観劇 (3)
今日の行き先は、市民劇場だ。
アロイスは夕食をレンホフ邸でとることを家に伝言するよう御者に伝え、迎えの時間を指示した上で馬車をいったん家に戻らせた。ジーメンス邸は劇場からそれほど遠くないので、劇が終わるまでの間に十分往復できる。
「ハインリヒ四世」はなかなか好評のようで、入り口のロビーは観客でごった返していた。決してアロイスと離れぬよう母から厳命されているレーナは、ひしとアロイスの腕にすがりつく。しっかりつかまっていないと人の流れの中で離れてしまいそうで、不安だったのだ。
アロイスの誘導に従って恐ろしいほどの人混みのロビー中央の階段を上がり、人の流れを無視してさらにもうひとつ階段を上がってから通路に出た。ここまで来ると、人がずいぶん少なくなる。通路にはまるでホテルのように重厚な扉が並んでいて、それぞれの扉には番号が彫られた金属プレートが取り付けられていた。
アロイスが開けた六番の扉を抜けて中に入れば、そこはボックス席だった。手すりから身を乗り出すと、眼下にはバルコニー席とオーケストラ席が広がっていて、無数の人々が席を探して行き交っていた。ここは、観客を観察するには絶好の場所のようだ。ただし、肝心の舞台は少々遠い。
「舞台が遠い席でごめん。本当はバルコニー席の最前列が一番いいんだけどね。この芝居は今一番の人気で、全然チケットが取れなかったんだ」
「え、でもここを取ってくださったじゃありませんか」
「ここならチケット不要なんだよ」
チケット不要と言っても、まさか人気の公演で予約が不要のはずはあるまい。そもそも、なぜチケットが不要なのかがわからない。意味がわからず首をかしげるレーナに、アロイスが説明した。
このボックス席は、ジーメンス公爵家が年間契約しているそうだ。だからジーメンス家の者は、いつでもどの公演でもこのボックス席を利用できる。もちろんジーメンス家から招待された者が利用することもできる。ボックス席はそのように年間契約で利用されることも多く、劇場の安定運営にひと役買っているのだそうだ。これも「芸術支援」という貴族の嗜みのひとつらしい。
ちなみにジーメンス家のボックス席は七番だが、最も中央寄りである四番と五番のボックス席は王家が定期契約していると言う。ひとつ契約するだけでもすごく費用がかかりそうなのに、ふたつもだなんて、とレーナは下世話なことを想像して嘆息した。
ただし王家が契約していると言っても、王族が好き勝手に利用するためというわけでもなく、主に社交目的、たとえば外交上での接待などで利用されることが多いらしい。もちろん王族が利用することもあるけれども、王宮勤めの者の中から希望者があれば抽選で利用させるなど、福利厚生のひとつにもなっていて、決して無駄にはしていないそうだ。
ジーメンス公爵家のボックス席の利用法も、似たようなものだとアロイスは言う。言われてみればジーメンス公エーリヒは外務大臣だから、確かに国外からの賓客をもてなす機会も多そうだ、とレーナは納得した。
「オペラグラスは持ってる?」
「ありません。どうしよう、必要でした?」
「大丈夫。ちょっと待ってて。すぐ戻るから、ここにいてね」
そう言い置いて、アロイスは扉から外へ出て行ってしまった。ひとり残されたレーナは、再び手すりから身を乗り出して観客席を眺める。
レーナたちのボックス席は舞台の正面で、後方のバルコニー席の上に張り出す形になっていた。舞台からは遠いかわりに、舞台全体がよく見える。ボックス席の中ではおそらく最も上等な席だ。その証拠に席の番号も若い。上等な席の順に番号を振ってあるに違いない、とレーナは思う。
ボックス席は舞台の正面に位置するものよりも、左右の壁に造り付けられたもののほうが数が多い。左右のボックス席は位置によっては舞台に近いが、そのかわりに舞台全体は見渡しにくそうだった。舞台に近い席というよりは、舞台の袖に近いという感じがする。ひいきの役者がいるなら、役者が近くに見えて楽しめるのかもしれない。
そんな風にあれこれ考えながら観客席を観察していると、視界の端にちらりと見覚えのある顔が見えた気がした。よくよく目をこらせば、最も舞台の袖に近いボックス席に、学院の美術教師とよく似た姿が見える。しかしあまりにも遠くて、確かにそうだと言い切る自信はない。
レーナが首をかしげながらじっと見ていると、アロイスが戻ってきてすぐ隣で同じように手すりにもたれ、レーナの顔を覗き込んだ。
「何か面白いものでもあった?」
「面白いっていうか、ボルマン先生が見えた気がして」
「へえ。どこ?」
「右手のボックス席のうち、舞台に一番近いところの二階です」
「確かにここからだと、ちょっと遠いねえ」
アロイスは自身のバッグからオペラグラスを取り出して、目に当てる。
「本当だ。ボルマン先生だ」
アロイスに渡されたオペラグラス越しに確認すると、間違いなく美術教師のパウル・ボルマンだった。
「よく見つけたね」
「あのあたりの席からだとどんな風に見えるのかなと思って眺めてたら、目についちゃったんです」
「なるほど。あそこは一度入らせてもらったことがあるけど、舞台に近いかわりに、割と死角が多かったよ」
「ああ、やっぱり。そうかなあって想像してました」
観客席を眺めながらアロイスと話しているうちに、扉をノックする音がした。アロイスが返事をすると、劇場の制服を着た男性がオペラグラスを手にして入ってくる。
「オペラグラスをお持ちしました」
「ありがとう。こちらの彼女に」
「かしこまりました。どうぞ、お使いくださいませ」
男性がうやうやしくオペラグラスを差し出してきたので、レーナは礼を言って受け取った。男性は深々とお辞儀をしてから部屋を出て行った。
このオペラグラスは、劇場からの貸し出し品だとアロイスが説明した。定期契約されたボックス席の利用客には、必要に応じて貸し出してくれるのだそうだ。接待のための利用が多いことを鑑みてのサービスらしい。返却するには、帰るときに劇場の者に渡せばよい。
説明を聞いているうちに時間になったようで、開幕のベルが鳴り響いた。




