6.雀の嘘
どちらかが何かを言ったわけでもない。でも俺達は、無言のまま近くの公園に向かって移動していた。
金剛地は、道の真ん中で泣きじゃくるのが恥ずかしくなったのかもしれない。そして俺は、道行く人に『女の子を泣かせた男』として見られるのが、嫌だったのかもしれない。チュンも言葉を発することなく、ただ俺の後ろに着いてくるばかりだった。
公園には、誰もいなかった。
真夏の公園は太陽を遮る物がほとんどないためか、夏休みに入ってから、日中子供達の姿を見たことはない。
何となく、滑り台に近付いてみる。俺も子供の頃は、この滑り台でよく遊んだものだ。二階建ての家のように大きく見えていた滑り台も、今は小さな鉄骨の塊にしか見えなかった。
「あつっ!?」
台の鉄板に触れると、ホットプレートの鉄板かと思うほど熱かった。これじゃあ誰も遊ばないわな……。
人がいない理由がわかったところで、再度園内を見渡す。金剛地はブランコに腰掛け、足を使ってゆらゆらと前後に揺らしていた。俺も何となく彼女の方に向かう。
ブランコの鎖は先ほどの滑り台同様に熱かったが、触れないほどではない。座板の部分は木製だ。座ると尻がじんわりと熱くなったが、我慢できる熱さだ。
「うっ!?」
それでもいきなり声を洩らしてしまったのは、チュンが俺の膝の上に座ってきたからだ。
「悠護。わし、何回かこれに乗ったことあるで。なかなか面白いんじゃ」
チュンはそう言うと、俺の反応などお構いなしに足を使ってブランコを漕ぎ出した。金剛地が隣にいる以上、迂闊に喋ることができない。しばらくチュンの望みのまま、漕ぐことにしてみるか。
徐々にスピードが乗ってきた。顔を撫でていく風が汗に触れ、ひと時の清涼感をもたらす。気持ち良い。
「なぁ、悠護」
ブランコを漕ぎ続けながらチュンが語りかける。
「わしな、こうして悠護と遊ぶのが、夢じゃったんじゃ。ずっとずっと……夢じゃったんじゃ」
チュンの表情は俺からは見えない。けどその声は、空に溶けていきそうなほどか細いものだった。何故か、俺の心臓が僅かに跳ねる。
ブランコが一番高く上がったところで、俺は金剛地に聞こえないように、目の前のチュンの頭に向かって囁いた。
「そんなふうに思ってくれていたんだ」
「ああ。変かのう?」
「ううん。変じゃないよ。ありがとう」
それは、色々な意味を込めたものだった。
何度も、俺を助けてくれたこと。俺と遊びたいと思ってくれていたこと。そして何より、再び俺の前に現れてくれたこと――。
俺の心は、果たしてチュンに通じたのだろうか。チュンはそれっきり黙ってしまい、ブランコを漕いでいた足も動かなくなってしまった。
ブランコは緩やかに高さを落としていく。
慣性に従い、ただじっとしていた俺達。この時間がもう少し続いてくれたらいいような――そんな名残惜しさを感じてしまう。
ブランコが完全に停止したところで、チュンは俺の上から静かに下りる。そのタイミングを見計らったかのように、金剛地が話しかけてきた。
「波崎君。これの、ここを持って」
爺さんが彼女に渡した、折り紙の舟。その帆の部分を指差し、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼女は言う。こんな顔もできるんだ、彼女。なぜか、胸の辺りがざわざわした。
「じゃあ目を瞑って」
よくわからないままも、俺は言われた通り瞼を閉じる。人前で目を瞑るのって寝顔を晒してるようで、何だか少し恥ずかしい。
「いいよ。目を開けて」
時間にして三秒も経っていない。彼女の意図がわからない。不審に思いながらも、俺はそっと目を開ける。
舟の帆の部分を摘まんでいたはずの俺の指は、舟の船体部分を摘まんでいた。
あぁ、なるほど。そういうことか。
「騙し舟」
金剛地は舟の帆と船体の部分を交互に折り曲げて見せながら、小さく笑った。
幼稚園くらいの時に見たことがある気がする。何だか懐かしいな。
「私が小さい頃、お婆ちゃんの家に行って、よく折り紙をやっていたの。でもお爺ちゃんはいつもいなかった。そんなある日ね、家にお爺ちゃんがいたの」
奥さんの『引越し』の日のことか――。
爺さんから聞いた話を思い出しながら、俺は金剛地の言葉に、引き続き耳を傾ける。
「何だか嬉しくなっちゃってね。お爺ちゃんに、折り紙を一緒にやろうよって、話しかけたんだ。お爺ちゃんはびっくりしたような顔をしていたけど、私の誘いにのってくれた。でもお爺ちゃん、不器用だったのか、なかなか上手に折れなくてね。だから私、次に行くまでに覚えておいてね、って騙し舟の折り方を教えてあげたんだ」
……それが、爺さんが言っていた『約束』のことだったのか。
「それから二度と、お爺ちゃんと会うことはなかった。お婆ちゃんやお母さんとは色々あったみたいだけど……。それでも私にとっては、良い印象しか残っていないから」
爺さんに対する本当の想いを、今まで家族の誰にも言うことができなかったんだろう。金剛地の表情は、先ほどより少しだけ明るいものになっていた。
「波崎君、その、付き合ってくれてありがとう。二学期、また学校でね」
金剛地は小さくはにかむと、手を振りながら公園を後にした。
金剛地の姿が見えなくなったところで、俺はふと物思いに耽る。
騙し舟か。自分が帆だと思っていた部分が船体の部分に瞬時に変わる――。
なぜだろう。何だかさっきから、もやもやする。
まるで自分の目に見えているものが、本当に真実を映しているのか? と、そう問われているような気がして。
そこで俺の頭に『あること』が過ぎる。
確認しようと振り返った俺は、思わず息を呑んだ。
「チュン……?」
チュンの足元が、光っているのだ。
そう、まるでさっき逝った、爺さんのように――。
「チュン。お前……」
まさか。でも。いや――。
俺の中に渦巻く感情も考えも、意味のある言葉になろうとしない。変な息が口から漏れてくるだけだ。
全身が震える。
チュンは俺を見て困ったように小さく笑うと、そこで突然、深く頭を下げた。
「悠護、すまん……。わし、今までおめぇに嘘ついとったんじゃ……」
「う、嘘?」
何だよ、嘘って。それは、今この状況で、打ち明けないといけないことなのか。
俺の動悸は激しくなるばかり。呼吸が上手くできなくなってきた。苦しい。 思わず心臓の上の服を鷲掴みにする。
「わしの魂は、おめぇに引き止められとったんじゃねぇ。本当は、わしがおめぇに対する未練を、断ち切れんかったんじゃ……」
さらに心臓が跳ねる。胸の痛みが増していく。
今まで出会った妖怪と幽霊が走馬灯のように頭をよぎる。彼らは、自らの想いでこの世界にいたモノばかりだった。
でも、チュンは――。
「わし、悠護と一緒にいたかった。もっともっと、一緒の時間を過ごしたかったんじゃ。悠護に拾われてからわし、本当に幸せじゃったんじゃ。ごめんな悠護。嘘ついとって、ごめんな」
チュンの漆黒の瞳から、透明な液体がポロポロと流れ出す。
チュンが、トラや柴犬よりも人間の言葉が流暢で、そして言葉が訛っていた理由――。
それは、チュンの方がずっと早く妖怪として生まれていたから。
十年近くも、あの爺さんと時間を共にしてきたからだということを、この時俺はようやく理解した。
「お前が妖怪になったのは、俺に踏み殺されて間もない頃だった、ということか?」
「そうじゃ」
「それなら、どうして? どうしてすぐに俺の前に現れなかったんだ?」
「悠護と、話がしたかったんじゃ」
チュンは俯きながら続ける。彼女の声は、先ほどからずっと震えていた。
「だから人間の言葉を完全に喋れるようになるまで、我慢したんじゃ。それに……」
「それに?」
「怖かったんじゃ。悠護に嫌われるんじゃねぇかと思って」
「馬鹿。お前が俺を嫌いになることはあっても、その逆はないだろ。俺がお前を嫌うだなんて、絶対にそんなこと!」
「そうか……。その言葉を聞けただけで、もうわしは満足じゃ」
チュンは静かに目を閉じる。目の端に残っていた涙が、またスルリと頬を伝った。
「悠護。人間ってええなぁ」
泣きながら、でも微笑みながら、チュンは続ける。
「消えそうになっている異種族の命を、無条件で救おうと思える。その優しさが、その温かさが、わしは大好きじゃ。だからわし、おめぇに拾われてから、人間に――悠護の温かさに魅入られてしもうたんじゃ」
チュンの身体が次第に透けていく。薄くなっていく。
これから何が起ころうとしているのか、さすがに俺でもわかった。俺の目の前から、この世界からチュンが消えようとしている――。
「いきなり何だよそれ。お前、俺に取り憑いたんだろ!? 俺がお前のことを気にしなくなるまで、取り憑くんだろ!?」
「本当にごめんな。わし、悠護と一緒に過ごせて、もう心が満たされてしもうたけん。心が満たされたら、わしら妖怪は存在できんのんじゃ……」
「いや、だよ……。ずるいぞお前……。いきなり現れたと思ったら、いきなりいなくなるなんて。そんなの、ずるすぎるだろ……」
「悠護……」
みっともないと自分でもわかっている。でも言わずにはいられなかった。縋らずにはいられなかった。
妖怪には全然見えなくて。
まるで、妹ができたみたいで。
幽霊や妖怪が見えるようになったのは困ったけれど。それでも、共に過ごした時間はとても充実していて、楽しかった。
「行かないでくれ……」
小さな子供みたいに駄々をこねる俺の頭を、チュンは小さな手でそっと撫でた。
無言だからこそ、よくわかった。もう、別れは変えられないのだと。
「チュン、最後に、元の姿を見せてくれるか?」
「ああ」
チュンは静かに頷く。眩い光が走った。現れたのは、初めて会った日以来見ていなかった、巨大な雀だった。
「もう俺、平気みたいだ。雀を見ても鳥肌は立たないし、胸が締めつけられるようなこともない。平気になった。だから――」
尚も未練がましく言葉を紡ごうとする俺の肩に乗ったチュンは、羽で優しく頬に触れる。
わかっている。何を言ってももう無駄なのだと、そんなことは俺にだってわかっている。
それでも――。
「ありがとうな、悠護。ずっと、大好きじゃ」
そうチュンが俺に告げた瞬間、光が、弾けた。




