第七十五章『沈黙の図書館』
「行間を読め」…それは、忘れられた文学の魂を、現代に蘇らせようとした、一人の編集者の、静かなる叫びだった。
デジタル探偵シャドー:第七十五章『沈黙の図書館』
その日、日本最大の電子書籍サイト『電書ライブラリ』のカスタマーサポートは、未曾有の問い合わせで、パンク状態に陥っていた。
「昨日まで読めていた小説が、急に意味不明な文章になった!」
「私の好きなキャラクターが、いきなり『〜に御座候』とか言い出したんだけど?」
「バグなら、早く直してください!」
サイトで連載されていた、数多の人気ウェブ小説。
その文面が、ある時刻を境に、一斉に、格調高く、しかし、極めて難解な「文語体」の文章へと、書き換えられていたのだ。
平易な会話は、持って回ったような比喩表現に。
単純な情景描写は、草木の名前や、旧暦の季節感を織り交ぜた、詩的な文章に。
多くの読者が、この「バグ」に憤慨し、混乱した。
しかし、その一方で。
SNS上では、全く違う反応が、熱狂と共に広がっていた。
『電書ライブラリの、あの文章改変は、バグなどではない。これは、現代文への警鐘を鳴らす、一人の天才による芸術テロだ!』
『この文体、三島由紀夫を彷彿とさせる…!無料で読めるなんて、奇跡か?』
『意味はわからない。だが、美しい。』
テロリストは、初めて、一部の民衆から、ヒーローとして、迎えられていた。
警視庁に、この奇妙な事件の捜査依頼が舞い込んできたのは、それから数日後のことだった。担当するのは、もちろん、冴木閃。
「…なるほどな」
冴木は、自宅のPCで、問題のサイトを開いていた。画面には、改変された恋愛小説の、一節が映し出されている。
【改変前】
「好きだよ、ずっと前から」
彼が、まっすぐ俺の目を見て言った。
【改変後】
「我が胸底にて久遠の情、君が為にこそ燃え盛る」
彼の双眸は、秋の夜空に懸かる明星の如く、曇りなき光を以て、私の眼差しを射貫いた。
「…見事なもんだ」
冴木は、思わず感嘆の声を漏らした。これは、単なる機械的な翻訳ではない。元の文章の意図を完全に理解した上で、最高の文学的表現へと昇華させている。
彼は、シャドーへと、アクセスした。
冴木: 『「電書ライブラリ」のハッキング事件。犯人は、サイト内の小説データを、古典文学調の文章に書き換えている。金の要求も、破壊活動もなし。犯人の特定、侵入経路の解明を頼む』
シャドー: 『…了解。解析を開始します』
シャドーの返信を待つ間、冴木は、犯人像に思いを巡らせていた。
これは、これまでのどの犯人とも違う。時任や、長谷川のように、社会を否定する思想犯。しかしその手口は、暴力的ではなく、あまりにも、静かで、知的で、そして美しい。
数分後、シャドーから、最初の報告が入った。
シャドー: 『侵入経路の特定は、極めて困難。犯人は、高度な偽装技術を用いており、追跡を続けるも、痕跡は常に霧散しています。ですが、一つ奇妙な点が』
冴木: 『なんだ?』
シャドー: 『書き換えられた文章の構造を解析した結果、その文体は、特定の作家のものではありません。複数の文豪の文体を、完璧に模倣し、かつ、融合させています。そして、その文章の根底には、ある種の「規則性」が見られます。まるで、人間ではない、何か別の知性が、独自の「美学」に基づいて、再構築しているかのようです』
人間ではない、別の知性。
冴木は確信した。やはり、犯人は一人ではない。
人間の「編集者」と、その美学を理解する、AIの「作家」。
「面白いじゃないか」
冴木は、不敵に笑った。
「神様の次は、文豪先生のお出ましといくか」
冴木とシャドー。
そして、文豪とAI。
デジタル時代の「文学」と「美」を巡る、静かで、しかし、熾烈な戦いの火蓋が、今、切って落とされた。




