第二十五章『贋作師の挑戦状』
盗まれたのは、一枚の絵画。残されたのは、完璧な贋作と、「本物の価値とは何か」という、美しい問い。
デジタル探偵シャドー:第二十五章『贋作師の挑戦状』
東京国立近代美術館の、静寂が破られたのは、閉館後の深夜のことだった。
警備システムが、展示室の一つで、微細な重量の変化を感知したのだ。駆け付けた警備員と学芸員が目にしたのは、信じがたい光景だった。
壁にかけられていたはずの、明治期の天才画家・黒田清輝の代表作『湖畔』が、そこにはなかった。
いや、正確には『湖畔』は、そこにあった。
しかしそれは、専門家が最新の機器で鑑定しても、オリジナルと寸分違わぬ、完璧な『贋作』だったのである。
額縁も、絵の裏のサインも、そして、絵の具の僅かなひび割れ(クラクリュール)に至るまで、全てが完璧に再現されていた。
オリジナルは、いつ、どうやって持ち去られ、偽物とすり替えられたのか、監視カメラにも、警備システムのログにも、一切の痕跡は残っていなかった。
翌朝。全てのメディアに、犯行声明が届く。
犯人は、自らを『贋作師』と名乗っていた。
『私は、何も盗んではいない。
ただ、一つ、問いを投げかけただけだ。
本物の価値とは、一体どこにあるのか、と。
オリジナルは、安全な場所にある。私は、それを名声という牢獄から、解放してやったに過ぎない。
その代わりに私は、その絵の「魂」を、置いてきた。
諸君に、その違いが、わかるかね?』
この、前代未聞の挑戦状に、世間は沸き立った。
高額な絵画の窃盗事件でありながら、そこには、奇妙なユーモアと、哲学的な問いかけがあったからだ。
「…面白いことを、してくれる」
警視庁で、事件の報告書を読んでいた冴木は、不敵に笑った。
時任錠を彷彿とさせる、確固たる「美学」を持った犯人。しかし、その哲学は、時任とは似て非なるものだ。
時任は、「本物」を所有することに、美を見出した。
今回の『贋作師』は、「偽物」を本物と等価に置くことに、美を見出している。
「シャドー」
冴木は、チャットルームを開いた。
「『贋作師』と名乗る犯人による、絵画窃盗事件。犯行声明のテキスト分析、類似する手口の前科犯の洗い出しを頼む」
シャドー: 『…了解。解析を開始します』
しかし数時間後、シャドーから返ってきた答えは、「該当なし」だった。
犯行声明に使われた言葉は、あまりに一般的で、個人の癖を特定できない。そして、これほど完璧な手口を持つ贋作師は、過去のどの犯罪データベースにも、存在しなかった。
手詰まりだ。
犯人の、あまりに完璧な「作品」を前に、警察の捜査は、完全に壁にぶつかっていた。
冴木は一人、美術館の展示室に立っていた。
目の前には、完璧な贋作『湖畔』が、何事もなかったかのように、静かに微笑んでいる。
この絵の向こう側にいる、見えざる犯人。その心の内を、どうすれば読み解ける?
その時、冴木の脳裏に、あの老人の楽しげな顔が浮かんだ。
チェス盤を挟んで、自分を試すように、ヒントを与えてくれた、あの男。
(…あの男なら、この『贋作師』の美学を、どう評価するだろうか)
冴木は、決意した。
この、あまりに厄介で、美しすぎる事件の「批評」を日本で唯一、それが可能な人物に、聞きに行くしかない、と。
行き先は、決まっている。
医療刑務所の、あのアクリル板の向こう側だ。
最高のチェスプレイヤーにして、最悪の犯罪プロデューサーが待つ、あの場所へ。




