リルマ編第一話:謎の美女
目が覚めると自分は映画館にいた。真ん中で座って、映画を見ている途中に眠っていたらしい。スタッフの人に揺すられて目を覚ました。
なんだかそれがスタッフの人に申し訳なく、逃げるように上映の終わった映画館を出ようとする。受付の人がどこか呆れた表情をしていた。聞こえないと思ったのか、別のスタッフと話をしている。
「あの人の他にも眠っているお客様がいたんですね」
「そんなにつまらない映画だったかねぇ」
どうやら、自分の他にも寝ていた人がいたらしい。よほどつまらない映画を見ていたのだろう。ただ、映画の内容は思い出せなかった。
特にあてもなく歩いていると、走ってくる奇妙な何かを見つけた。
「たすけてくれぇい」
「どうしたの?」
その存在を知ってはいるのだが、なぜだか普段取るべき対応を取らずに話しかけていた。
それは目の前までやってきたのだが、どこかおびえた表情を見せる。
「あ、あんたは一体誰だ?」
相手の問いかけに答えることが出来なかった。自分が誰なのか、わからなくなったのだ。
「……さぁ?」
「また、迷子の奴か?」
そいつはそう言うと急に意地悪そうな顔をした。
「お前は今、間違えてこの世界に入ってきたんだよ。元の世界に戻るには、この先の屋敷の先にいる化け物を倒せばいい……さっき、俺を襲ったやつさ。お前は人助けした上に、自分の世界にも戻れる。どうだい、一石二鳥だろう?」
その言葉に自分がこの世界にやってきた理由を思い出した。
意地悪そうなそいつの言葉を真に受けたわけではないが、探し人はその先にいるらしい。
自分が誰なのか未だにわからないが、この狂った世界から、急いであの人を探し出そう。
その一歩を踏み出した。
―――――
黒の手帳の騒動もひと段落ついて変わらぬ日々を俺は送っていた。
ジョナサンにも何度か会ったが、依然として記憶は戻っていない。まぁ、本人の名誉のために詳細は伏せるが、傍から見ると幸せな日々をあの男は送っている。そのほかのメンツは相変わらず。イザベルも今のところはこちらに滞在しており、ちょくちょく顔を合わせる機会がある。
今日が二月十四日であることを今朝のニュースで知った。二度目に教えられたのは講義をさぼってジョナサンの病室にお見舞いに行った時だ。俺がチョコを渡してやると男からもらうチョコほど嫌なものはないと、すげぇ嫌そうな顔をしていたっけな。あの人、記憶が戻ってるんじゃないのか。
例年だったら彼女であった廿楽すみれから本命チョコを、いいや、本命を装った義務チョコもらえていたのだが、今年は違う。彼女とは去年の夏に別れた為、チョコをもらえない。
そうか、あれは本命ではなく渡す必要が必ずあった義務チョコだったのだとさっき気づいた。渡していなかったら俺が怪しんだかもしれないと思い、渡してくれていたのだろう。まぁ、本命だろうと義務だろうとチョコはチョコだ。お母さんチョコは一つにカウントされないが、そっちはもらった個数にカウントさせてもらう。
ある意味男のステータスだ。
「で、いくつもらった?」
二月十四日の夕方、俺と夢川裕二、九頭竜宗也の三名は宗也の部屋に集まった。もちろん、各々がもらったチョコの数を数えるためにだ。
「義理なら腐るほどあるよ」
ぽっちゃりの宗也はたくさんもらっていた。慣れているのか、言葉の割に自慢した感じは一切ない。見慣れた光景ではある。
こいつは例年大量にもらう。もちろん、義理だからと言って渡される中には本命も交じっているのだろう。ラブレターだってたくさんもらうし、もう何度目か同じ人からの告白を受けたりもする。
そして、裕二、ほかの友達も含めて血の涙を流し、涙血のバレンタインデーが一度引き起こされたことがある。集団で宗也に襲い掛かり、返り討ちにされた。三人以上で囲めば袋叩きにできるかと思ったら見通しが甘かった。
「ちっ、そのまま太って破裂しちまえばいいのに」
恨めしそうに裕二は呪詛を吐き出す。さすがに返り討ちにされたときで学んだらしく手は出さない。
「確かに、裕二の言うとおりだ。世の中は不平等だな」
意中の相手からもらえれば義理なんてどうでもいい。彼女のいないバレンタインデーがこんなに悲しくなるとは思いもしなかった。
今では俺も裕二側。ジョナサンや宗也を羨ましがる側に立っているつもりだ。
「もらったのなら啓輔も同じだ馬鹿野郎」
「裕二ももらっただろ」
というか、それなりにもらっているくせして僻むんだからしょうがない奴だな。一個以上もらえるのなら男の子は御の字だろ。
「まぁ、もらったけどな」
じゃあ、それでいいじゃないか。チョコをもらえるっていう事はいいことなんだよ。
晩飯まで時間があったのでチョコに手を付けることにした。
無論、女の子からもらったチョコではない。
「あ、俺アヒルさんだわ」
「すげぇな裕二。俺はイソギンチャクだわ」
「僕はクマさんだったよ」
卵形のチョコの中からちょっとしたおもちゃが出るものをそれぞれ買った。これはこれで楽しいのである。女の子たちからもらったチョコは一人の時に味わって食べたい。一切もらえなかった場合はこうやって男で馬鹿をやって誤魔化す日でもある。
ふと、視線をあげると裕二と宗也がこっちを見ていた。
「……なんだよ、その目は?」
「啓輔が食べるのなら、どれから手を付けるのかなって」
「別に、どれからでも一緒だろ」
「うーん、そうかな。違うと思うんだけどなぁ」
何か意味ありげな視線を宗也と裕二は交わしている。男同士で見つめ合って気持ちの悪い連中だな。
「適当に食うさ」
「じゃあ、ここで食って見せろよ。どこで食おうと、チョコの味は変わらないだろ?」
「……わかったよ」
そういって手に取ってある手作りのチョコレートを口にする。本来なら一人で食べたかった。
「リルマちゃんからもらったチョコの味はどうだぁ?」
「そのにやにやを辞めろ。味はうまいぞ。お前らだって同じタイミングでもらっていただろ」
そういうと二人は苦笑しながらリルマからもらったチョコレートを取り出した。
「既製品ですが」
「既製品ですとも」
そうか、だからどうした。もらったもんに違いはないだろ。既製品だってすげぇ厳重なチェックという愛を受けて、消費者のもとへ届いているんだぜ。
あと、言いたいことがあるのなら、はっきり言えよ。どうせ下世話な事を考えているんだろ。だがね、俺とリルマは影食い時の相棒って関係だ。
「おやおや、あの顔は心の中でどうせそういう関係じゃねぇしって思ってるよ」
「だよねだよねぇ。そんなに否定する方が怪しいのにねぇ」
何か言い返そうとしたところで着信があった。
「おっと噂をすれば」
「空気、読んでるよね。きっとチョコの感想を求められるんだね」
電話をかけてきた相手は影食いの美空美紀だった。
「ちげぇよ、あいつじゃない。美紀からだ」
「へぇ、啓輔君、誰だって思ったの?」
「……誰でもいいだろ」
宗也の奴め。俺に何か恨みでもあるのか。
「バレンタインデーだからなぁ」
しみじみという裕二を無視して俺はスマホを耳に当てる。浮かれすぎだろ。明日からはシーズンを過ぎたチョコが割り引かれて買い放題だ。
「もしもし?」
「啓輔? そこに、リルマはいる?」
「ちょっと待っててくれ」
美紀にそう言って立ち上がる。
「外でかけてくるのか?」
「今日は帰るよ。野暮用が出来そうだ」
「おー」
「お疲れー」
俺は裕二と宗也を見て部屋から出る。そのまま帰ることにした。最後は普通に空気呼んで煽らなかったな。
外に出て美紀との通話を再開させる。
「悪い、待たせたな」
「大丈夫。それで、いるの? いるなら代わって欲しいんだけど」
リルマと話したいのなら直接あいつの携帯に電話すれば良かったのに、何故俺の方に賭けてきたんだろうか。
「いない。あとで会う約束はしてる」
「ああ、そう。厄介なことになったって伝えておいて」
「厄介な事?」
「内容は言えないけど、いずれわかるから。がんばって二人で乗り越えなさいよ。それと……」
「それと、何だ?」
「……なんでもない。じゃあね」
いったい何のことなのか、そのまま電話は切れた。
一度家に帰ってリルマに電話するとしよう。また面倒な事が起きそうな気がするんだ。
家についた時、何か怪しい人物がいた。既に、面倒事は俺のところへやってきていたようだ。
俺は白井やジョナサンとの出会いを経験し、様子を窺う事を覚えている。もうむやみに話しかけたりはしない。
「あ、くそっ。ここの新聞受けのサイズ思ったより狭いしっ。あぁもう、入んないな。ぶつけてもがんがん言うだけでちぃっとも入らないよ。くっそー、箱潰れちゃったら嫌なんだけど、しょうがないもんなぁ」
心配して損した。ただの青木だった。
「……何やってんだ、青木」
「はふっ!」
俺の言葉に肩を震わせ、ゆっくりと立ち上がる。壊れたロボットの首のように、段階を経て、俺の方を見た。
「は、ハッピーィ、バレンタイン」
途中裏声になりながらそんなことを言われ、綺麗に包装された箱を手渡された。
「はぁ、これはご丁寧にどうも」
渡された箱の右下に、チョコをあげよう、謎の美女Hよりと書かれていた。
「謎の、美女……ね。ぷっ、ありがとよ」
「いやだああああっ、恥ずかしいっ」
そういって走って行ってしまった。今日会った時はお前にチョコは絶対にあげないと宣言されたんだがな。不要なドッキリだよ。
でもさ、青木。安心しろよ。普段の言動が恥ずかしいから、俺は別に今の事を気にしてないから。
チョコを部屋に置いて、電話を掛ける。もちろん、相手はリルマだ。
「どうしたの?」
「なんだか弾んでるな?」
「あ、いや。うん。何でもない」
俺から何かを期待していたのだろうか。まぁ、今はそれどころじゃない。
ワンコールで出た相手に俺は美紀から電話があったこと、意味深な言葉をもらったことを告げた。
「……どういうことだろ?」
リルマの方も想像がつかないようだ。電話の向こうで首をかしげているのが目に浮かぶ。。
「まぁ、面倒事があるのは間違いないな」
わざわざ美紀が忠告してきたぐらいだ。
「毎回、対策なんてできないけれどね。いっつも受け身だし」
「そうだな。でも、美紀ががんばれっていうぐらいだからそこまで重く見なくていいんじゃないのか」
ジョナサンの時のような身の危険が迫っているときは言ってくれるだろうし。
「今から裕二先輩を警護でもしておく?」
「おいおい、別に裕二がまた誘拐されるって決まったわけでもないだろ。それに、裕二がそうなるのなら、美紀がちゃんと言ってくれると思うぞ」
「んー、確かに」
重要ごとなら、なんだかんだで美紀も助けに来てくれそうだ。
それから二言三言かわして電話を切った。
すると、玄関の方から音がしてくる。郵便受けに何かを突っ込もうとしているらしい。不幸の手紙か何かだろうか。
「あれ、入らないですねぇ。箱のサイズを間違えましたか」
「あ、白井」
「おや、イザベルさんですか。イザベルさんもチョコを郵便受けに入れに来たんですか」
「うん」
流行ってるのか、それ。
「こっちだと女性からお世話になった男性に渡すって聞いたから。みんなのおかげで兄さんの体調は良くなっているし」
「なるほど、それはよかったです」
そしてなぜか俺の部屋の前で始まる世間話。
このタイミングで出ていくのがベストだろう。俺は玄関の扉を開けた。
「何してんだ?」
「啓輔さん。いたんですか」
軽く白井が驚いていた。新聞受けに入れようとしないで、チャイムを押して確認しろよ。
「さっき帰ってきたんだ。ところで、俺の家の新聞受けに何してるんだ」
二人の手にはきれいに包装された箱があった。
「今日はバレンタインデーですからね。信者の方に配っているんです」
「……俺は信者じゃないんだが」
白井にそう言うと、にやっと笑われた。
「知っています」
「……信者じゃないけどくれるんだよな?」
「欲しいんですか? 欲しいと言ってくれれば、素直に渡しますよ」
悪戯を思いついた猫のような表情を見せられ、俺は黙り込む。
「ほ、欲し……」
「冗談です。啓輔さんにはお世話になりましたから。もらってください」
「……ありがとう」
渡されて悪い感じはしない。右下にはメッセージ付きだった。
「謎の美女Uより……」
「顔を会わせず帰る予定だったので」
「別に、手渡してくれればいいのに」
「そんな、面と向かっては恥ずかしいじゃないですか」
普段は心を見せてくれそうにない白井だったが、本当に照れているようだった。
しかしな、白井よ。謎の美女って書いているほうが恥ずかしいと俺は思うんだ。
謎の美女、最近、流行っているのか。
「啓輔。私もこれあげる」
「おう、ありがとう」
メッセージ付きが流行らしく、箱にかわいい熊のメッセージカードがはさんである。
「謎の外国人美少女Iより……」
どうやら本当に流行っているようだ。
「あ、被っちゃいましたね」
「私も被るとは思わなかった」
すでに三人目なんだよな。
「あ、すみません。右記様でしょうか? お荷物が届いています」
「そうですけど……」
「ここにサインをお願いします」
宅配便のお兄さんがこちらにやってきて、俺に箱を渡す。差出人は美紀からだ。さすがに、謎の美少女では出せないだろうからな。続いていたら面白かったんだが。
「美紀さん、今は影食いのお仕事で別の県へ行っているそうですね」
意外にも美紀と連絡を取り合っているのか、白井も知っていたりする。
「うん、あの子が帰ってきたら私と一緒に世界を周る予定」
へぇ、そうなんだ。しかし、美紀は何をするため世界を周るのだろうか。
「どうせチョコが入ってるんでしょうね」
茶化すでもなく、当たり前だと言った感じで白井が俺を見てきた。
「どうせとかいうなよ」
「ひねりがありませんよねぇ。バレンタインデーにチョコをあげても、何も面白くはありませんね」
「美紀に失礼だろ。あと、白井も俺にくれただろ」
「箱を開けたら美紀さんが飛び出してくるのかも。アニメやゲームでたまにある展開ですよ」
そういうのを期待しているのか。確かにサプライズだけれどさ、それって普通に考えて無理じゃないのか。
「こんな小さな箱に入らねぇよ」
「分割すればいいじゃないですか」
分割とかさらっと怖いことを言うのはやめてくれ。分割しても、入らないものは入らないぞ。
「じゃあ、本体を小さくしますか」
手のひら大の美紀が入っていたとしても、扱いに困るだけだ。ポケットに入れて持ち運ぶとなんやかんやと注文を付けてきそうで心が安らぐ日がやってこなくなる。
「ま、なんでもいいけど、ここで開けてよ。中身が見たい」
「わかった、ちょっと待ってろ」
そういって中をその場で開ける。チョコレート色の置き時計が入っていた。
「メッセージカードもありますよ。どうせチョコばっかりもらっているだろうから食えないものにしてやったわ。ありがたく受け取りなさい。謎の美女Mより、ですって」
短時間のうちに謎の女が四人になった。キャラ被りすぎだろ。
「美紀はなんで中身にこんなこと書いたんだろ。外側に差出人書いているのに」
イザベルの素朴な疑問に憐れんだ表情の白井は言う。
「たぶん、手渡す予定が、急きょ変わったのでしょうね。結局、宅配にするしかなく、慌てていたものだからメッセージカードを抜くことを忘れていたのが目に浮かびます」
冷静な判断でそう言ってくれた。美紀が慌てている姿を想像すると多少和む。
「今度謎の美女Mに会うときが楽しみですね」
「白井、絶対にいじるなよ。美紀は確実に怒る」
「見ものじゃないですかぁ、謎の美女U対謎の美女M。次に私たちの前に立ちはだかるのは美紀さんですよ」
おい、既に美紀は俺たちに立ちはだかっていたぞ。お前も一緒に倒しただろ。
「ちなみにリルマは謎の美女Lサイズで渡してきたの? それとも、まだ見ぬ美女からもらったとか?」
唐突にサイズを付けるのはやめるんだ。違和感がないだろ。
「いや。これ以上は増えないだろ。そもそも、リルマの頭文字はRじゃないのか?」
「Rirmaなのか、Lirmaなのか、はたまたRelmaなのかどれでしょうかねぇ」
日本人にとってRとLの発音は難しい問題だ。今度、英語の教授に聞いてみるか。
まぁ、それよりリルマに直接つづりを聞いた方が良さそうだ。
そんなことを考えていたらまた人の気配があった。他の人からの宅配便だろうか。もしくは、通販大手の密林で頼んでいたゲームが届いたのかもしれない。
「……あれ、もしかしてけーちゃん?」
「え」
俺は声のした方を見る。
金髪で長身の女性が立っていた。
一瞬、リルマかと思った。俺の頭の中で記憶が掘り起こされていく。
「も、もしかして、はーちゃん?」
「やっぱり、けーちゃんっだっ」
俺の胸に飛び込んできたはーちゃんは、あの頃と変わりがない。
「謎の美女だ……」
「はーちゃん……謎の美女Hは新顔ですよ」
残念だが、謎の美女Hはさっき顔を真っ赤にして走っていったぞ。
久しぶりの抱擁を散々写メに収められた後、俺の部屋にはーちゃん含め三人を案内した。
イザベルはともかく、白井がこの場にいると引っ掻き回しそうだ。疎ましい視線を送って帰ってくれないかなぁと願ってみる。
「啓輔さん。すでに呼んでいます。安心、安全ですね」
俺と白井のアイコンタクトは失敗していた。親指を立てられ、呼んだ相手が誰かは容易に想像がつく。
「……だと思ったよ」
どうせ俺のアイコンタクトは誰にも伝わらないさ。
「本当は空気を読んで早く帰ってほしいって奴なんですよね、えへ」
いや、白井には案外なんでも伝わる気がする。
「意中の誰かがいるのに、そういう誠意のない行動は駄目よ、啓輔」
「そういうの、わかっているけどさ、いろいろと違うだろ。そもそも、誰かと付き合っているわけではないし」
白井が浮気現場を収めたとリルマにメールしたらしい。
「けど、似てますね。誰とは言いませんけど」
「髪の毛の色は金髪であの子にそっくり。誰か聞かれても困るけど」
ああ、そうだな。
はーちゃんの方は静かだ。ここは俺が二人に紹介した方がよさそうである。
「えーと、はーちゃんだ」
俺は二人にはーちゃんを紹介した。
「あのー、ハー・チャンさん?」
小さい頃、はーちゃんはーちゃん言っていたから記憶をほじらないとちゃんとした名前がでてこないんだ。
「えぇっとだな、ハンナっていう。見ての通りの美人だ」
「なぜか啓輔さんが紹介を始めましたね。しかも、女の子の前で容姿を褒めるっていう」
「きっと、黙ったままだといたたまれなくなったんだよ」
ジト目で見られ、俺は焦るしかない。率直に言うと、昔の友達、というよりは姉みたいな存在だったので、あまり変な事をしたくない。
さらにいうと、白井の前でも変な事は出来るだけしたくない。本人には口が裂けても言えないが、理想の姉像的な存在だったりする。
「こほん、静粛に、静粛に。では、はーちゃん、改めて二人に自己紹介を」
咳払いをして場を静かにする。
「はじめまして、ハンナ・アーベルです」
「アーベル?」
俺は首をかしげた。俺以外の二人も、首をかしげている。それ、誰かのファミリーネームだった気がする。
「けーすけっ」
玄関の扉が乱暴に開いてリルマが喋りながら走ってきた。
「ちょっと! 頭の悪そうなブロンド女に抱き着かれて嬉しいから相棒辞めるってどういう……あうっ」
そして置いてあった茶色の時計に引っ掛かってこけた。俺に飛び込むような感じで倒れてきたので受け止める。
「大丈夫か、リルマ?」
「う、うん。ありがとう」
「見てくださいイザベルさん、頭の悪い金髪に抱き着かれて嬉しそうにしてますよ」
「白井、そういうことはあまり言わない方がいいよ」
そうだな。頭が悪いっていうのは付けちゃだめだよ。
「悪そうってつけないと。確定はまずいって」
イザベル、気にするのはそっちか。
「ごめん、けーす……」
リルマは俺から離れ、俺の隣に座っている人物に目をむける。
「けぇっ」
そして、妙な声で鳴いた。お前は新種の鳥か。
「な、なんでお姉ちゃんがここにっ……」
「久しぶりに会うのに、ずいぶんな挨拶ね、リルマ」
腕を組んで冷ややかにリルマを見つめている。雰囲気的にできる女っぽい。
「おねー」
「ちゃん?」
俺が以前、リルマに覚えた既視感はそういう事だったのか。
全員を俺の部屋の中へと案内し、妙な空気が辺りに漂っている。
右隣にハーちゃんが座り、左隣にリルマが座る。ちなみに俺は真ん中にいる。
「熱い展開になりましたね」
「これが日本で噂のシュ・ラーバね」
リルマもハーちゃんも一言も発しない。なんだよ、シュ・ラーバって。海外でもよくある事だろうに。
「リルマ」
「な、なに、お姉ちゃん」
俺の腕をつかんで震えている。珍しいな、リルマがこんなに怯えるなんて。
「まず一つ目」
「うん」
「違う。返事はうんじゃないでしょ」
「は、はいっ」
背筋を正し、硬直する。あんな緊張したリルマさん、初めて見ましたと白井も驚いていた。もちろん、俺もだ。
「一つ目、念のための確認だけれど、白井海さんとイザベル・ブラックさんは関係者の認識で大丈夫よね?」
関係者、おそらく影食い関係だろう。
「けいちゃんも?」
「けいちゃん?」
リルマが首をかしげる。親しそうにしているのが気になったのだろうが、はーちゃんは無視した。
「関係者ね?」
「はいっ」
「二つ目、さっきけーちゃんにたいして相棒って言っていたけれど、どういうこと?」
「か、影を探したりするときの、相棒」
「それ、どういうこと?」
眉をひそめたはーちゃんに、リルマは縮み上がっていた。相当、はーちゃんのことが怖いようだ。
「一人では満足にできないってことなの?」
「えぇと、それは……」
相棒が困っている。こういう時は俺の出番だ。
右記啓輔、相棒の危機にはせ参じるぜ。
「はーちゃん、相棒になるのは俺の方から頼んだんだ」
「けいちゃんの方から?」
「うん。最初はリルマが嫌がった。ま、それでもなんというか俺が無理やりって感じかな。そうしたら割とすんなり」
「む、無理やり……けいちゃんってそう言うのが趣味なんだ。話を続けて」
「去年の夏ぐらいにリルマと出会って……えーとまぁ、いろいろあったんだ。今ではうまくやれてるよ」
いろいろのなかには白井の事や美紀の事、手帳なんかの話も入ってくるので簡単な説明では終わらない。
どう説明したものだろうか。
「い、いろいろ? 色々って具体的にどんなことがあったの? 最初は嫌がってて、二人で盛り上がったって事? ちょっと、お姉ちゃんに教えてほしい……いや、教えなさい」
「え、ちょ、はーちゃん?」
両肩をつかまれて迫られた。必死そうな表情が怖い。鼻息荒いよっ。
「む、無理やりだとか、言っていたけど……も、もう、や、やっちゃったとか? 発言的にさっき私が行った鳥だよね」
「や、やっちゃったって何を?」
「けいちゃんってばわかってるくせに」
白井とイザベルがそういう相棒ってことなんでしょうねと、そうだろうねとつぶやいていた。
「啓輔さんとリルマさんは夜の相棒だったんですね」
「おい、その蔑んだ眼をやめたまえよ。疚しいことはないに決まってるだろ」
「どういうこと? さぁ、事細かに話してっ。描写も、詳しく言ってくれると嬉しいっ」
俺ははーちゃんにリルマと出会った事、影食いの事を知りたかったこと、失踪した友人を助けたり、同じ影食いとの対立、黒い手帳の事、元彼女が裏で糸を引いていたことを話した。
「うん、その元彼女さ」
「はい」
「消そうか?」
最高の笑顔でそう言った。その言葉に一同、沈黙する。冗談で言っているわけじゃないとわかったのだろう。
そんな沈黙の中、俺は一つ、思い出したことがあった。
「あの、リルマさん。リルマさんのお姉さん、すごく不穏なことを言っていませんか」
「お姉ちゃん、身内に甘いの」
「でも、リルマには厳しい感じだけれど?」
「愛の鞭じゃないですかねぇ……たとえば、啓輔さんに鞭を渡すと私を叩いてくれる、みたいな?」
「それ……絶対に無いから」
「おひっ、マジで説得してくれ。ハーちゃんは切れると何をしでかすかわからないタイプなんだよっ」
やばい子だったのをすっかり忘れていた。
「見てくださいよ、珍しく啓輔さんが焦ってますよ」
「写真、撮っとこ」
それから三十分程度、やっとこさ落ち着かせた。
俺の手でぼこぼこにしたという話を白井がしたおかげで胸がすかっとしたらしい。けいちゃんに尻を振る女はすべて消えればいいのにと口走って他の人たちは軽く引いていた。
「取り乱しました」
「勘弁してよ」
「ごめんね、でも大丈夫。事情は大体わかったわ」
いったい何の事情が分かったというのか。
「お、お姉ちゃんはここに何をするために来たの?」
恐る恐ると言った調子でリルマが姉へと質問を開始。
「影食いの組織からの依頼でね……」
「お姉ちゃん、影食いの組織ってところに所属しているの?」
「そう。組織の事については、リルマには教えてなかったものね」
どういう事だろうか。意図的に教えてもらえていなかったってことか。俺はどういう事なのかとはーちゃんは見るが、彼女は何を勘違いしたのかウィンクしてきた。
「さっそく仕事を始めようかな」
ビジネス手帳を胸ポケットから取り出してめくる。
「影食いリルマに伝えます。まず、第一の試験です」
「試験?」
「はい。試験に落ちたら相棒ごっこは終わり。私が立派な影食いになれるように再度教育します」
「これは急展開ですよ」
白井が騒いでいる。これが美紀の言っていた事だろうか。
教育すると言っている割には、どこか冷めた感じだ。そこが気になった。小学生相手に大学受験の問題をぶつける感じがする。
「もし駄目だったら啓輔はどうなるの?」
イザベルがハーちゃんに尋ねるとにこりとほほ笑まれる。
たぶん、元の生活を続けるだけだろう。たとえそうなってもリルマとは個人的に会えばいいことだし、遊ぶことだってまぁ、出来る。
「私の相棒になります」
次回から始まる影食いハンナ、お楽しみにね。
「けーちゃんと相棒。うぇへへ、夜の相棒……」
「うわ、R18指定が来そうですねぇ」
なんだか恍惚としていて突っ込むのが怖いな。放置しておこう。
俺が怖くても、相棒はそう思っていないらしい。
「ちょ、ちょっと何それ」
「けーちゃんは影食いの事が知りたい、それなら私と一緒にいたほうがいいから。リルマは再度影食いとしての勉強が必要。その際、ほとんど影食いはできないから相棒も何もないでしょ? そして私はけーちゃんと久しぶりに会ったから一緒にいたい。全員の気持ちが一致してる」
「あれ、俺の意見が無視されてませんかね」
「そんな横暴な」
リルマの眉が急角度になり、怯えていた相手を睨みつけていた。しかし、はーちゃんはこの程度では揺るがないようで余裕の表情を見せている。
「嫌なら、試験に合格しなさい。あのジョナサン・ブラックを退けた実力を持つのでしょう?」
ジョナサンは美紀が言っていた通り、相当名のある影食いだったらしい。
「私の試験をすべてクリアすれば一人前を名乗れます。これまでどおり、組織に所属せず影食いをしていても何ら問題ないでしょう」
「別に組織の試験とか試練とか受けなくていいし」
ふて腐れたようにリルマがそう言う。
「あなた、名前が売れすぎたの。このまま放置しておけば興味を抱いた影食いがあなたに接触する恐れがある」
たとえばそれは美空美紀のようなちょっと強引な影食いだろうか。あの時は俺が人質にされたんだっけ。
はーちゃんは気づけば俺を見ていた。リルマも俺を見ている。
「もちろん、その相棒のけいちゃんにもね。悪意にさらされるかもしれない」
「……かもしれない、でしょう?」
「そう。だけどね、可能性がある以上は組織ともう少しだけ関わっておいた方がいいと思うけど? 何かあったら組織を通じてあなたに連絡が行くでしょうからね。これまであなたがこなしてきたものの中で、一人じゃ無理だったものもあるでしょ?」
苦々しい表情をみせてリルマは下を向いた。はーちゃんはこの態度を満足そうに見ている。
「試験は明日から。私はこれで帰りますけれどね」
じゃあね、けいちゃんといってそのまま帰っていった。
嵐が一つ過ぎ去って、俺はリルマに睨まれた。
「なぁにこれ、本当にどうなってるの?」
「え、なんで俺なの」
「だって、けーすけの隣にいたよっ」
本妻がお怒りですよと遠巻きに見られている。畜生、避難している連中、後で覚えてろよ。
「俺も……何が何やら」
「なんでお姉ちゃんと知り合いなのっ」
「そうですよ、教えてください」
「それに、ハンナ・アーベルってこっちの影食いの間じゃ超有名人なんでしょ? 私だって名前だけなら聞いたことあるよ」
「話してくれるんでしょうねぇ」
リルマの怒った顔に、俺はため息をつくしかない。
俺とはーちゃんが出会ったのは十年ぐらい前の事だ。
さて、始まりました個別編。まずは妥当というか、リルマからスタートです。個別編はどの話も全部で五話予定。もちろん、文字数でかなりの差がある気もしますがそれはそれ。これから先、リルマ編はともかくとして、そのほかは不定期連載になるかもしれません。全体を見ての感想や、または〇〇編がおもしろかったなどという感想やメッセージをいただけたら大変うれしく思います。




