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とある茶番劇の華麗ならざる舞台裏  作者: 海野宵人


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冬休み (8)

 あの大捕物のあった日から数日後、レーナはマグダレーナから声をかけられた。


「レーナ。あなた、この母に伝え忘れていることがあるんじゃなくて?」

「え」


 これはもう、叱られる予感しかない。

 しかし困ったことに、叱られる理由にまったく心当たりがない。

 それでもせめて今から少しでも挽回しようと、いったい何を忘れているのか、自分の記憶の中を必死に探し回る。が、何も思い当たらない。どうしよう。


 困り果てて首をひねっているレーナに、母は「おやおや」という表情で片眉をつり上げた。そして手にしていた封筒を、差出人の名前がレーナによく見えるように目の前にかざしてみせた。差出人は、ジーメンス公である。


「正式に婚約のご挨拶をしたいと、お手紙が送られてきたの」

「え、婚約?」


 思わず「誰の?」と尋ねそうになったが、母にじっと見つめられていたため言葉に出さずに飲み込んだ。そのまま眉根を寄せて、一生懸命に考えた。考えて、考えて、そしてついに思い当たった。あの日、ジーメンス邸に帰還する前に馬駐めでアロイスから「結婚してください」と言われ、うなずいたことに。


「あ」

「ちょっと。ねえ、まさか忘れてたなんて言わないでしょうね?」


 そのまさかである。きれいにけろりと忘れていた。

 レーナは、後ろめたいあまりに母から視線をそらした。


 だって、仕方ないではないか。

 自分のやらかしの結果が国際事件の容疑者逮捕につながったなどという、とんでもない話を聞いた後では、レーナのごくごく個人的な話などいつまでも記憶にとどまっているわけがない。たとえそれが、彼女の人生の一大事にかかわることであったとしても。

 そもそも記憶に残るには、あまりにも実感のない出来事だったのだ。


 娘の反応に、マグダレーナは呆れかえった顔でくるりと目を回して苦笑した。


「まったく、仕方のない子ねえ。こういうお手紙が届くということは、あなたからきちんとお返事したと思ってよいのかしら?」

「きちんとかどうかはわかりませんが、お返事はしました」


 自信なさげに首をかしげながら答える娘に、マグダレーナはため息をつく。


 彼女は自室に娘を招き入れ、あの日のアロイスとの外乗の一部始終について尋ねた。問われるがまま、レーナは素直に順を追って出来事を話す。ただし話すには差し障りのある内容、たとえばアロイスの涙を見てしまったことなどには触れずにおく。

 話を聞き終わると、マグダレーナは微笑んでうなずいた。


「なるほどね。確かにまあ、大変な出来事の合間のことだったものね。ただしそれはそれとして、忘れていたっていうのは、ひどいわ」

「はい。ごめんなさい」

「謝る相手が違うでしょう? とにかく、準備をしましょうか」

「はい」


 母にうながされて、ヨゼフにも報告に行く。

 一緒に行ってくれるのかと思っていたら、レーナに甘い母にしては珍しくきっぱりと断られた。


「自分のことなのだから、自分でご報告していらっしゃい」


 父は、居間で新聞を読んでいた。


「お父さま」

「ん?」


 声をかけると、ヨゼフは新聞を閉じて顔を上げた。

 レーナは話をどう切り出したものかわからず、もじもじする。なかなか口を開かない娘に、ヨゼフは怪訝そうな顔をした。


「何だ、どうした?」

「ええっと……」


 なおも切り出しあぐねて口ごもる娘に、ヨゼフは片眉を跳ね上げて、対角のソファーを手で指し示す。


「まあ、座りなさい。何か話があるんだろう?」


 おとなしくソファーに座ったレーナは、意を決して口を開いた。


「アロイスさまから、求婚されました。そして、それに『はい』とお返事しました」

「そうか」


 ヨゼフは短く相づちを打つだけで、その表情は読めない。レーナは少し居心地悪く思いながら、もうひとつの報告を口にした。


「それで、ジーメンス家からご挨拶したいとお手紙が届いたそうです」

「そうか」


 ヨゼフは背もたれから身体を起こすと、新聞をたたんでテーブルに置いた。そして足を組んで膝の上に腕を置き、その上に頬杖をつく。


「求婚されたのは、いつの話だったんだ?」

「先日の、外乗に出た日です」

「もう何日も前のことじゃないか」


 報告が遅いことを言外にとがめられているように感じて、レーナは視線を落としてうつむいた。


「お屋敷に戻った後にいろいろありすぎて、頭からすっぽり抜けちゃったというか……」

「つまり、忘れてたのか」


 図星を指されたレーナはうつむき加減に上目で父の顔色をうかがいつつ、「はい」と神妙にうなずいた。

 するとヨゼフは、思わずといった風に小さく吹き出した。


「ひどいな、お前。彼も気の毒に」


 父の反応が意外で、レーナは顔を上げて目を瞬いた。別に報告が遅かったととがめているわけでもないし、機嫌を損ねてもいないらしい。純粋に、どうして時間があいたのか疑問に思って尋ねただけのようだ。


「それにしても、まさか本当に申し込んでくるとはなあ」

「本当にってどういうこと?」

「ああ。何年か前にも申し込まれたことがあったんだよ。あれはハーゼ領に移った少し後だから、五年くらい前かな。そのときは、断った」

「え」


 初耳である。

 ヨゼフによれば、五年ほど前にもジーメンス公エーリヒから婚約の打診があったのだと言う。しかし、そのときは断った。と言っても、相手に不足があったからではない。


 政略なら、そもそも受けるつもりがなかった。

 そういうわけではなく先方が見初めたと言う話だったが、まだ子どもの言うことだ。数年もすれば好みだって変わるかもしれないし、学校に通うようになれば世界も広がり、気持ちが変わることは大いにあり得るだろう。幼いうちから婚約という形で視野を狭めるようなことをするのは、お互いの子どもにとってあまりよいことではないのではないか、という理由だった。


 社交界に出るくらいの年齢になっても気が変わらず、かつレーナが話を受けたいと言うならば、そのときまた申し込んでくれ、とエーリヒには伝えた。エーリヒはそれに納得し、同意した。


「そもそもあの頃、レーナから彼の名前を聞いたことがなかったからな。ベルちゃま、ベルちゃまって、あちらのお嬢さんとはだいぶ仲がよかったようだが」


 その「ベルちゃま」が彼だったわけなのだが。さすがに言えない。言えるわけがない。


 それはそれとして、アロイスから聞いた話と、たった今、父から聞いた話とでは、微妙に食い違いがあることにレーナは気づいた。

 明らかにアロイスは、当時ヨゼフから断られたとは思っていない。たぶん「しかるべき年齢になって、レーナの承諾を得たなら認めよう」と言われたと、とても前向きに解釈している。大人びているとは言っても、当時の年齢を考えたらまだ子どもだ。言われた言葉を、きっと素直に言葉どおりに受け取ったのだろう。


「レーナから見て、彼はどんな人間だ?」

「ええっと……。とても、優しい人です」

「ほう。でもあれは、ただ優しいだけの男じゃないだろう」


 それは質問ではなく、所感だった。父の言葉に、レーナは少し考え込む。


「そう言われてみれば、剣術大会のときは迫力があって、すごくこわいと思いました」

「へえ。ヴァルターとどっちが上だ?」

「迫力の種類が違うから、単純には比較できません。お兄さまは力強くて、アロイスさまは鋭い感じ。でも、だから、こわさでいくとアロイスさまのほうが上かも」

「そうなのか。そりゃあ、試合を見てみたかったな」


 ヨゼフは、楽しそうに笑った。


「俺の目に彼は、物静かだが誰にでも礼儀正しく気配りができる、慎重で真面目な努力家に見える。反面、いくらか融通が利かないというか、思い詰めてしまうところがありそうだが、まだ若いからな。そこはこれからだろう」


 レーナは父の観察眼に、目を見開いた。

 ヨゼフは娘の顔を見て小さく笑い、笑顔のまま目もとをさらにゆるめる。


「レーナ。よかったな」

「はい」


 ヨゼフの短いが温かく心のこもった祝福の言葉に、レーナは初めて自分が求婚を受けたのだという実感がわいてきたのだった。

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