第三十一章『温もりのある手』
デジタル探偵シャドー:第三十一章『温もりのある手』
「…いい商店街ですね」
冴木の一言に、門倉はゆっくりと顔を上げた。その目は、目の前の若者が、ただの客ではないことを見抜いていた。
「…あんた、刑事さんか」
「ええ」
冴木は、頷いた。
「あなたに、お話を聞きに来ました。門倉さん」
喫茶店のマスターが、緊張した面持ちで、二人を遠巻きに見ている。
冴木はそれを、手で制した。これは、脅しや尋問ではない。ただの、対話だ。
「綺麗なメッセージでした」
と、冴木は、静かに言った。
「『人の温もりを、思い出せ』。あなたの心の声が、聞こえるようでした」
門倉は何も答えず、ただ震える手で、コーヒーカップを口元へ運んだ。
「あなたは、この街を愛している」
冴木は、続けた。
「ここで交わされる、何気ない挨拶や、笑い声を。店主と客が、手と手で、お金と商品を交換する、あの僅かな瞬間の温もりを。…でも、時代は、変わってしまった」
門倉の肩が、微かに震えた。
「あなたの奥さんが、亡くなられた時、あなたと、最後に言葉を交わしたかった常連客も、多かったはずだ。だが、彼らの多くはもう、ここにはいない。大型スーパーの、セルフレジで、誰とも言葉を交わさずに、買い物を済ませていく」
冴木の言葉は、シャドーのデータではない。彼がこの数日間、この街を歩き、自らの肌で感じた、真実だった。
「…もう、遅いんだよ」
門倉は、初めてか細い声で、呟いた。
「何もかももう、手遅れなんだ。ワシの店もこの街も、そして…ワシの女房も、もう帰ってはこん」
カップを持つ、その手。節くれだった、温かい大きな手。
その手で彼は、何十年も客に商品を、お釣りを、そして、「ありがとう」という言葉を、手渡してきたのだろう。
「だから、最後に、思い出させてやりたかっただけなんだ」
門倉は、顔を上げた。その目には涙が、静かに浮かんでいた。
「忘れてくれるな、と。ワシらが確かに、ここにいたことを。人と人が、手と手で、触れ合って、生きていた、そんな時代があったことを。…ただ、それだけなんだよ」
それは、テロリストの顔ではなかった。
ただ、愛するものを時代の流れに、根こそぎ奪われた一人の老人の、悲痛な叫びだった。
冴木は、静かに立ち上がった。
そして、門倉の前に一枚の紙を置いた。逮捕状ではない。ただのコーヒー代。千円札だった。
「マスター、お釣りを」
マスターが、震える手でレジから、小銭を取り出す。
冴木は、その小銭を掌に受け取ると、そのまま、門倉の大きな手の中に、そっと置いた。
金属の冷たさ。
そして、冴木の手から伝わる、僅かな人の温もり。
「…門倉さん。あなたの気持ち、確かに受け取りました」
冴木は、言った。
「だからもう、終わりましょう。あなたの愛したこの街が、これ以上悲しい場所になる前に」
門倉は、掌の中の小銭を、ただじっと、見つめていた。
やがてその目から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「…ああ。そうだな」
彼は、全てを認めた。
「ありがとうよ、刑事さん。最後に、思い出させてくれて」
事件は、静かに幕を閉じた。
首謀者である門倉と、実行犯である若きハッカーは、後日逮捕された。
世間はこの事件を、時代に取り残された老人による、時代錯誤のテロだったと、報じた。
だが、冴木だけは知っていた。
これは、テロなどではない。
ただ一つの、あまりにも不器用で、そして、人間的なラブレターだったのだ、と。
失われゆく温もりへの、最後の。




