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影食いリルマ  作者: 雨月
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第六十六話:歪んだ道と迷い人

 俺らの大学は案外休みが短いもので、四日から講義が始まっていた。四日だぞ、四日。まだお正月ムードじゃないか。ぷわーとかいう笛の音を聞きつつ、ボーっとしていていいんじゃないのか。

 正月はだらだら寝ていたらあっという間になくなった。年賀状がくるかなって期待していたのにとうとう今年は一枚もこなかった。

「……だりぃ」

 夕暮れ時、講義が終わって宗也たちと別れてひとり帰っていると、大学近くにある民家から何か黒くて大きなものが出て行った。動物園で見ることの中にあのサイズはいないだろうってぐらいの大きさだ。一瞬、クマかもと思った。しかし、クマが軽やかに路地裏へ逃げ込んだりしないだろう。

 え、いや待て、もしかしたら灰色グマか。あんなのはさすがに日本にはいないだろ。

「なんだありゃ」

 そっちを追いかけようとしたところで、足が止まった。声が聞こえたので他に誰かがいるらしい。

「うぅ……」

「え」

 人がいたのだろうか、かすかなうめき声がまた聞こえてきた。あわてて割れた窓から中をのぞくと血に濡れた畳の上で顔はよく見えないが女の子が横たわっていた。

 他に被害者はいないらしい。家はところどころ埃がつもっており、空き家のようだ。

「あの、大丈夫ですか?」

 おびただしい数の黒々とした血は、壁に染み付いてしまっている。いや、あれは血液なのだろうか。それにしては黒すぎる。

「だ、誰かいるの……?」

 両腕を動かし、相手は俺を見つけた。

「あんたは……」

「お前は……」

 倒れていたのはジョナサン・ブラックと一緒にいた女だった。ジョナサンの奥さんか彼女か、はたまた妹か姉か近しいものだろう。

 裕二の話じゃ、兄妹だと言ってたっけ。

「どうした、何があったんだ?」

 あわてて窓から室内に入り込んで、相手を支える。後頭部を俺の膝の上に乗せた時気づいた。

「うっ……」

 軽く吐き気を催した。血の匂いと嗅いだことのない何かが充満している。

「……本当に、何があったんだ?」

 破れた布で隠れているが、彼女の下腹部から下は……いや、止そう。苦しそうにうめきながらも、俺の手を掴んでくる。その力はとても弱々しい。

 無理だ。そんな言葉が頭に浮かぶ。いったい何が無理なんだと別の俺が尋ねるが、答えを出したくなかった。

「わ、私は大丈夫だから、兄さんを」

「兄さん? ジョナサン・ブラックも襲われたのか」

 頭の片隅で、人は腹から下が無くても喋ることが出来るのか。そんな変なことを考えてしまった。

 しかし、ジョナサンの姿は近くにない。もしかしてさっきの黒い影が探している相手なんだろうか。それとも、この血液は彼女とジョナサンの物だとでも言うのか。

「さっき、出て行った大きな獣が……ごほごほ」

 多量の血を吐きだした。俺の衣服にもかかり、量は洒落になっていない。こっちが青ざめるような量だ。まるで炭を混ぜたような黒色で、それは血液とは思えない異常な粘性を持っている。一瞬、衣服が解けるような気がしたもののありえることはなかった。

 ショッキングな出来事を体験したためか、俺の頭の中に数人の俺が現れて好き勝手言い始める。自業自得だ、これが汚れていると言う事か、他にも頭に様々な意見が湧いた。中には、置いて逃げろと言うものも出た。

 結局、俺はその場から逃げられなかった。

「病院につれていくぞ」」

 血液とは言えない体液。普段感じることのない死の匂いが充満している。どこか厳かで終わってしまった祖母の葬式が頭にちらついた。

「びょ、病院へは連れて行かなくていい。ただ、どこか人のいないところへ……できれば、運んでほしい。こ、このまま見捨ててくれても構わない」

「見捨てるだと?」

「あんたと、あんたの友人には悪いことをしていたから。それに、こ、これまでの罪を考えたら当然の事だから」

 悪いことだと自覚があったらしい。そして、俺たちに会う前にも悪いことをしてきたようだ。

 根っからの悪人なら放っておく主義だが、そうは思えない。それに、これはあまりにも刺激が強すぎる。助ければ、何か話を聞けるかもしれない。

 なんだかんだ理由をつけているが、結局見捨てることは出来ない。

「このままお前を動かして大丈夫なのか?」

「……大丈夫、死ぬわけじゃない」

「そうか」

 俺の正月ボケもこのえぐい出来事のおかげで吹き飛んでしまった。心臓の音がうるさく、耳鳴りも始まった。

「背負うぞ」

「ん、誰かに見られないようにして」

「ああ、気を付けるよ」

 背負った時、何か、俺の中から吸われた気がした。今はその感覚が何を意味しているのか、考えないようにして歩く。違和感よりも、人に見られたら相当ヤバいので周囲を気にしながら歩いている。

 結局、一人暮らしの部屋へと戻り、布団に女を寝かせた。掛布団もしたので、はた目には寝ているように見えるだけ。血のような液体が止まらず、このまま放置だけだと、おびただしい体液に濡れるだろう。

 連れてきたときに出来た黒いシミや、返り血のついた衣服を片付ける際、かなりの粘性があったりする。奇妙な事に、アスファルトに落ちるとすぐさましみこむように消えてしまった。

 俺の衣類についた分は消えることが無かったため、捨てることにした。上手く血液の事が処理で来ていたことにほっとする。まるで、犯人にでもなった気分だよ。

 何度か水を飲んで深呼吸をし、精神的に俺も落ち着いてきた。

「さて」

 女の口についていた汚れをふき取って頭の上に濡れた手拭いをおいてやる。そうするだけでも、見た目はまだましになる。

 時折苦しんでいたが、しばらくすると静かに呼吸するようになる。死の匂いがしなくなってきた。不思議なものだ。

 死んでもおかしくない重症なのに、問題ないとは驚いた。目の前の人物が死にそうな気配は全くない。

「……おかゆぐらいなら食べるかな」

 今晩はおかゆにしよう。七草粥にはまだ早いがまたその時にすればいい。まぁ、今日は食べるのは難しいと思うけどな。

 おかゆもできて汚れたタオルもゴミ箱につっこみ、いつ起きてもいいように準備万端である。血液だと思っていたものはどれも影のように見えたが、そうなると目の前の女は何者なのかわからなくなる。

「……Nathan」

 真っ白だった顔に、血の気が通ってきた。その時に、そんな言葉を発した。

「ネイサン? 姉さん? いや、ネイサンって確かジョナサンとかの愛称だったかな」

 寝言だからよくわからなかった。なんだかさみしそうな左手をつかんで、せめて夢の中で呼びかける人物に会えるよう祈っておいた。

 こんな状況を、俺は一人で切り抜けられるとは思えない。誰かしらの助けは必要だろう。


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