冬休み (7)
レーナがジーメンス邸に無事に帰還したため、捜索本部は解散となった。
レーナはパトリックに連れられて自宅に戻ることになる。
屋敷では、先触れから状況を聞いていた家族に呆れ顔で迎えられた。特に母からは、顔を合わせるなり小言を見舞われた。
「ただいま戻りました」
「無事でよかったけど、本当に心配したのよ。今日のあなたは、まったく感心しないわ」
「ごめんなさい……」
「ジーメンス家のかたがたにも、きちんと謝罪してきたのでしょうね?」
「はい」
しゅんとしている娘を見て、マグダレーナはため息をついた。
今日という今日こそはしっかり叱ってやらねばと思っていたのに、しょげきった娘の顔を見たらもうそれ以上は叱れなくなってしまった。やはりこの母は、娘に甘い。
「さあ、着替えていらっしゃい。お父さまがお戻りになったら、お食事にしましょう」
「はい」
その日ヨゼフが帰宅したのは、いつもの夕食の時間を少し回ってからだった。
夕食の席で、ヨゼフはこの日の事件の一部始終を家族に語った。レーナが遭遇したひき逃げ事件は、実はヨゼフが片づけてきた大きな事件の中の、ほんの一部にすぎなかった。それも国際問題となるような、割と大きな事件だった。
発端は、なんと秋休みのレーナたちの観劇にまで遡ると言う。
アロイスとレーナが「置き引きらしき犯行現場」を目撃し、それをハインツに話したことがきっかけとなり、隣国シーニュからの間諜の存在が明るみに出たのだ。
まずハインツから国王リヒャルトに、アロイスとレーナの目撃した出来事について伝えた。それを聞いてリヒャルトは、憲兵隊に取り締まりの強化を命じる。
憲兵隊はレーナたちの目撃情報をもとに、私服でオペラ座への潜入捜査を行った。その結果、幕間で観客が席を外した隙に、懲りもせず同じボックス席に忍び込んだ若い男を捕らえることとなった。しかしこの男、置き引きではなかったのだ。もっとずっとたちが悪かった。
捕らえた若い男を尋問したところ、置き引きではなく間諜の内通者であることがわかった。ボックス席の利用者は、シーニュ王国から送り込まれた間諜だったのだ。
この間諜は、ボックス席を介して内通者と情報をやり取りしていた。
内通者は、間諜が幕間で席を外したときにボックス席に入る。このとき座席には、内通者への指示書が置かれている。そして内通者は新しい指示書を受け取り、前回の指示書で指示された情報を書類にまとめて座席に置いていく。このようにして、互いに直接顔を合わせることなく情報をやり取りしていた。だからこの若い男は、間諜の顔を知らない。
内通者は、王都の港の船主組合で会計士として経理の仕事を勤めていた。
ノアが憲兵の詰め所を訪れたのは、組合長であるヨゼフに代わってこの会計士の調査に協力するためだった。どうやら内通者は船主の情報や、入港や出港などの情報を間諜に流していたらしい。
憲兵隊は間諜を捕らえるために、くだんのボックス席の契約者を当たった。しかし、これは不発に終わる。ボックス席の契約者は、金を受け取って代理契約しただけの者だったのだ。しかも人を介しての依頼だったため、この代理契約者も間諜の顔を知らない。
間諜がボックス席を観客として利用していることまではわかったものの、誰もその顔を知らない状況の中では、間諜を捕縛するには彼らがボックス席に観客としてやって来るときを狙うしかなかった。内通者の供述によれば、毎週水曜日の昼の興行時にやってくることになっていると言う。そのときを狙って逮捕しようと、憲兵たちが私服で潜入して待ち構えていた。
ところが、その日に限って彼らは現れなかった。憲兵隊の動きを気取られてしまったようだ。
こうして作戦は失敗に終わったかに思われた。
そこへ現れたのが、レーナだ。
彼女自身は、ひき逃げ事件の通報に来たと言う。しかし事情を聞くうち、彼女の目撃したひき逃げ犯と、憲兵隊が現在追っている間諜とが同一人物であることが判明する。となれば、彼女の情報をもとに追えばよいわけだ。
一気に形勢が変わり、憲兵たちは色めき立った。
一方で、レーナがひき逃げ犯を自分で追ってしまったと勘違いしたジーメンス家では、レーナを無事に保護するために捜索を開始していた。ジーメンス家から要請を受けた憲兵隊も、捜索に加わる。
こうして、憲兵隊のふたつの分隊がそれぞれ同じ者を追うことになった。
最終的に、間諜は身柄を確保されるに至る。
間諜を捕らえたのはしかし、憲兵ではなくヨゼフだった。
ジーメンス家の従者が語った「逃げた男は、ジーメンス家の名を騙っていた」という話は、数年前に起きたハーゼ領での一連の事件をヨゼフに思い起こさせた。そこで念のためヨゼフは、王都の港に向かっていたのだ。
港に着いたヨゼフは、船主組合を通じて、入港中のすべての船に対して警告を発した。警告の内容は「ジーメンス公の署名入り書簡を盾にして無理を通そうとする者があれば、その書簡は偽造されたものである可能性が高い。またその者は、間諜の疑いを掛けられた容疑者である可能性が高い」というものである。
果たして容疑者は、とある客船に乗船していた。
ジーメンス公の名を使って、予約外で無理やりねじ込んできたそうだ。その客船の船主から連絡を受けたヨゼフは、マルセルを伴って船に踏み込んで、男女ふたりを拘束した。それを憲兵隊に突き出したところ、レーナはすでに無事に帰還していると聞いて、自身も引き上げてきたのだそうだ。
レーナは、聞いた話の壮大さに言葉も出なかった。
考えようによっては、彼女が無分別に通報に行ったことが事件解決につながったと言えないこともない。しかしさすがに彼女も、そんな言葉を口にしないだけの分別はあった。これだけ多くの人々に迷惑をかけておいて、そんなことが言えるはずがない。
ヨゼフは話し終わると、レーナをじっと見てから声をかけた。
「レーナ。今日は、ずいぶんお転婆をしてきたそうだな」
「はい。ごめんなさい」
レーナはしおらしく謝まった。
「まあ、お転婆はいいんだよ。でも、ひとりで勝手な行動をとるとどういうことになるのか、今日のことでレーナも身にしみただろう?」
「はい。よくわかりました」
「そうか。わかったなら、それでいい。今後何かするときには、自分はひとりじゃないことをよく覚えておきなさい」
「はい」
もっとたくさんの小言を覚悟していたのに、父からの叱責はただそれだけだった。
しかも、お転婆は別にいいらしい。
けれども父の「自分はひとりじゃない」という言葉は、アロイスやレベッカ夫人の涙の記憶とともに、レーナの胸のうちの奥深くまで静かに染み込んでいった。自分は決してひとりじゃない。心配してくれる人がたくさんいる。どんな事情があれ、そういう人たちの存在を忘れてはいけないし、なるべく心配をかけることのないよう心がけるべきだ。
何だか長い一日だった。
ヨゼフから聞いた壮大な捕り物劇の話に圧倒され、母からも父からも叱られてしょんぼりし、レーナはとても大事なことを忘れていた。
いろいろなことがありすぎたせいで、ジーメンス邸に戻る前にアロイスと交わした会話の内容が、もうすっかり記憶の彼方に飛んで行ってしまっていたのだ。だからそれを両親に伝えなくてはいけないなんてことは、きれいさっぱり忘れてしまっていたのだった。




