邂逅と後悔・9
なかなか更新できておらず申し訳ありません。
読みに来てくださっている皆さまに本当に感謝しています。
朝が来て、いつもの通り自分のベッドの上でイェルクは目を覚ました。
雨は上がっていた。
日付が変わる頃まで、父と祖父、三人で話した。
自分がどう思っているのか。
どうすればいいのか。
でも肝心なことは、酒に任せてすら言えなかった。
一番訊きたかったのは、「シャファト家の嫡男として、僕はどうすべきなの」ということだった。
酒に溶けた氷が、きっとイェルクの気持ちを曖昧にさせたのだ。
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「おーおはよー、イェルク。
早いじゃん。
昨日結構遅くまで飲んでたんだろ?」
とりあえずの身支度をしてイェルクが庭に出ると、ザシャが軽いストレッチをしていた。
直接に仕えているルドヴィカに対しては「お嬢様」呼びを崩さないザシャだが、イェルクに対してはその名を呼ぶ。
それはイェルク自身が望んで願ったことだった。
なぜか彼にまで「次代様」と呼ばれることに、抵抗があったから。
「これから走るの」
「うん、来る?」
「もちろん」
イェルクも手短に体をほぐして、母屋の玄関前で待つザシャに並ぶ。
いつもならそこからシャファト家外周全力疾走競争になるのだが、全く気のない素振りでザシャが走り出したので、イェルクもそれに並走した。
「で、どうした」
門を抜けて少ししてからザシャが言った。
その言葉を待っていたような気がして、けれど何と言っていいのかわからなくて、イェルクは「なにが?」と問い返した。
「朝一で寝惚けてないイェルクなんざ、悩める青少年以外にないだろ」
返ってきた言葉に「なんだよそれ」とイェルクは笑った。
水溜まりを避けたり飛び越えたりしながら走ると、緩やかな速度でもそれなりの運動量だった。
少し息が上がったイェルクが速度を落とすと、ザシャもそれに併せて並んだ。
「ザシャ」
「なに」
「僕、『次代様』なんだ」
その声を受けて、ザシャが競歩へと移行してから「知ってる」と答えた。
少し遅れて、イェルクもそれに併せた。
「僕、そのうち『シャファト伯爵』になる」
「そうだな」
「今、警らなんだ」
「うん」
「平民の職業」
「うん」
「このままでいいのかな」
ザシャがさらに速度を緩めた。
「自分ではどう思ってんの」
イェルクはその問いに逡巡し、「……わからない」と答えた。
「でも、そう疑問に思ったきっかけはあったわけだ?」
イェルクは何も言わず頷きもしなかったが、ザシャはそれが肯定だと理解した。
「……俺さぁ、実家で、経理やってたんだよね」
突然の話題に、イェルクは長身のザシャの歩幅に懸命に合わせながらその横顔を見る。
真っ直ぐに進行方向を見る瞳に曇りはなくて、イェルクはそこから目を離せなかった。
「財務整理して、根本から経営見直してた。
けっこうザルな経営しててさ、実家の店。
一年ちょっとかかったかな、それ全部立て直したの。
店のおばちゃんとかにもひとりづつ説明して。
反発あったよ。
現場を知らん、都会かぶれの長男坊が、大学様のありがたい教えを垂れてくださったってさ。
田舎なんてそんなもん。
でもさ、俺としては、あんな田舎から、文句のひとつも言わずに大学行かせてくれた親には感謝してるわけ。
んで、実家の店の状況は、何としても改善したかった」
イェルクもいくらかザシャの背景については聞いていた。
けれど本人からそれを聞くのは初めてかもしれなかった。
「よし、やった、次行けるぞこれ、てなったとき、シャファト家からおっちゃん執事さんが来た」
誰だよ、と思った次の瞬間に、シャファト家の領地にて家政を補佐しているフース・ファン・アスという異国出身の従者の存在をイェルクは思い出した。
確かに見た目が「おっちゃん執事さん」だ。
「俺なりに、迷ったんだよ。
ようやく軌道に乗って、これからって時だった。
だから見守りたかったし、次の店舗を他の奴に託さなくちゃいけないってのも癪だった。
経営体系変えるのにおばちゃんたちに頭下げて、納得してもらった俺の地道な努力とかさ。
でもさー、俺が返事保留してた時にさー、いっちばんきっついおばちゃんがさ、いきなり事務所入って来て言うわけよ。
『あんた、なにぼさっとしてんの!』てさ」
思い出し笑いをしながら言うザシャの言葉に、イェルクは「それで?」と先を促した。
「『あんたの代わりなんて、ここじゃ沢山いるのよ!さっさと行きなさい!』て。
ショックだよなー、ほんとショックだった。
でもそれどういうことかって言うとさ、俺の代わりができる人が、ちゃんと育ってくれてたってわけ。
俺が頑張って経営改革して、誰でも店回せるように教育して、そんで、そういう人たちが、ちゃんと店支えようとしてくれてたの。
『それともあんた、わたしにゃ、後任せられないって言うの?!』て凄まれて。
『行きます』て言ってたね。
言うしかなかったともいうけど」
周囲の大賛成を受けてルドヴィカの従者になった、と聞いていたイェルクは、少しだけあれ?と思った。
「送り出してくれるときはさ、もう、今生の別れかってくらい。
なんか、ぜったい日持ちしない煮物とかも持たされてさ。
馬車でそっこー食ったけど。
そんなこんなでここ来て、俺なりに不安なこととかもあったわけ。
でも居心地いいし、勤めてる人みんないい人だしさ。
悪くねえなって思ってたのよ、この職場」
不意にザシャは口元に自嘲めいたものを浮かべた。
すぐにそれを振り払うように彼は「でも」と言葉を継ぐ。
「ぶっちゃけ、俺じゃなくてもいいよなー、て思ってた、心の中で。
なんで俺ここにいんのかなって。
でもさー、この前さー、お嬢様がさー、言ってくれたんだよ。
わたくしの従者はザシャですわ、代わりの者はおりません、てさ。
……嬉しかったなー、ほんと」
競歩の速度も落ちて、ふたりは殆ど雨上がりの街道を散歩しているような風体だった。
水溜まりを避けてからイェルクがザシャを見上げると、ザシャはイェルクに顔を向けて続けた。
「イェルクはさー、俺よりも代えがきかないんだよ。
だから、いろいろ悩むこと、めっちゃあると思う。
俺と比べられるわけじゃないけどさ、俺がいろいろ考えて、出た結論は、なんかそういうことなんだ。
必要とされてる場所とか、そういうの絶対どっかにある。
イェルクにとってはそれが警らかもしんねーし、そうじゃないかもしんねー。
俺は自分だけで考えてたら、自分は絶対に実家の事業に必要な人間で、今後もそうだと思って、一生終わってた。
でもおばちゃんたちがいて、お嬢様に会って、今ここに居る。
なんか上手いこと言えないんだけどさ、そういうの、探せばいいんじゃねえ?イェルクが不安なの、きっとそういうことだろ。
自分が、どこにいればいいかわかんないんだろ?」
「……うん」
イェルクは歩みを止めた。
「うん」
振り返ったザシャは、イェルクを見て笑った。
「俺みたいに、途中で必要とされてる場所が変わることだって、きっと世の中じゃよくあることなんだよ。
俺はちょっとだけ心が引きずられちまったけど、今も昔も、精一杯やってきた。
それで『お前の役はここまでだ』って言われたことについては、今はもう納得いってる。
そして、今も満足してる。
イェルクが今後どうしてくにしても、自分が心底納得できる道を見つけて欲しいってのが、俺の願い。
そして、イェルクは俺なんかよりずっと賢いからな、俺みたいにおばちゃんにどやされなくても自分で決められるだろ。
だから、悩め。
それでいい」
イェルクは目を見開いた。
「悩め」なんて言われると思わなかったから。
「じゃ、こっから競争。
玄関先着いた方が勝ち。
焼肉定食な」
簡潔に言い捨てるとザシャは踵を返して全力で走り出した。
「ずるっ!」と声を上げ、慌ててイェルクもその背を追った。




