第二十九章『最後の現金』
「人の温もりを、思い出せ」…それは、東京中のキャッシュレス決済を、沈黙させた、たった一つの、哀しい心の叫びだった。
デジタル探偵シャドー:第二十九章『最後の現金』
2025年、9月。秋の週末。
人々が、買い物や食事を楽しむ、ありふれた土曜日の昼下がり。
その「事件」は、何の予告もなく、東京の心臓部で、静かに始まった。
渋谷のカフェで、スマホを決済端末にかざした女性が、首を傾げた。
「あれ、すみません。もう一度お願いします」
何度やっても、画面には「通信エラー」と表示さ
れるだけ。
銀座のデパートで、クレジットカードを切った紳士が、店員に詰め寄っていた。
「なぜ承認が下りないんだ。限度額はまだ、たっぷりあるはずだぞ」
新宿の駅ビルで、交通系ICカードで買い物をしようとした学生たちが、改札の前で立ち往生していた。
「え、なんで?チャージもしてあるのに…」
それは最初、個々の店舗や、個人のカードの問題だと思われていた。
だが、その「エラー」は、伝染病のように、東京中に広がっていく。
クレジットカード、QRコード、電子マネー、あらゆる「キャッシュレス決済」が、まるで示し合わせたかのように、一斉に、その機能を停止したのだ。
そして、人々が、最後の望みをかけてATMに駆け込んだ時、本当のパニックが始まった。
全てのATMの画面には、ただ同じ言葉が、不気味に表示されているだけだった。
『システム調整中』
現金が手に入らない。
電子マネーも使えない。
人々は、財布の中にある、僅かな現金だけで、この大都市に取り残された。
そんな大混乱の中、ダウンした決済端末の一部が、奇妙なメッセージを表示し始めている、という噂が、SNSで拡散され始めた。
それは、レシート用紙にカタカタと、繰り返し印字され続けていた。
『人の温もりを、思い出せ』
警視庁に、対策本部が設置されたのは、混乱が始まってから、わずか1時間後のことだった。
これは、単なるシステム障害ではない。日本経済の中枢を狙った、大規模なサイバーテロだ。
会議室の巨大モニターに、銀行や、カード会社の担当者たちが、オンラインで必死に状況を説明している。
「マルウェアの正体が掴めません!」
「復旧の目処は全く…」
その喧騒の中で、冴木はただ一点、端末に印字された「人の温もりを、思い出せ」という、その不器用なメッセージを、静かに見つめていた。
(…これは、国家への挑戦状なんかじゃない)
彼の直感が、告げていた。
(これは、たった一人の人間の、心の底からの「叫び」だ…)
彼は、そっと席を立つと、シャドーへと、アクセスした。
冴木: 『シャドー。今回のキャッシュレス決済システムの、大規模ダウン。シャットダウンさせられた、全端末のログを収集。マルウェアの特定と、その感染経路を逆探知しろ』
シャドー: 『…了解。東京中の、数百万の端末が対象です。解析を開始します』
シャドーの、いつもと変わらない、無機質な応答。
だが冴木には、わかっていた。
この事件の犯人を、見つけ出すために、本当に必要なのは、膨大なデータの解析ではない。
たった一つの、哀しい「叫び」を上げた、その「心」の在り処を、見つけ出すことだ、と。




