秋休み (4)
マグダレーナは、一番上のトレーの隅に置かれた、小粒の宝石で飾られたプラチナの指輪を指さして、懐かしそうな顔をした。
「この指輪はね、アンヌマリーさまの結婚指輪よ」
「へえ。他のに比べて、ずいぶんあっさりしてるのね」
「そうねえ。まだヨゼフさまが叙爵して間もなくの頃だったから」
つい忘れてしまうけれども、父ヨゼフは身ひとつで貴族にのし上がった孤児だったのだ。きっとこの指輪を買うので精一杯だったのだろう。
そんなレーナの考えを読んだかのように、マグダレーナは首を横に振った。
「そうじゃないわ、レーナ。もっと立派なものを買えるだけの経済力は十分あったのよ。だけどアンヌマリーさまは、『成り上がり貴族と結婚した、慎ましい平民の娘が持つのにふさわしい指輪』を選んだの」
「よくご存じなのね、お母さま」
「ふふふ。それどころか、それが理由でけんかになったところまで知ってるわ」
「え、けんか? なんで?」
一生に一度の品だから元侯爵家のお姫さまだった彼女にふさわしい豪華な品を用意しよう、と意気込んでいたのに、アンヌマリーが選んだのは質素とも言える指輪だったので、ヨゼフが拗ねてしまったのだそうだ。そんな痴話げんかも間近で見聞きする程度に、マグダレーナはアンヌマリーと親しく交流があったらしい。
拗ねる父の姿はとても想像できなかったが、何だかかわいらしいけんかの理由に、レーナは笑ってしまった。
「やっと渡せたわ。今日からあなたが管理するのよ。大事になさい」
「はい、お母さま」
レーナは宝石箱を自室に持ち帰り、衣装部屋の最奥に備え付けられている金庫に入れた。今までずっと空っぽだった金庫の、初めての中身だ。最新型のこの金庫はダイヤル式で、錠前がない。ダイヤルを回して鍵を閉めると、少しホッとした。想像するのも恐ろしいほど価値の高そうな宝飾品を持たされて、どうやらレーナは思っていた以上に緊張していたらしい。
そのままレーナが自室の衣装部屋で手持ちの服を確認していると、珍しい来客があった。
「やあ、レーナ。久しぶり!」
「ノア叔父さま、ごきげんよう。王都にいらっしゃるなんて、珍しいのね」
「うん、兄さんに呼ばれてさあ」
ノアは、父ヨゼフの年の離れた弟だ。────いや、違う。レーナはずっとヨゼフの弟だと思い込んでいたが、真実を知った今ならば、ノアはアンヌマリーの弟だとわかる。彼は主に、新大陸との間の定期航路を担当していた。国を離れていることが多く、帰国してもハーゼ領の祖父母のところに滞在するのが常のため、王都の屋敷で姿を見るのは初めてだった。
レーナは、この叔父が大好きだ。
ノアはあまり背が高くなく、童顔だ。もうとうに三十を超えたというのに不思議なほど少年の雰囲気が抜けず、実際の歳よりもいつもずっと若く見られる。長兄パトリックと並ぶと、パトリックのほうが年長と思われるほどだ。
ノアは、船乗りの割にはあまり日焼けしていない顔に人なつこい笑みを浮かべた。
「お土産持ってきたんだけど、入ってもいい?」
「もちろんよ! どうぞどうぞ」
ノアの土産は、新大陸の原住民の手による特産品だというお守りだった。トルコ石がちりばめられた銀細工だ。
「わあ、きれい。叔父さま、どうもありがとう!」
「どういたしまして」
ノアはそのまま、航海中の土産話などを披露した。彼は話し上手で、いろいろな出来事を面白おかしく語って聞かせるので、レーナは会って話を聞くのを楽しみにしている。
仕事の上ではヨゼフに振り回されることも多いらしい。
「ちょっと聞いてよ。兄さんたら、ひどいんだよ」
そんな風に始まる仕事の愚痴さえ楽しそうに笑顔で語り、しかも笑い話に仕立て上げてあるので、毎回会うたびにレーナはお腹の皮がよじれるほどに笑ってばかりだ。愚痴とは言え、ノアは本当に苦手なことや嫌いなことは話題にしない。なのに、ノアの話にはヨゼフがしょっちゅう登場する。それはつまり、何だかんだ言いつつ兄が大好きという意味にほかならないのだった。
今日も苦しくなるほどレーナを笑わせた末、ノアは「また夕食のときに」と挨拶して客室に引き上げて行った。
その日の夕食の席は、いつになく賑やかだった。
レーナとヴァルターが帰省しているのに加えて、祖父母と、叔父のノアが滞在している上、パトリックまで顔を出していた。パトリックは学院卒業後に領主として独り立ちして以来、普段は伯爵邸に暮らしているのだが、何かあるとすぐ「帰省」と称してレンホフ邸にやってくる。
この日パトリックは、父と祖父母と一緒に王宮に上がっていたらしい。王宮での用事が終わった後、ノアもしばらくレンホフ邸に滞在すると聞いて、顔を出すことにしたようだ。
夕食の席でも、会話の中心はノアだ。
面白い話をいつものように次から次へと披露する。ときどき仕事の話が出てきて「兄さんたら、ひどいんだよ」が始まると、ヨゼフはとがめるでも反論するでもなく苦笑いしながら黙って聞いていた。夕食前に聞いた話もあるけれど、ノアの話は何度聞いても面白い。
全員が笑いすぎて腹筋がつらくなってきた頃、ノアは無邪気な顔でヨゼフに尋ねた。
「そういえば兄さん、王宮の用って何だったの?」
「ああ。シナリオの話だ」
ヨゼフの返事を聞いて、思わずレーナは息をのみ、食事の手が止まった。それは極秘事項の話ではなかったのだろうか。レーナは声を落として父に尋ねた。
「お父さま、それ、お話ししちゃって大丈夫なの?」
「問題ない。ここには関係者しかいないし、みんな内容も承知してるよ」
「えっ……」
レーナは父の返事に動揺した。内容を承知してるとは、どういう意味だ。そっと祖父母や叔父の顔色をうかがう。
「まさかあれ、みんな読んでたり……」
「こちらに来たとき一冊渡されて、読んだよ」
「僕も兄さんからもらって、読んだ」
祖父母も叔父も、しっかり読了しているらしい。極秘なら極秘らしく、もっときっちり秘してほしかった。レーナが恐る恐る母のほうを見やると、視線の合ったマグダレーナはにっこり微笑んだ。
「読みましたよ」
何ということだ。家族全員どころか、親戚全員の勢いで内容が知れ渡っている。レーナが恥ずかしさに身を縮こませていると、たった今思い出したかのように祖父がレーナに声をかけた。
「そうそう、聞いたよ。模範生だってね、おめでとう」
「ありがとうございます……」
何とか孫娘を元気づけようとする祖父の気遣いが、心にしみた。
まあ、読まれちゃったものは、仕方がない。くよくよするより前向きに考えよう、とレーナは自分自身に言い聞かせる。これだけ家族みんな関係者なら、逆に気楽かもしれない。何しろ家の中に限れば、うっかり部外者に口を滑らせる心配はしなくてよいのだから。
それに、もしかしたらノアにかかれば、今日の話だっていつかは抱腹絶倒の笑い話に変わるのかもしれない。いや間違いなく、きっとそうなる。
笑い話をするとき、ノアは決して他人を笑いものにすることはない。だからいつだって、安心して聞いて笑っていられるのだ。そう考えると、シナリオがノアの笑い話になる日が、ちょっと楽しみかもしれないような気がした。




