい。存在し続けなくてはならない。
「異常な世界の中で、正常で居続ける事はおかしな事でしょうか?」
「……ああ、おかしな事だ」
どれもこれも、奇妙な質問ばかり。
膝枕をしてもらっている為か、俺の中にいる睡魔がウォーミングアップを開始した。相当手ごわそうなのは膝枕の上で俺が駄目になっているからだろう。
その間も、白井海のおかしな質問は続いていた。
「……私は、あなたが知っていた白井海でしょうか?」
「いいや」
こんなにも優しく、こんなにも裏のない彼女を俺は知らなかった。
「あなたを膝枕している白井海は、誰かが望んで生まれた幻覚ですか?」
「違うね」
「……そうですか」
俺の頭を撫でる手つきは一層、優しいものになっていく。この世界に、自分が融けていくような錯覚を覚える。
「次が……最後の質問です」
俺はまるでゆりかごの中にいるような気分になった。
強い眠気が、俺を襲う。世界を周った風が、また俺の頬を撫でていく。
「……仮に、この世界は作りものだとして、右記啓輔君は目が覚めたいと思いますか?」
頭の中で、ガラスの球が割れるイメージが再生される。それはとても鈍い音だ。壊れちゃいけない何か、そんな気がした。
ただ、その感覚はおそらく、俺の気のせいだ。既視感がそうであるように、いつ見た事なのかと自分に問い合わせてもわからないのと一緒。
別に壊れて何の問題もない……はずだ。仮に世界が滅亡したとしても、人間はそれを証明できるわけがない。そんな時間は残されていない。
「目が覚める必要はないさ」
「啓輔君の言う通りです。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
俺は少しの間、眠ることにした。ほんの少しの間だけだ。ただ眠るだけ、眠ると言う事は、またいつか起きることが出来る。
次に目を開けることが出来たのならば、俺は海に好きだと伝えよう。




