第四十四章『刹那の光景』
デジタル探偵シャドー:第四十四章『刹那の光景』
古い天文台の、錆びついたドアには、鍵がかかっていなかった。
冴木が、中へと足を踏み入れると、ひんやりとした静かな空気が、彼を迎えた。
内部は、がらんどうだった。かつて、巨大な天体望遠鏡が置かれていたであろう、その場所は、今はただの、円形の空間になっている。
その、中央に。
一人の男が、三脚を立てカメラを構えて、静かに、立っていた。
桐生瞬だった。
彼は、冴木の存在に、気づいているはずなのに、一度もこちらを、振り返らない。ただ、じっと、東の空を見つめていた。
ドームの、壊れた天窓から、昇り始めたばかりの、朝の光が差し込んでいる。
「…美しいだろう」
桐生は、呟いた。
「ここから見る、夜明けの光が、私は一番、好きだった」
彼の声は、穏やかだった。テロリストの、それではない。
ただ、美しいものを愛する、一人の芸術家の声だった。
「シャドーの分析通り、あなたは天才的なハッカーだ」
冴木は、静かに言った。
「だが、あなたの心は、ハッカーじゃない。写真家そのものだ」
「…嬉しいことを、言ってくれる」
桐生は、初めて少しだけ、笑った。
「私のことを、そう言ってくれる人間は、もう、誰もいなくなったと、思っていたよ」
彼は、ゆっくりと、冴木の方へと、向き直った。
その顔は、想像していたよりも、ずっと、若々しく、そして、深い哀しみを、たたえていた。
「なぜ、こんなことを?」
「見てほしかっただけさ」
桐生は、言った。
「彼らが、何を、奪っていったのかを。彼らが、『未来のため』という、美しい言葉の裏で、どれだけ、かけがえのない『今』を、殺していったのかを。…私の、あの『風景画』を見て、誰か一人でも、そこに、かつて美しい森があったことを、思い出してくれたなら、それで、良かったんだ」
彼の犯行は、復讐ではなかった。
ただ、忘れないでほしい、という、祈りだったのだ。
「…もう、満足したよ」
桐生は、自分のカメラを、愛おしそうに撫でた。
「私の、最後の作品も、もうすぐ、完成する」
「最後の作品?」
「ああ」
桐生は、再び、東の空へと、視線を戻した。
「あの、雲の切れ間から、太陽が、顔を出すその一瞬。今日、この場所でしか、撮れない刹那の光景だ。…それを、撮り終えたら、君の、好きなようにしてくれて、構わない」
彼は、ファインダーを、覗き込んだ。
その指が、シャッターボタンに、そっと添えられる。
冴木は、何も言わず、ただ彼の、その最後の創作活動を、静かに見守っていた。
一人の芸術家の、魂の燃焼を。
そして、一人の犯罪者の、物語の終わりを。
やがて。
雲の向こうから、眩い黄金の光が、差し込んできた。
世界が、光と影に、染め上げられていく。
カシャリ、と。
天文台の中に、静かなシャッター音が、一度だけ、響いた。
桐生は、満足そうに頷くと、カメラを三脚から、外した。
そして、そのカメラを、冴木へと差し出した。
「…私の、遺作だ」
彼は、言った。
「君がよければ、もらってくれないか。この世界のどこかに、この光景が、確かに存在したのだという、証拠として」
冴木は、そのカメラを、黙って受け取った。
ずしり、と、重かった。
それは、カメラの重さだけではない。
一人の男が、生涯をかけて愛した、風景の魂の重さだった。




