11ノドカの決断
三人称視点です。
ここから年代が少し飛んで「本編終了から約10年後~」の話になります。
アベントゥラ混声合唱団。それは世界を股に掛けて活躍中の団体の名だ。
どこかのコンサートホールを拠点に数ヶ月間活動すれば移動し、また別のコンサートホールで活動する。
そうして数日前に前回の活動拠点における公演期間を無事に終えた彼らは今回も例に漏れず、何台にも連なる馬車群となり、次なる活動拠点を求めて移動していた。
そんな馬車群の最後尾を走るのはやや小さな馬車。その荷台で揺られているのは3名の若者たち。
だが合唱団の正式な団員はそのうちの2名だけで、もう1名は出演することはあっても訳あってゲストのような扱いをされている。
「今日はいいお天気」
「うん~ぽかぽか~……」
「はぅぅ、お姉ちゃんもぽかぽかでいい匂い……」
和やかなやり取り。のどかな雰囲気に包まれた空間だ。
少女が何かの動物をデフォルメしたようなぬいぐるみを腕に抱え、さらにその後ろから年頃の娘が少女を抱きしめている。
両名ともその表情は初夏の陽気の下に微睡み、すっかりと惚けていた。
「んふふ~、ジゼルちゃんってば甘えん坊~」
そう口にすると少女――ノドカは自分のことを強く抱きしめてくる相手に対して、己の頭頂部をぐりぐりと押し付けることで親愛の念を表現する。
「お姉ちゃんがそれを言うのー?」
その言葉に頭をぐりぐりするのを止め、振り返ったノドカが“ジゼル”と呼んだ相手と視線を交わすと、2人はどちらからともなく微笑み合った。
忘れてはならないがここは彼女たちだけの空間ではない。じゃれあう2人の様子を同じ荷台の中から眺めていた青年は、どこか居心地が悪そうに困ったような笑みを浮かべていた。
「ははは……相変わらず仲いいな、フリード様とジゼルは」
自分の名を呼ばれたノドカ――彼女は世間一般的には風の精霊姫フリードリヒの名で通っている――とジゼルは一瞬だけ青年に視線を向けるが、あまり気にした様子もなく再びじゃれあいを始める。
青年の困惑は深まるばかりであった。
「わたくしとジゼルちゃんが~仲良しなの~、不思議ですか~?」
「いや……仲の良い2人を見るとこっちも微笑ましくなるし、それは別にいいんだけど、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて……」
青年が言葉を濁したので、ノドカとジゼルは首を傾げる。
そんな反応を見て青年は余計に悩まし気にしていたものの、意を決して心の内を明かすことにしたようだ。
「俺がずっと気になっているのは――どうしたら一回りも年下の相手を“お姉ちゃん”なんて呼ぶようになるんだってことなんだよぉ!」
青年の叫びが木霊する。
彼が言うように現在のノドカはまだ10歳。対してジゼルは成人済みどころか22歳である。この日だけに限らず、彼女たちのやり取りをずっと見守っていた青年が悶々としてしまっていたのも至極当然の反応だと言えた。
疑問をストレートにぶつけられてしまい、今度は少女たちが困ったような顔をする番だ。
「そう言われても、ノドカお姉ちゃんはジゼルの――わたしの心のお姉ちゃんみたいな感じだもの。最初はただ単にお胸を見て、年上の方だと誤解しちゃってただけではあるんだけど」
「そういえば~初めて会った時から~“お姉ちゃん”って呼んでくれていましたよね~」
その時から身長はわたくしの方が小さかったけど~、とノドカはクスクスと笑っている。
彼女たちの出会いは思い返せばもう10年以上も前になる。
お菓子を愛する者たちの国、ラモード王国の王都で開かれる大きな催事ではそこにある孤児院の子供たちによる合唱が恒例行事となっており、当時その孤児院で暮らしていたジゼルも例に漏れずその行事に参加していた。
だがある年の“ア・ラ・モード杯”という祭りの時だけ、孤児院の一員でもないノドカが代役を務めていた。それはかなり難易度の高いパートを任されていたジゼルが本番直前となって体調を崩してしまったためだ。
代役を立てようにも時間も伝手もなく困り果てていたその時、現れたのがユウヒたち一行というわけである。
そうして舞台に立ったノドカは周りと完璧に合わせて歌い上げたどころか、その凄まじい歌唱力を以て観客たちを魅了し、王都を見事に賑わせてみせた。
「わたしだって皆と一緒に歌うことに楽しさを感じていたし、大好きでもあった。自分の歌唱力にも自信はあったけど……あの時のお姉ちゃんの歌はさらにその先の目標を示してくれたの。お姉ちゃんの歌を聞いていなければ、多分今ほど成長はできなかったって何となくだけどわかるんだ」
その出来事から10年たった今でもノドカのことを「お姉ちゃん」と呼び慕っているというのは、単に親愛の念を抱いているというだけではない。己の進む道を照らしてくれた存在に対する敬意を表すためでもあった。
「お姉ちゃんを合唱団にお誘いしようと思ったのもそれが理由。目標に向かって日々邁進中のわたしのことを一番近くで見ていて欲しかったの。……迷惑かもしれないって考えてしまったりもしたんだけど」
ジゼルが合唱団に所属するようになったのは今から2年前で、彼女が20歳になった時だ。それから約1年後に個人的な親交を続けていたノドカにも声を掛け、ユウヒからの勧めもあってノドカも快諾している。
「ジゼルちゃん~、わたくしは~嬉しかったよ~? 今も楽しいし~そもそもこう見えて~面倒くさがりだから~……迷惑だと思っていたら~ここにはいません~」
「うん、今は何にも疑ってないよ。こうして一緒にいられる時間がグッと伸びたおかげで、お姉ちゃんのことを前よりもたくさん知ることだってできたから」
語られた過去――これに関してはほとんど青年も知っていたが――と彼女たちのやり取りにどこか納得するような表情を浮かべていた青年だが、ふと浮かび上がってきた新たな疑問に首を傾げた。
「あれ、その感じだとフリード様が合唱団の正式な団員じゃないのってまた別の理由がある感じなのか? 俺はてっきりフリード様が条件付きで承諾したものだと思っていたが……」
「あー……それはお姉ちゃんが原因ってわけじゃなくてお父さんがね……」
「団長が?」
孤児院を出て独り立ちしたジゼルは程なくして、ある人物の養子となっている。その人物というのがこのアベントゥラ混声合唱団の団長を務める男であった。
それが示すところはつまり合唱団の団長自身がノドカが正式な団員となることにいい顔をしていないということになる。
「わたしには精霊姫としての影響力が強すぎるとか、歌姫を独占して他の合唱団から不必要なやっかみを買う恐れがあるとか、そんな当たり障りのない理由しか教えてくれなかったけど……多分そんな理由じゃないと思う」
「たしかに。いつもの団長だったら『そのことで君たちの合唱に何か影響があるのかね?』とか『君たちが気にすることではないよ』とか言って、フリード様を受け入れたうえで守ってくれるよな」
この合唱団の団長は意欲と協調性さえ見せれば、誰でも受け入れる姿勢を示している。
その結果生じてしまう障害が団員たちの心身に影響を及ぼすことがないように問題となりそうなものがあれば未然に防ぎ、そもそも団員に気取られることがないように最大限に気を配る男なのだ。
「その団長が団員だと認めてすらいないとなると、そもそも問題は……っと、こんなことを話していても仕方ないよな」
「ごめんなさい。お姉ちゃんだって目の前でこんな話をされても気分がよくないよね」
会話している間、ずっと静かにしているであろう少女の存在を思い出した彼らは慌てて場を取り繕おうとする。
対するノドカはと言うと――。
「……んぅ、何か~言いました~? えへへ~ウトウトしちゃってた~」
――垂れ切った目元を手で擦りながら、締まりのない笑顔を浮かべていた。
これにはかなり失礼なことを口にしようとしていた自覚がある青年はホッと胸を撫でおろす。だが、ジゼルの表情はどこか浮かないものだった。
そんな表情のまま、彼女は口を開く。
「あまり気にしないでね、団員だってほとんどがお姉ちゃんのことを認めている。それにわたしは、ここにお姉ちゃんがいてくれるだけで嬉しいから」
「急にどうしたの~?」
「……えへへ、わたしも眠くなってきたせいで変なことを言っちゃったのかも」
互いが互いを気遣うような会話だった。どちらも意図を相手に悟られないようにしていたが、察してしまっている以上意味を成していない。
それでもやり取りを続ける。
「そうなの~……無理しないでね~? ……そうだ~、よかったら~これから一緒にお昼寝する~?」
「わあっ、嬉しい! 孤児院に遊びに来てくれていた頃はよく一緒にお昼寝していたよね、懐かしいなぁ」
過去を懐かしむジゼルの弾んだ声。それは誤魔化しでもなんでもなかった。
互いに誤魔化しあうようなやり取りから生じた提案ではあったが、彼女たちの間に漂いつつあった不穏な雰囲気を消し飛ばすには十分すぎるほどではあったのだ。
「んふふ~、じゃあ~わたくし自慢のお昼寝用寝具を~――ぁ」
しかし、ニコニコと自慢の寝具コレクションを《ストレージ》から取り出そうとしていたノドカの動きが不意に止まる。
不思議そうな様子で彼女の名を呼ぶ声が2つほど聞こえてきたため、すぐに正気に戻ったノドカの表情は緩んだものから一転してどこかキリッとしているように見えた。……余程親しい人にしかその違いは分からないだろうが。
だが彼女が気を引き締めるような“何か”が起こったことは事実だ。
「後ろの馬車~……」
「馬車? ……わっ、すごく早いね。さっきまでは見えていなかったけど、いつの間に……」
馬車群の後方から数台の馬車が接近してきている。それもかなりの速度だった。
「急ぎの用ってことじゃないか? 気にするほどのことでもないと思うが……」
「そうじゃないからお姉ちゃんも警告してくれたんだよ。お姉ちゃん……聞こえたんだよね?」
「聞こえた……?」
得心が行った様子を見せたジゼルとは対照的に、青年の方はよく理解できていないらしい。
そんな彼にノドカは告げる。
「わたくしには~わかるんです~。あの馬車には~何人乗っているかとか~何をお話しているのかとか~いろいろ~」
「……風の魔法か!」
合唱団の中で共に過ごすことがあるとはいえ、それだけではノドカが持つ風魔法の力に触れる機会など得られない。
だがどんな時でも、それこそ合唱団の活動中でも彼女は常に風魔法を使って周囲の状況を感知している。そうして探知範囲内で何か怪しい動きを検知すれば、彼女は音を風に乗せて拾い上げてくるようにもしていた。
それは戦いの日々に身を置いていた頃からの癖のようなもので、自身や大切な者たちを危険から守るために欠かすことができなかった行動が習慣化したものだ。
「戦場の歌姫。攻撃魔法の適性を得られなかった代わりに天性の魔力制御能力を得た本物の天才、か」
風の精霊姫フリードリヒにまつわる様々な噂話は青年も聞き及んでいたことではあったが、実際に目にしてしまうとその情報探知能力の高さに身震いしてしまう。
後方から迫ってきている馬車との距離は現時点でも100メートルは離れている。つまり、最低でもそれ以上離れた場所に転がっている情報すら彼女は拾い集めることができるということだ。
「合唱団のことを知っているみたい~……『金になる』とか~『気付かれないように近付け』とか~……」
「人さらいかなー……わたしたちって有名だもんね。この馬車は目立つし、目的地もルートもはっきりしてる。まああの人たちの不幸は、ここにお姉ちゃんが乗っていることだけど……」
「今~団長さんに報告して~こっちで対応しますって伝えました~」
「わっ、お仕事が早い。さすがお姉ちゃんだよ」
危機が迫っている状況ではあるが、修羅場など幾度も潜り抜けてきたノドカにとってはこの程度取るに足りないものでしかなく、戦いの経験など全くないジゼルもかなり落ち着いた様子だ。それだけ彼女の“お姉ちゃん”を信頼しているのだろう。
だが心中穏やかではいられない者もいる。
「そんな呑気なこと言っている場合か!? 団長も状況を正しく理解していないんだ、すぐに対処しなければマズいことになる。こんなことがあるかもしれないから、治安の良い国でも護衛くらい雇った方がいいって言ったんだぞ……!」
「えっと……深刻そうな顔をしているところ悪いけど、大丈夫だよ。護衛を雇わなかったのはお姉ちゃんがいるからだし」
「だがフリード様は戦えない、そうだろう!?」
青年に詰め寄られたジゼルは困った顔をする。
そこに横からノドカが声を掛けた。
「たしかに~攻撃魔法は使えません~」
「だったらいくら情報があろうと同じことだ! 俺だって簡単な攻撃魔法くらいなら使えるが、それくらいの抵抗は相手だって当然想定してる! 相手の動きを読んだところで対応できなきゃ意味がない!」
青年は何か勘違いをしているようだ。そもそもノドカにできるのは情報収集だけではない。戦いにおいては強固な風の結界を広範囲に展開することだってできる。今だって万が一相手側から撃たれてもいいようにと、こっそり馬車群全体を結界が守るようにしていた。
だがジゼルは敢えてその事実を伝えない。いや、それだけでは青年を落ち着かせることはできないと思ったのだろう。
「熱くならないで。そもそも戦いにならないよ」
「こっちが抵抗しなければな。対話の場を設けてくれる訳もない」
「あー……今の言い方だと語弊があったね。えっと……はっきり言ってしまうとお姉ちゃんがいれば大抵の場合、戦いすら成立しないんだよ」
「……成立しない? 何を言って……」
青年の困惑が最高潮となったその時だった。
「えへへ~書けました~」
持っていたペンを《ストレージ》の中へと戻したノドカの手にはある物だけが残されている。それは――。
「手紙?」
「そうです~、これを届けに行くの~」
「届けるって……いったいどこへ……」
「それはね~……あ、これは~見ちゃダメですよ~? お姉さまがつくってくれた~わたくしだけの~特別~」
手紙の代わりとして《ストレージ》から取り出されたのは、麻紐で閉じられた書類の束だった。
気になった青年がその手元を覗き込もうとすると、ノドカはすかさず書類の表面を体で覆い隠す。以前、その書類には何が示されているのかを尋ねたことのあるジゼルがそこに補足を入れた。
「それ、お姉ちゃん専用の地図なんだって。かなり詳細に記されていて、一般には公開されていない兵隊さんの基地とかも全部載っているみたいなの」
「まさか手紙って……軍に助けを求めるための?」
青年も納得したらしい。
この専用の地図はノドカにとって必需品だった。彼女が用いるある力には正確な方向感覚や距離感が必要となってくる。
「あ~見つけました~。えっと~今走っているのは~ここだから~……」
ややのんびりとはしているが、手慣れた様子で計算を終えた彼女は基地のある方角へと顔を向ける。
「それでは~行ってきますね~」
その言葉を口にした瞬間、ノドカの姿が――消えた。
「――え?」
「すごいよね、お姉ちゃんの空間魔法」
「いや、反応が薄すぎるだろ!? 生物の転移だぞ!?」
「いやいや、よく考えてみてよ。今日みたいにわたしたちと過ごした後も毎日神界のお家に帰って、また神界を出てはわたしたちに合流する。ずっと前から当たり前のように転移魔法を使っているんだよ」
「なっ……」
落ち着いた声でそう話すジゼルだが、その目はどこか遠いところを見ている。ノドカたち精霊姫の能力に人間の常識は通用しないと、彼女自身呆れつつもよく理解しているのだ。
「だからって――」
「ただいま~」
「――帰ってくるの早いな、おい!」
何事もなかったかのように再び元の位置に現れたノドカを見て、どこかテンションがおかしい青年が体を仰け反らせていた。
そんな彼を傍目に彼女たちは言葉を交わす。
「おかえりなさい、お姉ちゃん。お手紙は無事に届けられた?」
「うん~ばっちり~」
ノドカが最近覚えたサムズアップを披露し、ジゼルもそれに合わせるような形で応える。
どこまでも平常運転な2人を見て、ずっと浮足立っていた青年も次第に平常心を取り戻していく。
「……よし、わかった。本当にどうにかなりそうって言うか……どうにでもできそうって感じなんだな」
自分たちに危険は一切ないと理解した彼は悟りきった目でノドカを見つめている。
「興味本位で聞くが、これからどうするつもりなんだ?」
「人さらいさんたちを~兵隊さんに~引き取ってもらうの~」
「……まさか」
「そう~そのまさか~。転移魔法の出番ですよ~」
ノドカは自分たちを付け狙う相手に転移魔法を使い、さきほど手紙を届けてきた軍の基地に直接送りつけようと考えているのだ。
平然と言ってのけているが、生物の転移を目の当たりにした青年の驚き具合からも察することができる通り、これを実現させることができる人間はまずいない。
「それじゃあ~ちょっとだけ本気~……!」
二本の足で荷台の床をしっかりと踏みしめた彼女の腕の中に巨大なハープ――霊器“テネラディーヴァ”が現れる。
「変なところに転移させてしまったら~ごめんなさい~。でも悪いのは~こんなことをする~人さらいさんたちだから~」
ノドカが弦を一撫ですると、合唱団の馬車群に追い迫っていた人さらいが乗る馬車に異変が起こりはじめる。
最初に先頭を走っていた忽然と姿を消した。そんな摩訶不思議な現象に周りの者の間にもどよめきが起こる。
そうして彼らが状況を理解できずにいる間にもノドカはハープから旋律を奏で続けていた。一台、また一台と姿を消していく仲間の馬車を見て彼らは恐慌状態に陥っている。ただ理解できるのは、自分たちが絶対に手を出してはいけない相手に手を出してしまったという事実。
その人さらいたちは合唱団のほとんどの団員から認知されることなく、お縄に付くことになってしまったという。
「お疲れさま、お姉ちゃん。あっという間だったね」
「えへへ~、お姉さまたちと一緒なら~もっと一瞬でシューンって飛ばせるんですよ~?」
だが、そんな現象を引き起こした当の本人は普段と変わらずニコニコと笑顔を浮かべており、自業自得とはいえ自分たちに狙いを付けてしまった者たちにどこか同情してしまう青年がいたのであった。
◇◇◇
夕暮れ時。アベントゥラ混声合唱団の団員達を乗せた馬車群は目的地である大きな商業都市へと辿り着いていた。
「こっちの荷物も降ろし終わったか? よし、じゃあ今日はもう休んでいいぞ」
「明日は10時から食堂で全体ミーティングだから。遅れちゃダメよ?」
合唱団における各パートリーダーたちが指揮を執り、速やかに荷卸しを終えた合唱団の団員たちが借り切った宿へと足を運んでいく。その中には先程までノドカ、ジゼルと共に過ごしていた青年も含まれていた。
そんな彼らの背中を彼女たちは見送っている。
「お姉ちゃんももう帰らないとだね」
「うん~、明日~また来るね~」
馬車の荷台に残った2人。
ノドカを後ろから抱きかかえるジゼルとそんなジゼルに体を預けるノドカ。なんだかんだ今日はこの体勢で過ごす時間が一番多かった。
そんな彼女たちの下にひとつの足音が近づいてくる。
「やあ、少しいいかね?」
「あ、お父さん」
姿を現したのは立派なカイゼル髭が特徴的な紳士だ。そう、彼こそがジゼルの養父であり、このアベントゥラ混声合唱団の団長も務める男である。
彼は最初に愛娘に目を向け、次にそんな娘に抱えられている少女を見遣る。
「まずは感謝を述べたい。君のおかげで誰も怪我を負うことなく、団員たちに要らぬ不安が広がることもなかった」
その柔らかく落ち着いた声は耳によく馴染み、人の心に自然と安心感すらも与えるものだ。
ノドカもそんな安心感に身を委ねながら微笑む。
「当然のことを~したまでです~。だって~わたくし~……」
だが、そこでピタッとノドカの言葉が止まってしまった。
「お姉ちゃん?」
「わたくしは~……」
言葉を捻り出そうとするが、遂には口から飛び出すことはなかった。
とはいえ彼女は自分が何を言おうとしたのかを自覚していた。寧ろ自覚してしまったからこそ、こうして呆然と座り込んでしまっていると言える。
機微に聡い少女は目の前にいる男が自分に対してどのような感情を抱いているのかを正確に察知しているのだ。そんな彼を前にしては先ほど口にしようとした言葉を直接自分の口から言うのは憚られる。
彼からの心証も自分の立場もその言葉を発するのに相応しくない。そんな厚顔無恥なことはできない。
「……ふむ」
今のノドカと相対する彼もまた、彼女の心情を読み取って彼女が何を言おうとしていたのかを察知する。
だから彼はここで全てを打ち明けてしまおうと考えた。同時に今この時こそ、彼女にある提案を持ち掛けるに相応しい局面だとも。
「実を言うとだね。僕はジゼルが君を合唱団に誘ったことを快く思ってはいなかったのだよ」
「お父さんっ!」
咄嗟に娘から非難するような声が上がるが、それを彼は視線で制する。
――今は自分が説明する時だと。
「僕は君を正式な団員として扱ってこなかった。それはわかるかね?」
「……理解しています~」
「結構。このような対応となってしまった理由は幾つか存在する。前にジゼルには語ったと思うが、一団員として迎えるには君という存在は影響力が大きすぎる。精霊姫としても、歌姫としても。だが、そんな些事はどうだっていいのだよ。団員を守り、最高の合唱を届けられるように手助けするのが僕の役目だからね」
ここから語るのは彼がジゼルにも伝えていない、一番大きな懸念だった。
「僕が気掛かりだったのは、君自身の気持ちだ」
「わたくしの~……気持ち~?」
目を軽く見開いたノドカに彼は頷いてみせる。
「興味はあったのかもしれないが、ジゼルに誘われた当初の君は合唱をやりたいと思っているわけではなかった。“誘われ”、“勧められた”から所属しようと思っただけなのだろう、とそう感じた」
「それは~……」
「別に糾弾しようとしているわけではない。後ろめたく感じる必要もない。ただそんな心情のままでは互いに不利益にしかならないだろうと考えていただけなのだから」
「お互いの~不利益~?」
「君は自分の“歌”を大切にしているし、その実力も才能だって疑いようがない。だが半端な気持ちのまま合唱に臨むだけではこちらは君の歌の美点を殺しかねないし、君の存在もまたこちらに不和を引き起こしてしまう可能性が高い」
それでは互いが不幸だ、と語る彼の言葉に嘘はないとノドカには断言できた。
彼の言葉は続く。
「でも最近になって僕もそんな考え方を改めたのだよ。君の在り方を見て、考え方を改めざるを得なかった。今確実に言えるのは、君の存在が合唱団に不和を引き起こす材料とは絶対になり得ないということだけ」
この言葉に驚いたのはノドカだけではなかった。眉を顰めながらも静かに耳を傾けていたジゼルもまた、断言してみせた彼の言葉に口をぽかんと開ける。
彼女は父が何を目的にこんな話を続けているのかを察したのだ。
「僕にとって誤算だったのは君はとても“周りに合わせるのが上手い”という点なのだよ。君は同じパートの団員、別パートの団員、指揮者とも破綻することなく完璧に合わせてみせた。だから今はとても口惜しく、ただ “勿体ない”と感じてしまっている」
次に彼が語るのは“最高のハーモニー”を生み出すためにこの合唱団の理想としている考え方だった。
「公演の中で僕が君たちに望むのは“合わせようという気持ち”を捨て去ることだ。一人一人の想いが一丸となり、それぞれの呼吸すらも手に取るように感じられるところにまで到達した舞台の上でただ合唱を楽しんでもらいたいと考えている。きっとその感覚は君にとっても馴染み深いものなのではないかね? 僕はここでもその感覚を君に味わってほしいと思っているのだよ」
「ぁ……ハーモニクス~……」
まるでユウヒや姉妹たちとのハーモニクスみたいだとノドカには感じられた。その考えに至った瞬間、彼の言わんとしていることもスッと理解できるようになる。
そうして心の底から浮かび上がってくるのは彼女自身の願望だ。もっと自分自身の想いを、自分の考え方が如何に変わっていったのかを知ってもらいたいと思った。
「……最初はわたくしも~歌えるから歌っていただけで~……でもわたくしの歌は~みんなを支えてあげられて~聞いてくれる人たちに元気をあげられて~……すごいんだよって~ありがとうって~わたくしも歌がどんどん大好きになって~……」
溢れてくる感情のままに吐露する彼女の言葉は要領を得ないものだ。だがそこに込められた強い想いは十分に伝わってくれる。
「わたくしの歌は~みんなに“聞いてもらう歌”だったの~……でも~それだけじゃないんだよって~教えてもらったの~。みんなと一緒に歌うことだって~こんなにも楽しいんだよって教えてくれたのは~ジゼルちゃんのおかげなの~」
「お姉ちゃん……」
「ジゼルちゃんは~わたくしを目標にしたって言ってくれたけど~……わたくしの方も~ジゼルちゃんに導いてもらっていたんだよ~……?」
「お姉ちゃん!」
感極まった様子のジゼルがノドカを強く抱きしめる。
そんな2人の様子に微笑んだ彼はノドカにある提案を持ち掛けようとする。
「改めて確信したよ。風の精霊姫フリードリヒ様――いや、ノドカ君。君をこの合唱団に迎え入れたい。既にジゼルや団員たちも……僕だって君を“かけがえのない仲間”だと思っている。今まで悶々とさせてしまって本当にすまなかったね」
「仲間~……本当に~? わたくし~入ってもいいの~……?」
「勿論だとも。その分、日中の練習や指導も受けてもらうことにはなるがね。答えを出すのは後日でも構わない。君のご家族とも相談して――」
「は、入ります~!」
団長の言葉を遮ったノドカがそのまま言葉を続ける。
「わたくしだって~仲間だよって~胸を張りたいから~……お姉さまたちに~ダメだよって言われても~説得します~……だから~……!」
こうしてノドカはこの日、自分の意思で大きな決断を下した。
家に帰った後、家族にもこのことを打ち明けるとそれはもう大いに驚かれたという。流されやすい性格のノドカが己の内に秘めていた想いと向き合い、確固とした態度で押し通してみせようと決意したのだ。
いつまでも子供だと思っていた少女に自立心が芽生えたことに寂しさと喜びを覚えたユウヒたちであったが――家族と過ごしている時は相変わらずの甘えん坊っぷりを発揮するノドカにそんな感傷は一瞬で消し飛んでしまったという。
寧ろ一日のうち家にいない時間が伸びた分、甘えん坊っぷりに拍車がかかったとも言える。
そうして人間たちの団体に所属するようになり、多くの仲間に囲まれた彼女はジゼルが現役を引退するまでの役30年間、アベントゥラ混声合唱団に籍を置き続けた。
だがそれが反動となったかのように、自身が引退した後は以前よりも怠惰な生活をするようになったとかなっていないとか。
ユウヒたちが頭を抱えるようになるのは少なくとも今よりもずっと後の話である。




