2.田んぼの女の子
ガードレールの向こう側には、青々とした田んぼが広がっている。空の青色とのコントラストを横目で見やりながら、俺は車のほとんど通らない道を歩いていた。田んぼの反対側は山なので、多くの木々が太陽の光を遮断してくれている。やはり太陽の光を直に浴びながら歩くのと、日陰を歩くとでは体力の減り方も随分と違う。
と、前方から犬の散歩をしているおばさんがやってきた。
「こんにちは」
ごく自然に、挨拶の言葉を俺にかけてくるおばさん。
「あ、こ、こんにちは」
挙動不審な挨拶になってしまったが、おばさんは笑顔で応えてくれた。良い人だ。犬種不明の茶色の犬が、早く先に行こうと言わんばかりに息を荒げている。おばさんと犬は早足で行ってしまった。この道筋はずっと日陰が続いているから、アスファルトもそこまで熱されていない。犬も歩きやすいのだろう。
今のように、ここではすれ違う人が挨拶をしてくれる。だが、俺の家付近では見知らぬ人に挨拶などしない。小学生に声をかけようものなら、事案になってしまう可能性すらある。世知辛い世の中になったものだ。
世を憂いている時間はあっという間に終わった。ガードレールの向こう、田んぼのあぜ道に女の子を見つけたのだ。肩甲骨まである艶の良い髪が目を惹く。セーラー服に見を包んだその子は、しゃがんだ状態で田んぼの中をじっと見つめていた。アメンボでも観察しているのだろうか。
「なんじゃ悠護。あの幽霊が気になるんか?」
「えっ!?」
チュンの言葉に思わず俺は声を出してしまった。女の子を二度見するが、やはり爺さんのように透けてはいない。そこに存在している『人間』にしか見えない。だが改めて見ると、彼女のおかしい点に気付く。セーラー服が冬用なのだ。この暑い中、長袖でいるなんて正気ではない。肌が陽に弱い体質なのかと考えたが、それならばあんな日陰のない場所には行かないだろう。
なにより上手く言い表せられないのだが、何かこう……雰囲気が『古い』のだ。ここが田舎だから、という理由では片付けられそうにない。だって前髪をぱっつんと真っ直ぐに切り揃えてる女の子なんて、今の時代では滅多にお目にかかれないよ? 雑誌のモデルさんならともかく。
ううむ、透けていない幽霊もいるということなのか……。ということは、さっき挨拶をしてくれたおばさんもその可能性が――? やばい、自分の目に映る人間がちょっと信じられなくなりそうだ。
そんなことを考えながらじっと見続けてしまったからか、女の子がこちらに顔を向けた。思わず心臓が跳ね上がる。気付かなかった振りをしてこの場から離れよう――としたのだが、残念ながら遅かったらしい。女の子はふわりと浮き、俺の方に近付いてきてしまった。
「私に何か用?」
一瞬暑さを忘れてしまうほどの、清涼感のある声だった。セーラー服なので年齢は俺と同じくらいか少し下だと思うが、纏う雰囲気は俺より大人っぽい。少しだけ太めの眉は不快そうに内に寄っている。俺は反射的に後退りしてしまう。
やばい、もしかして怒らせちゃった? 特に意味はないけれど見ていただけなんです、と言って逃げ出せる空気ではなさそうだ。
「いや、特に用があったわけじゃねえんじゃ。すまんな」
しかしチュンが俺の代わりに、横から落ち着いた声で言ってくれた。女の子はチュンの姿を見て目を丸くする。
「この子、人間みたいだけど違うよね。妖怪? もしかしてあなた、妖怪を使役しているの?」
「いや、そういうわけでは……」
「わしは使役されとるんじゃねえ。取り憑いとるんじゃ」
頬を膨らませながら不満気な声を上げるチュン。女の子は「ふぅん……」と小さく呟いて、チュンと俺とを交互に見比べる。値踏みされているようでちょっと落ち着かない。
「そういうおめえは、あんな田んぼのど真ん中で何をしとったんなら?」
チュンが訊くが、答えにくいことなのか、女の子は黙ったまま目を伏せるだけ。その長い睫毛に目がいく。前髪の印象が強烈だが、よく見ると顔は整っている方だと思う。
女の子は小さく息を吐いた後、肩をすくめながら言った。
「誰かと話すのは久しぶりだし、いいよ。教えてあげる」
記憶の中の物語を引き出すように、女の子は静かに語りだした。
田んぼの中を見つめていたのは、カエルを探していたからだそうだ。アメンボを探していたのかな、という何となくな俺の予想は、遠からず当たっていたようだ。
ある雨上がりの日、下校途中で道を飛び跳ねるカエルを見つけ捕まえたところ「カエルを平気な顔で触る女子を始めてみた」と、突然男子に声をかけられたそうだ。
「びっくりしちゃって。だって見られていたなんて思っていなかったもん。カエルは目が可愛くて小さい頃から好きだったんだけど、捕まえて女子達に見せたら『気色悪い』って言われたことがあって。だからそれ以降、誰もいない時にだけ触るようにしていたんだ。でもそれを男子に見られたうえに話しかけられたりしたもんだから、頭の中はもう大混乱よ。でもね、それが初恋になっちゃった」
はにかみながら女の子は言った。「ほうほう」と若干前のめりになるチュン。
「話しかけてきたのは、私より二つ年上の先輩だった。見かけたことはあったんだけど、まさか話しかけられるなんて思ってもいなくて。その日以降、私は先輩の姿を目で追うようになったの。登校時間を合わせて、気付かれないように少し後ろを歩いたりもしたな」
「青春というやつじゃのう」
しみじみとチュンは言う。お前、雀のくせに青春の何たるかがわかっているのか?
「えへへ。本当に大好きで大好きで。毎日先輩のことを考えていて――。でもね、告白しようかどうしようか迷っている間にね……私、死んじゃった」
「……そうか」
女の子は、死の原因については語らなかった。何が原因で死に至ったのか。気にならないと言えば嘘になるけれど、失礼な気がしてこちらからは言及はしなかった。
彼女は死んでしまった。その事実だけは確かなのだから。
「それからしばらくは成仏できずに、ずっと先輩を見ていた。家族のことも心配だったんだけどね。でも、家にはあまり寄らなかった。憔悴した両親を見るのが辛かったというのもあるけれど、私は子供だから、自分が死の間際まで胸に抱いていた想いの方を優先しちゃったんだ。先輩は彼女もできて、卒業して、地元で就職をして、結婚をして――そして、幸せな家庭を築いた。私は、それをただ見ているだけだった。でもね、相手の人が羨ましいとは思わなかったの。自分でも不思議なんだけれど。先輩が幸せに過ごしているのを見るだけで、充分だった」
風が吹く。頭上の木々がざわめき、俺の髪を撫でていく。でも、女の子の髪はピクリとも動かない。
ずっと見ていた、と一言ですまされたけれど、きっと途方もなくその時間は長く感じられたに違いない。俺ならば絶対に我慢できないだろう。
「そんな先輩にも孫が生まれ、いつしか寿命を迎えた。天に昇る先輩を見て、私もやっと成仏することができたの」
「え、ちょっと待って。成仏したのに、どうして今ここにいるの?」
わざわざ戻ってきたのか? 何のために? と一瞬混乱しそうになるが、俺はあることを思い出した。
「あ……。もしかしてお盆だから?」
「ご名答」
女の子は微笑む。そもそも俺も、お盆だからこっちに帰省したんだよな。疑っていたわけではないけれど、本当に死んだ人ってお盆に帰ってくるものなんだ……。
女の子は画用紙みたいに真っ青な雲のない空を見上げる。
「あの人は、年に一度家族の元に帰る。私の所には来ない。ううん、きっと気付いてもいない。でも、それでいいの。お盆の終わりに向こうに還る時に、あの人の姿を一瞬でも見ることができたら、それでいい」
「君は、家族の元には戻らないの?」
「私にはもう、帰る場所がないんだ」
あっけらかんと言い放った言葉は、しかし俺には重く、寂しいものだった。
「私には姉妹がいたのだけれど、二人とも結婚してこの土地から出て行った。ここに在るのは、私の名前が刻まれたお墓だけ。親もとっくに死んで、家も取り壊されてる。姉妹は結婚先で家庭を築いていたみたいだから血を分けた子孫はいるにはいるのだけれど、私からしたらそれほど強い思い入れはないし。まあ、直径の家系は途切れちゃったってやつね」
何と返したら良いのかわからず、ただ沈黙を保つことしかできない俺。チュンには人間の家系の話は理解できないのか、難しそうな顔で俺達を見つめているばかりだ。
「私がお盆にこっちに来るのは、最後の日に先輩を見るためだけだよ」
「今、見に行かないの?」
「だって、邪魔したら悪いじゃない。家族を想って帰ってきたのに、今さら無関係な小娘の姿を見せるわけにはいかないよ」
俺は何も言うことができない。この子は先輩への想いをずっと抱えたまま、何十年も待ち続けた。その先輩が寿命を全うする日まで。そして今もなお先輩のことを想うが故に、自身の想いを伝えることができていない。
それはどれほど苦しいことなのだろう。ある一つの想いを、ずっと抱えたまま過ごす苦しみは。俺はチュンを踏み殺してからずっと後悔してきたけれど、それでも十年も経ってはいない。
俺の考えていたことを察したのか、女の子は優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。辛くなんてないし」
「あ、あの。君の名前は?」
堪らず、俺は聞き返していた。女の子は微妙に困った顔をすると、俺とチュンに背を向ける。
「とっくにこの世にいない人間の名前なんか知っても、良いことないよ」
そうかもしれない。だけど、一つの想いを貫き通したこの女の子のことをどうしても記憶に留めておきたいと、そういう衝動からだった。だが、それを伝える間もなく――。
「久しぶりに誰かとお話ができて、嬉しかった。ありがとう」
そう言い残し、女の子は霧のように空へと溶け込んでいった。




