第49話 囚われの身
アルフレードの前から走り去った後、エレナは無我夢中で庭へ出た。
そこは、幼い頃、妖精のフーと出会った場所だった。
空は赤から夜の紫へ染まり始めている。
エレナは誰もいないその庭に崩れ落ちると、アルフレードから貰った指輪ごと自分の手を抱きしめ、声にならない嗚咽を漏らした。
(アルフレード様……!)
エレナは潰れる肺に何とか空気を吸い込み、溢れ続ける涙をぐいと拭くと、指輪をそっと外した。
(これは、私が持っていて良い物じゃない……。アルフレード様に、お返ししよう)
咄嗟に逃げてしまったが、アルフレードの気持ちは、先程の叫びで痛い程わかったつもりだった。
自分を必死で叱咤し、エレナは間も無く自分に追いつくであろうアルフレードと向き合うため、立ち上がり振り返った。
「──え」
だが、そこにいたのは、エレナが今一番会いたくない人物──ソフィーネ・ボルドー伯爵令嬢だった。
蜂蜜色の髪を風に柔らかく靡かせ、ソフィーネは、泣いているエレナの顔と、手に握られた指輪を見比べ、可憐な顔に驚きの表情を浮かべた。
「なんてことでしょう」
鈴の鳴るような可愛らしい声で、ソフィーネが言った。
「あ……あの」
エレナが状況を誤魔化そうと言い淀むのを無視して、ソフィーネは駆け寄ると、バッときつくエレナの両手を握りしめた。
ぎりりと爪が食い込み、あまりの勢いに、指輪が地面に落ちた。
エレナは顔を歪めたが、ソフィーネはそのまま力を緩めることもなく、にっこりと微笑んだ。
「あなたを探していたの。嬉しいわ──こんな場所に、一人きりでいてくれて」
エレナは、自分を見つめる大きな菫色の瞳に、確かに狂気が渦巻いているのを見た。
咄嗟に離れようとしたが、もう遅かった。
気付けばエレナの周囲には、吐き気がするような悍ましさを漂わせた魔力が広がり、それが蛇のように形を作ったかと思うと、一瞬のうちにエレナの両手足に巻き付いた。
「──!!」
声にならない叫びをあげ、エレナはソフィーネに手を掴まれたまま、転移の魔術陣に飲み込まれてしまった。
「きゃあ!!」
転移の光が消えると、エレナは両手足を魔術で縛られたまま、力一杯ソフィーネに床へ向かって引き倒された。
両腕で何とか身体を庇ったが、エレナはなす術もなく、うつ伏せで床に転がった。
体に痛みを感じるのと同時に、エレナの肺に、咽せ返るような強烈な甘い香りが流れ込む。
辺りに立ち込めたその匂いは、ソフィーネの体からも感じていた、不思議な香りだった。
混乱した頭で、状況を理解するために何とか上体を起こし、周囲を見回す。
「ここ……は……」
そこは、広々とした石造りの古い神殿のような場所だった。
長い間使われていなかったようで、空気は埃っぽい。
高い天井から幾重にも垂らされたタペストリーはボロボロで、色褪せた金のそれには、天から舞い降りる竜が描かれていた。
窓はない代わり、壁際に置かれたおびただしい数の燭台には、ろうそくの火が揺らめき煌々と屋内を照らしている。
壁には何枚も大きな絵が飾られ、そのどれもに、長い金の髪を湛え、竜の翼を持った美しい人のようなものの姿が描かれていた。
描かれている人物の殆どは、発光する程に真っ白な肌をしていたが、絵によっては、青や赤の肌で描かれたものもある。
両脇には等間隔に長椅子がずらりと並び、祭壇であろう正面の壇上には、真っ白な彫像が置かれていた。
壁の絵と同じ、大きな翼を広げた美しい人物が、優雅に竜の背に座っている像だった。
祭壇から正反対──入り口付近で蹲るエレナは、目の前の光景に息を呑んだ。
目の前に立つソフィーネの向こう、祭壇の像のすぐ下に、傷だらけのサーリャがいたのだ。
「サーリャ……!」
エレナは思わず名前を呼んだ。
だが、その声にサーリャが反応することはなく、じっとしたままだ。
何ヶ所も鱗が剥ぎ取られ血を流すサーリャは、ぐったりと蹲り、虚な瞳をしていた。
だがそれでも、大切そうに卵に尾を巻きつけ、体に引き寄せ守っていた。
エレナはすぐに駆け寄りたかったが、手足に絡まる蛇のような魔力の縄のせいで、立ち上がることもできない。
感情の読めない目でエレナを見下ろしているソフィーネに向かって、エレナは懇願した。
「どうしてこんな……お願いです、これを解いて下さい。今すぐ手当しないと、あの飛竜は死んでまうかもしれません!」
「まあ……」
ソフィーネは上品に口に手を当てると目を丸くし、儚げな顔に似合わない、嘲るような微笑みを浮かべた。
「自分よりも竜の心配をするなんて……あなた、ご自分の状況が全くおわかりじゃないのね」
ゆっくりとエレナの側にしゃがみ込むと、目を細めてエレナの髪を掴んだ。
「いっ……!!」
無理矢理後ろ髪を引っ張られ、エレナは痛みに顔を歪める。
そのまま強く頭を揺さぶられ、美しくまとめられていた髪がばらりと崩れると、ソフィーネはエレナの髪に編み込まれていた組み紐を勢い良く引き抜いた。
「ずっと思っていたのだけれど……この色は、あなたには似合わないと思うの。アルフレード様を、私に返してくださいね? あなたはここで、触媒になるんですもの。よかったわね。あなたは選ばれたのよ」
ゾッとするような薄ら笑いを浮かべると、ソフィーネは手に小さな攻撃魔術の陣を描き始めた。
ソフィーネが使おうとしている魔術の陣を、エレナは知っている。
大昔に使用が禁止された、脳に直接苦痛を与える拷問のための魔術だった。
恐怖に身を強張らせ、咄嗟に魔術防壁を展開しようと魔力を巡らせた。
その途端、エレナは自身の異変に困惑した。
「──え?」
魔力を巡らせることはできる。
だが、どれだけ陣を描こうとしても、なぜか上手く形にできないのだ。
恐怖と焦りを滲ませたエレナを見て、ソフィーネは笑みを深める。
「お気付きになりました? 魔術を使えないでしょう? その手足の魔力の縄が、魔術の構築を阻害しているんです。私が開発した、自信作なんですよ」
ソフィーネは青ざめたエレナに向かって、ドロリと濁った色で光る手の中の小さな陣を、見せつけるように近付けた。
「さ、私と遊びましょうね」
寸前まで迫った魔術陣から目が離せず、エレナが恐ろしさから息を止めた、その時だった。
「──ソフィーネ、それくらいにしろ」
祭壇の方から低い男の声がして、ソフィーネはむくれた表情で肩を落とすと、パッと陣を霧散させた。
「触媒を無駄に傷付けるな。後が面倒になるだけだ」
祭壇のすぐそば、一番前の長椅子に寝そべっていたらしい。
癖のある黒髪に浅黒い肌をした男が、ゆっくりと起き上がりながら言った。
気怠げにエレナを見た切れ長のその瞳は、サヴィスやソフィーネと同じ菫色。
兄ルカより十歳程年上だろう男は、不機嫌そうに顔を歪めていた。
ゆったりとした長袖の服は、白地に豪奢な金の刺繍が施され、首には魔石が連なる首飾りが怪しく光っている。
男が着ている服は、明らかに苛烈な宗教国家である隣国特有のものだった。
「良い所でしたのに、意地悪ですわ。この女にアルフレード様を奪われた私が、どれ程悲しかったかご存知でしょう? 少しくらい罰を与えても良いではありませんか」
ソフィーネが抗議すると、男は立ち上がり、品定めするような視線をエレナに向けながら、ゆっくりと近付いて来た。
「もうすぐアルジェントは私のものになるんだ。そうすればお前は、アルフレード・モンテヴェルディと結婚でも何でもするがいいさ。それで充分だろう」
目の前にやってきた男は、エレナの腕を掴み無理矢理立ち上がらせると、薄い唇に酷薄な笑みを浮かべた。
「これから、お前の不敬を一切罪に問わず、私の名を呼ぶことを許そう。お前は、私を神にしてくれる触媒なのだからな」
「神……? あなたは一体……?」
話が理解できずに、エレナはそのまま言葉を繰り返す。
男はニタリと笑うと、ゆっくりと名乗った。
「私の名は、ナーディル・ユジ・アラジニール。仲良くしよう──触媒の娘」
エレナは驚きに目を見開いた。
ナーディル・ユジ・アラジニール。
それは、元はアルジェントと一つの国であった隣国──宗教国家アラジニールの、王の名だった。




