表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/12

8

 草木も眠る丑三つ時、とは言うものの、風に揺られる林や草道はわりと饒舌だと思った。

 しかし、メリーの家に向かう途中、高台から見下ろした街は光を潜め、俺の住んでいる町よりも闇が深いように思える。人通りは皆無で、街灯の類すらない道をひた歩く。

 あまり幽霊の類とかは信じていない、と言うとこれから何しに行くのかと言う話しになってしまうが、逆に信じている人間からすればこの雰囲気は恐怖の対象かも知れない。

 如何にも何かが出そう、そういった空気だ。

 帰りの電車もバスもとっくに過ぎてしまった午前2時過ぎ。いよいよ引くに引けない状況となっている。

「それでは、3時に屋敷の前まで来て下さい」

 そう、あの墓地で家政婦の女性は時間を指定してきた。

「3時!? 深夜のか? それまでどうしてればいいんだよ!?」

「これを」

 手渡されたのは、用務員さんがくれたものと同じカイロだった。

「耐えて下さい」

 簡潔に短くそう言い残すと、彼女は困惑する俺には見向きもせず墓地を後にした。

 途方に暮れるとはまさにあのことだ。知らない土地で、しかも冬場に数時間も外で時間を潰せというのは、流石に酷過ぎるように思えた。

「カイロはそんなに万能じゃねぇよ……」

 時計を半周以上も待つ間、それ一つではあまりにも頼りなく思え、ため息と共に呟いてしまった。

 結局俺は、寺の本殿でガタガタと震えながら待つこととなった。風が凌げるとはいえ、小一時間もしないうちに体温は見る間に奪われ、携帯の電源が切れたときの心細さは異常の一言に尽きた。

 体育座りで石のように静かに丸まり、中心に二つのカイロを包んでひたすらに待つ。俺は何をやっているんだろうという惨めな気持ちになった。

 あまりの寒さと侘しさからかなり早めに寺を後にしたため、メリーの家へは家政婦の女性が言っていた時間よりずいぶん早く着くことになった。

 馬鹿でかい屋敷の敷地は昼間見たときと印象が違い、塀の向こうや壁沿いに何か現れるのではないかと言うような不気味な雰囲気があった。確か、昔の怪談か何かであったはずだ。塀の上から乗りかかるようにして声をかけてくる妖怪、屋敷の近くで佇む女の幽霊。

「まぁ、信じちゃいないから平気なんだけど」

「――何がですか?」

「うおぁあっ!?」

 誰もいないはずの背後から、不意に声を掛けられた。

 振り向くと、俺をこんな時間に呼び付けた女が立っていた。

「何を信じてないんですか?」

「何って……」

 思わずその姿をマジマジと見つめる。

 夕方と違い、白装束のような寝巻に、下ろした黒い髪。風に髪がなびかれ、暗闇の中で無表情に立つ姿は、やっぱりそういう類いの存在がいるかもな、と考え直させるほどのものだった。

 正直、メリーなんかより余程幽霊っぽい。

 この人みたいなのが深夜に徘徊して人に声を掛ければ、あっという間に都市伝説の仲間入りすること請け合いだ。

「な、何でもない。というかあんた、気配消すのやめろよ!」

「そういったつもりはないのですが」

「じゃあ、何でたびたび背後から突然声をかけるんだ?」

「接客の基本に措いては、警戒心を持たれないよう前方に回り込んで話しかけることが重要だそうです」

「……なおさら納得がいかないんだが。あんたは俺に警戒心を持たせたいのか?」

「そうですね。あなたは何かと信じやすいようなので」

「安心してくれ、あんたのことは欠片も信じてないから」

「左様でございますか」

「ハハハ、左様でございますよ」

 慣れてきたからこそ分かるが、俺はどうやら信じる信じない以前にこの女とはあまり反りが合わないらしい。出来るだけ波風立てずに人とは接したいと思っているが、この手の手合いは強制的に苛々させられる。会話のテンポが崩されるという点ではメリーに通じるところもあるが。

 そもそも、こんな深夜に呼び出して一体どういうつもりなのか。売り言葉に買い言葉などではなく、実際に俺はこの女をいまいち信用していなかった。言われるままに来たのは、あくまで他にあてがないだけであり、メリーと会える保証などないのだ。墓地で言われたときは盲目的に信じかけたが、外で数時間も頭を強制的に冷やされたので、冷静に考え直すことが出来た。

「それにしても随分と早くいらっしゃったのですね」

「さ む か っ た ん だ よ !」

「そうですか。この季節、外は冷えますからね」

「あんた、喧嘩でも売ってるのか」

「心外ですね」

「寒いの分かってるんなら、もう少し早くするとか出来なかったのかよ」

「難しいです」

「ほう、じゃあこのまま3時まで待たなきゃならないのか?」

「いえ、おそらくもう大丈夫かと」

「あんたと話してると頭が痛くなる」

 何が難しくて、何がもう大丈夫なのかの基準がさっぱり分からない。最初は儀式的なもので時間が限定されているのかと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。

「だいたい随分早いと言いながら、タイミングばっちりであんたがいるのはどういうわけだ?」

「少し周囲を確認しておりました。見られたらまずいものですから」

「いったい何する気なんだよ」

「お嬢様に会いに来たのではないのですか?」

「いや、そうだけど、そんな仰々しい準備が必要なのかよ」

「準備は必要ありませんが、人に見られるのは困るのです」

「何でだ?」

「最悪の場合、死にます」

「……誰が?」

「あなた以外にはいないですね」

「いや、もうそういうのはいいから早くしてくれ。寒くて仕方がない」

 サラッと脅されたが、もはやまともに取り合うのが面倒でならない。『そうですか』と前を歩く女が、胡散臭いを越えて少し頭が残念な人なのかと思ってしまう。正直なところ、バスの時間がまだあればこの場で引き返したいくらいだ。

 それ以上は俺も彼女も会話を交わさず、無言のまま塀沿いを歩いていく。門の前まで行くと、昼間見た警備員が立っていた。相変わらずの強面で、石のようにピクリともしない。仁王像か何かなのだろうか。

 そんな同僚に彼女は軽く会釈すると、門の前を通り過ぎた。俺も釣られて会釈するが、当然仁王様は微動だにしない。

「おい、あの人昼間もあそこに立ってたよな?」

 声を潜めて問いかけると、こちらを振り向かずに答えが返ってきた。

「ええ、彼は一日16時間は門番をしていますから」

「じゅ、16時間!?」

「はい。一部の食事や入浴などの時間以外は、あそこが彼の持ち場です」

「それ、色々大丈夫なのか?」

「身体は丈夫だそうです」

 いや、丈夫って言っても、健康とか睡眠時間以前に、労働基準法とか人権の問題が発生しそうなレベルだが。

「ただ、以前に、『暇だ』と呟いてるのを聞いたことがあります」

「そ、そりゃそうだろうな」

「あと、口には出しませんが、動物が好きみたいですね。猫や犬などが通りかかると、動きはしませんが目で追っているように見受けられます」

「い、意外だな」

 その話から、どうやら思ったよりも人間味があるらしい。目の前の女より、よっぽど親近感が沸く。しかし、どうやら世の中には、俺が知らない苛酷な仕事があるらしい。一日の半分以上をただ立っているだなんて、とてもじゃないが俺には無理だ。というかただの拷問だろ。

「ところでこれどこに向かってるんだ? 屋敷に入るんじゃないのか?」

「正門では目立ちますので、我々使用人が利用する裏口から入ります」

 そう言い終わるか否か、その裏口に辿りついたらしく立ち止まった。裏口と言っても、普通の家の正面口よりは大きく、木製の扉にはディンプルキーまで付いている。白い寝巻の袖から鍵を取り出すと、彼女は音を立てずに解錠した。

「なるべく音を立てないで下さい。極力私語も控えて頂くようお願いします」

 そう振り向きざまに釘を刺された。それには素直に従い、出来るだけ物音を立てないように注意しながら後へと続く。

 敷地内に入ると、家の人間は寝静まっているのか、建物のどれもが暗く佇んでいる。前を歩く女は勝手知ったるといった感じで迷いなく無言で歩を進め、俺は、夜中に他人の家の敷地内を歩く後ろめたさを感じながらそれについていくしかなかった。

 そして、そのまま昼間に見たひと際大きい建物をぐるりと周ると裏庭へと出た。しかし、この屋敷、建物もでかいが庭とか池が無駄に広いな。空いてる敷地に何も建てないのは勿体ないと思ったが、これ以上は流石に持て余すのだろう。今のままでも、学校の一クラス分ぐらいの人数はゆうに住めそうだった。

 しかし、裏手に回っても明りが付いている窓はいっさい見受けられなかった。もしかしたら、見た目以上に人は住んでいないのかも知れない。昼間来訪したときは、前を歩く家政婦とおばさんと、門の前の警備員の三人しか会っていないし、人の気配自体をあまり感じさせない。その様子から、幽霊屋敷だなんてイメージがつきかねないな、と漠然と思った。

 そんなことを考えていると、突然家政婦が立ち止り、俺もそれに合わせて歩を止める。

「ここです」

 潜め声で家政婦が呟く。どうやらここが目的の場所らしい。

 見ると、大きな建物の端に一つの扉が設置されていた。鉄製の扉は見るからに重厚で、窓や覗き穴も付いておらず、明らかに裏口の類ではないように思えた。作りこそ新しいが、それこそ、昔から何かを封印でもしているかのような空気があり、俺はその物々しい雰囲気に少しだけ気押されそうになる。

「何があるんだ?」

「入れば、分かります」

 そう言うと、家政婦は扉に付いた二つの鍵穴をそれぞれ解錠し、ドアノブに手をかけた。扉が開かれると中は真っ暗で、月明かりを頼りにしている外の方が明るいぐらいだった。

 中に入ると、入口付近に電気のスイッチがあったらしく、パチンという音と共に室内に光が灯った。

 しかし、そこは室内と呼べるような場所ではなく、明かりが点いて初めて気付いたが、地下へと降りる階段が続いていた。電光もどことなく脆弱で、明かりが点いてなお薄暗い雰囲気があり、カビ臭さが鼻を抜けた。

「降りて下さい」

「え、俺が先に?」

 地下へと続く階段に俺達の会話が響く。先に進むよう促されるまま、その階段を一段一段降りていく。途中、後ろから突き落とされでもするのではないかと何度か振り向いたが、家政婦はそんな俺を無表情で見下ろすだけで、その目には何の色も映っていない気がした。

 正直に不気味だった。

 階段の最後の段から足を下ろすと、少し開けた空間に出たのが分かった。しかしそこは電気が別回路なのか、闇が広がっているだけで全体像が分からない。カビ臭さが入口よりも増したように思え、それと比例するように不安感も上昇する。

「な、何なんだ、ここ?」

「あなたが来たがっていた場所です」

「俺が来たがってたって、どういうことだ?」

 そうたずねると、家政婦は階段の入口と同じように壁に手を当て、地下の空間に電気を付けた。

 広がっていた闇が晴れ、空間内が光に照らされ露わになる。

 そこで目に入ってきた光景に俺は愕然とした。

 地下の陰鬱とした空間は、コンクリートの打ちっぱなしで作られており、その左手には、時代劇で見るような仰々しい座敷牢があった。


 ――そして、その中には、一人の少女が横たわっていた。


 こちらの通路側から背を向けるようにして横たわるその後ろ姿は、紛れもなく見覚えのあるものだった。

 俺は、思わず言葉を失った。

 座敷牢へ近づいて手をかけ、額を木製の太い檻へと擦りつけながら、それを凝視する。

 今さら間違えるはずがない。

 傷んだ金髪。小さな身体。ボロ布から覗けた白い肌。

 間違いなく、メリーだった。

 何がなんだか分からない。でも、そこにいるのはメリーだ。それだけは間違いない。

 俺は勢いよく振り返り家政婦に叫んだ。

「ここを開けてくれ!」

「……かしこまりました」

 俺の混乱した内心とは裏腹に、家政婦は至って落ち着いた様子で足を運び、座敷牢の端に付いている錠前を開けた。

 俺は彼女を押しのけるようにして檻の一部を開けると、牢の中の中央で倒れているメリーへと近付いた。

 一歩、また一歩と、ずっと探していたその女の子に近付く。

 そう、探していたはずだった。

 会いたかったはずだった。

 見つけ出すと誓ったはずだった。

 でも、いざメリーを目の前にした俺は、戸惑っていた。

 会いたいと、そう思ったことに偽りなんてない。でも、本当にこんな風に会えるだなんて思ってもみなかった。

 目の前にいる存在が、本当に俺の知っているメリーなのか、確認するのが怖かった。

 でも、けれど、これが夢でも幻でもないのなら、俺はこいつに言いたいことがある。

 息を呑み、メリーの傍でしゃがみ込んだ。

 その肩へと手をかけ、――そして気付いた。

 メリーは俺が触れても反応はなく、そして、服から除く肌には、俺が家で見たものとは別に、新しい生傷が増えていた。

「お、おい! しっかりしろ!!」

 メリーの身体を起こし、そのまま抱きかかえて呼びかける。細い腕は冷え切っており、その顔には精気がなかった。それは幽霊などではなく、どちらかと言えば死体のような――。

「おい……、じょ、冗談だろ? 頼むよ、起きてくれよ」

 しかし、それでも俺の問いかけには応えはなくて、独り言のように牢の中に声が響くだけだった。

「なぁ、俺、お前に会いに来たんだよ……。ずっと探してたんだよ。……お前のことが心配で、何で俺なんかのところに来たのか分からなくて、もう一度話したくて……」

 息が詰まりそうな不安感が全身を覆う。腕の中のメリーはそれでも動かなくて、話している声が震え、視界が滲む。喉が締め付けられるように苦しくて、一言一言、詰まりながら話すことが精一杯だった。

「だから、起きてくれよ。頼むから……」

 目を閉じたメリーの顔は、俺の家で何度か見た、幼い寝顔と同じものだった。

 別人なんかじゃない。

 間違いなく、俺の知っているメリーだった。

 それでも、こいつは、この幼い少女は、俺が知らない苦労をいっぱい味わっていて、それを俺は今日知って……。

「もう一度会って、一言だけでも、伝えたかったんだよ……」

 抱きかかえる腕に力を込め、願うように声を絞り出す。

「――お前はいらなくなんかないって」

 どれぐらいぶりか分からない。眼の奥が熱くて、息をすることさえ苦しくて、何も考えられないぐらい感情は胸を圧迫して、涙がゆっくりと頬を伝っていくのを感じた。

 そして、その雫がメリーの頬へと落ちると、小さく、けれど確かに、声が聞こえた。

「……ん」

 それは、吐息のような、蚊の鳴くような、そんな声だけれど、確かにメリーの口から発せられたものだった。

 俺は、身動き一つ出来ずに、その顔を見詰めた。

 やがて、瞼が微かに動き、メリーが薄く眼を開く。その瞳に、俺の顔が確かに映っていた。

「あれ? お兄ちゃん……?」

 俺の家で見た寝ぼけ眼などではなく、憔悴した様子だったが、それでもはっきりとメリーは俺を呼んでくれた。

 思わず、抱えていた腕を引き寄せて抱きしめる。

「えっと、何で、お兄ちゃんが、ここにいるの?」

「……お前に会いに来たんだよ」

 メリーは意識が朦朧としているのか、言葉がゆっくりとしていた。

 そして、そのまま、まるでうわ言のように甘ったるいしゃべり方で言葉を続けた。

「ふへへ……、私メリーさん、今ね、お兄ちゃんの、胸の中にいるの……」

 聞きなれただらしない笑い方。嬉しいとき、俺に甘えるときと、同じ笑い方。

 そう呟くと、俺の返答待たずに瞳を閉じ、メリーは寝息のようなものをたて始めた。

 先ほどもしていたのだろうが、あまりに動揺していて気付かなかった。今は、スースーと確かにその息が聞こえる。

生きている音が、聞こえる。

 手足は冷え切っていて、服も俺の家に来たときと同じようにボロボロで、だけど、抱きしめたその小さな身体は、心臓は、それでも脈打っていた。

 俺は、冷えたその身体を温めるように、眠ったメリーを強く抱きしめた。

 いや、俺がそうしたかったのかも知れない。

 この安堵を、噛み締めたかったかも知れない。

 もう、あんな風な、この世が終わるかのような不安を感じないように。

 そのまましばらくして、俺は上着を脱ぎ、メリーのボロボロの服の上から着せてやった。よく見ると座敷牢の隅には布団があり、そちらへとその小さな体を運ぶ。

 抱えたメリーの身体は、気のせいなのかも知れないが、数日前よりも軽く感じた。

 毛布をかけ、乱れた髪を撫でるように整えると、俺は立ち上がり振り返った。

 先ほどまでの穏やかな気持ちのどこにそんなものが潜んでいたのかと思うほど、感情は逆方向へと全力で疾走していた。

 俺の視線の先には、一部始終を見ていたであろう、無表情な顔があった。

「おい、家政婦、聞きたいことがある。……それも山ほどだ」

「お墓に続いて2回目ですね」

 今まで生きてきて、かつてないほどの熱が頭と胸を支配する。メリーの前で声を荒げないよう、無理やりそれを抑え込むことで精いっぱいだった。

 怒りで身体が震えるだなんて例えだと思っていたけれど、今自分の言葉は怒気で満ち、それを抑えることで声が震えているのは紛れもない事実だった。

「とても、死んでる人間には見えないんだが、これは俺がおかしいのか? それとも最近の幽霊はこんなに生々しいものなのか?」

「お嬢様が生きていると認識されたのであれば、概ね正常ですね。幽霊にしては足もありますし」

「そうか。改めて聞きたいことがあるんだが」

「3回目ですね。どうぞ、なんなりと」

「……どういうことだ」

「あなたが感じたままです。お嬢様は死んでいません」

「」

 ――声が出ない。もし口を開けば、きっと叫んでしまう。

怒りを抑えることがこんなに難しくて苦しいことだと、俺は初めて知った。熱くて重いモノが脊髄からせり上がり眼球が圧迫され、頭部の穴という穴からどす黒くて熱いものが溢れ出しそうだ。それを無視やり押し込めると、体温の上昇のせいか空気が冷たく感じ、寒気が背筋を覆う。

 しかし、そんな俺の葛藤を気にもせず、家政婦は淡々と言葉を続けた。

「私は、お嬢様が死んだなどとは一言も言っておりません」

「……嘘付くなよ」

 今更何を言っているのか、理解しかねた。こちらの感情を意に介していないその態度にも腹が立った。瞼に力が入り、睨み付けていることを自覚する。

「私は、嘘は付きません」

「じゃあ、あの墓は何なんだ。確かに埋葬したって言ってたよな」

「確かに納骨したとは言いましたが、あくまで遺品とお伝えしたはずです」

「ふざけてるのか?」

「至って真面目ですが」

 本当にふざけてるか聞いてるわけじゃない。そんな器用なことが出来るタイプだとも思っていない。ただ、真面目に言っているからこそムカつくことだってある。

「このことは、おばさんも知ってるのか?」

「私は、奥様よりお嬢様のお世話を仰せつかっております」

「だけど、昼間亡くなったって聞いたんだが」

「そうですね、皆様死んだと仰います。けれど、私には見えている、そう伝えたはずですが」

「……死んでないだろ」

 確かにこいつの言ってることは、思い出してみると間違っていない。嘘も付いていない。けれど、周りの嘘を否定しないのは、肯定していることとどう違うんだ。

「ちゃんと生きて、息をして、ここにいて、苦しんでるだろ。傷付いてるだろ。死んでなんかいないだろ。なんでそう言わなかったんだよ」

「そう伝えたら、あなたはどうされましたか?」

「助け出すに決まってるだろ!」

「どのようにしてですか?」

「どのようにって」

「昼間のことをお忘れですか? この家では死んだものとしてしか対応致しません。もしも無断で侵入したなら、ここに辿り着くまで5回は捕まっています。公共の機関に訴えても、戸籍上すら完全に死んでいる人間に対して、証言のみでこの家に対して動いてくれることは難しいでしょう」

 落ち着いた様子で、淡々と、それでいて諭すように、彼女は俺の認識の甘さを否定した。今までのように質問に対する返答ではなく、それはしっかりとした意見だった。

 しかし、それでも怒りと疑問は収まらない。むしろ次々と沸いてくるようだった。

「……戸籍上も死んでるって、そんなこと可能なのか? 寺や町ぐるみであいつを死んだことにしてるってことか?」

「いいえ、お嬢様の死を作っているのは、この家の者だけです」

「じゃあ、どうやって納骨や葬式をやったっていうんだよ」

「お嬢様が事故にあったとしているのは一昨年です。しかし、葬儀は昨年行いました」

「だから、それこそグルってことに……、いや、もしかして、……嘘だろ? だから船舶事故なのか?」

 海難事故、遺体のない遺品だけの納骨、事故から1年以上の期間を経ての葬式、そして、戸籍上の死亡扱い。

「まさか、死亡認定か……?」

「左様でございます」

 ――聞いたことがある。失踪者や死んでいるかどうか不明な人間を死んでいるとみなすことが出来る法律。

 しかも、一般的行方不明などではなく、死亡の危機がある事故によって存在が明らかにならない場合、一年程度で死亡扱いに出来ると。例えばそう、海上における遭難――。

「じゃ、じゃあ、事故に遭ったっていうのは?」

「捏造ですね。その日からお嬢様の部屋は、この地下です」

「そんな馬鹿なこと……」

「紛れもなく現実です。私は、一昨年から学校に通いながら、お嬢様の世話をし続けました」

「……ちょっと待て。じゃあ、あいつの身体の傷跡は」

「……」

 俺の疑問を察したのか家政婦は押し黙った。かび臭くひんやりとした地下の空間に沈黙が下りる。そう、この女が世話をし続けていたというのなら、この傷を付けた人間は――。

 メリーへと視線を移すと、大人しく眠っていた。いや、あの状態では眠っているとは言えないのかも知れない。俺の家で見たような寝返りなどは一切打たず、ただただ、人形のように横たわっている。先ほど心臓の脈を確認してなお、心配にさせるぐらいに。

「あれは、まさかあんたがしたことか?」

 家政婦へと一歩にじり寄る。返答次第では、怒りを抑えることは出来ないかも知れない。そう思った。

 珍しく言葉に詰まっている家政婦は、今までと違い、苦々しく言葉を吐き出した。

「……習慣とは、恐ろしいものですね」

「習慣?」

「ええ。不必要なことさえ継続的に行うのですから」

「……習慣的に暴力を振るってたっていうのかよ?」

 思わず拳に力が入り、さらに家政婦へと歩を進める。人形じみた無表情な顔が眼前に迫る。

「おっしゃる通りです」

 その口が開かれた瞬間、自分の中で何かが爆ぜたように身体が動いた。自分の意識とは別に、家政婦の肩へと腕を伸ばし、そのまま木製の檻へと叩き付ける。

「ふざけんな! あいつが何したって言うんだ!!」

 背中をやや強めに打った彼女は一瞬顔をしかめたが、また同じように表情を消し、淡々とした様子で答えた。

「お嬢様は、この地下に来る前からも自由を奪われておりました」

「どういうことだ?」

 肩にかけた手に力が入る。顔を近付け凄みながら詰問する自分は、まさに恫喝していると言えた。

「通学も娯楽も食事も入浴も排泄も、すべて奥様や家の方の管理化にありました。そして、何かにつけて、家の方はお嬢様に躾と称して暴力を振るいました」

「か、管理下?」

「はい、何をするにも許可が必要です。それを破れば罰が与えられました」

「そんなのって……」

 あまりの内容に、彼女の肩を押さえつけていた手から力が抜ける。ショックを受け戸惑っている俺に、なおも家政婦は追い討ちをかけてきた。

「通学の許可が下りなくなったのは比較的早期からでした。食事が与えられない日もありましたし、トイレに行っただけで骨を折られたこともありました」

「……なんだよ、それ」

「この地下に移されてからも、家の方は度々様子を見に来られて、お嬢様へ暴力を振るいました。私は、その度にお嬢様へ手当てを施しました」

「……」

 ――虐待。そう言葉で言うのは簡単かも知れない。

 でも、今聞いた内容は、メリーが受けてきた仕打ちは、あまりに惨いように思えた。

 現実に、そんなことが起こりえると思わなかった。

 メリーの身体の傷を見たとき、同じような気持ちに襲われたけれど、まさかここまで非道徳的だとは思わなかった。

 部屋の隅で憔悴し、横たわっているのは、まだ12歳の少女だ。

 そして、家政婦の話では、その人生の半分近くもが虐待を受けており、内2年は死んだことにされていたらしい。

「……なんなんだよ」

 思わず頭の中に浮かんだ言葉が漏れる。たった二つの言葉しか浮かんでこない。そのうちのもう一つを口にする。

「ふざけんなよ……」

 どうしようもない理不尽に直面したとき、人間はこの二つの言葉しか出てこないのだと、俺は初めて知った。

 理不尽に対する怒りと、批難と、不満と、憎しみと、絶望感や無力感みたいなものが胸を支配して繰り返すように呟いた。

「なんなんだよ……。ふざけんなよ……」

 ――気付けば俺は、また泣いていた。

 悔しくて悔しくて仕方がなかった。

 あいつは、メリーは、俺が知らないところで、こんなところに閉じ込められていたのだ。

 あんな小さい身体で、幾度もの暴力を受けていたのだ。

 誰にも知られず、誰にも助けを求められず、ただただ耐えることしか出来なくて。

 それが、当たり前のように続いた。

 6年間も。

「ふざけんなよ……」

 家政婦の肩から外した手を上げ、額を抱えるように顔を覆う。

 俺は、あいつの過去をどうしてやることも出来ない。

 あいつの傷を、過去の記憶を、消してやることも出来ない。

 話を聞いてやることさえ、言葉をかけてやることさえ出来ていなかった。

 何も言わずに笑っていたメリーの顔を思い出す。

 俺は何をしていたのだと、余計に涙が頬を伝った。

「これを」

 その言葉と共に、俯いて滲んだ視界に白い腕が入ってきた。見ると、家政婦がどこから取り出したのかハンカチを差し出していた。

 俺はそれを払うような動きで拒否すると、袖で強引に涙を拭った。

「傷の原因は、あんたじゃなかったんだな……」

「私は世話役でございますから」

 俺の泣き顔にも動じず、ぶれない無表情でそう答えた。しかし、だからこそ、少しだけ救われた気がした。

 差し出された気遣いで察したが、おそらくこの人は見た目通りの人ではないのだと思う。

「あなたに何かが出来た状況ではありませんよ。知らない問題を解決するなんて、どんな学者や探偵にだってできません」

「あ、ありがとう」

 どうやら、俺の心境を察してくれたらしい。物言いこそ無機質だが、励ましてくれいるのだろう。俺は、再度顔を拭い、質問を続けた。

「それで、なんでこいつは死んだことになったんだ?」

「それは、動機についてでしょうか?」

「そうだ」

「お分かりになりませんか?」

「いや、なんとなくは」

「お察しの通り、お嬢様は莫大な遺産を相続されています」

「……で?」

「そして、お嬢様に身寄りはなく、今はこの家の方が親権を握っておいでです」

「……」

「お嬢様がお亡くなりになれば、余りある利益を得る方がいらっしゃいます」

「やっぱり、それなのか」

「はい」

「そんなもののためにこいつは……」

「あなたとこの家の方とでは、価値観が違うのでしょう」

「価値観なんて言葉で片付けるなよ」

「はい」

「それ以前の問題だろ」

「はい」

「……」

 分かってる。彼女を責め立てても、怒りをぶつけても、何にもならない。

 見つめた無表情な顔が、先ほどまでの印象と違い、落ち着いてと言っているような気がした。

 俺は冷静を取り戻すべく深いため息を吐き、言葉を続けた。

「なぁ、あとニつばかりいいか? あんたには分からないかも知れないが」

「はい」

「こいつはこんな閉じ込められてる状態で、どうやって俺の家に来たんだ?」

「それは、施錠の不始末でございます。家の方がお酒を飲んだ状態でお嬢様に暴力を振るわれ、その後、扉や錠が開かれたままだったのです」

「いや、そこからどうやって俺の家まで来たんだよ」

「手紙、でございますね」

「手紙?」

「はい。私は奥様の代わりに年賀状を始め、親戚付き合いなどの雑事を任されております。そして、当然郵便物の管理なども私の仕事の一環です。そこで、以前あなたのお母様からあなたのご住所を聞きました」

「俺の住所を?」

「お嬢様から、あなたのお話はよく聞いていたのです」

「ど、どういうことだ? よく分からないんだが」

「家の方が酔ってお嬢様に暴力を振るった晩、私は、たまたま持ち合わせていたその手紙と、その住所への行き方を書いた紙と、財布を、たまたまその牢の入り口に落としてしまったようです」

「……え?」

「それがどうなったかは私の知るところではありません」

「いや、それってどう考えてもあんたが」

「私の知るところではありません」

 念を押すように、家政婦が少し強めのトーンで繰り返した。

 俺は少し笑って、「そうか」とだけ呟いた。

「しかし、屋敷の方は翌日からいなくなったお嬢様の捜索に乗り出しました。お嬢様のあの目立つ容姿と、この家の力を持ってすれば、それはそう難しくないことでした」

「それで、俺の家を付き止めてあいつを連れ出したってことか」

「左様でございます」

「じゃあ、俺がここに来るのは予想済みだったってことか?」

「いいえ。まさか来るとまでは思っていなかったようです。ただ、あなたのお母様や警察から連絡が入る可能性だけは想定していたようです。もっとも、詳しい調査はされないでしょうし、あなたの妄言扱いとなっていたでしょうけど。ですから、あなたが屋敷を訪ねてきたことで奥様は警戒されました。そのため、あなたの後を尾けるように私は指示されたのです」

「……とんでもないな」

 そうか、交番で警官の言っていたメリーの幽霊の噂っていうのは、ここから抜け出したときに誰かが見たものだったってことか。

 しかし、いくらメリーが目立つからって、いなくなった人間の居場所を数日で付き止めるなんて、俺が思っている以上にこの家の力は凄まじいものなのかも知れない。先ほど言っていた、証言程度では警察や公共の機関に取り合ってもらえないという家政婦の言葉に俄然真実味が増す。

 昼間来たときに話したおばさんの顔を思い出す。柔和で優しそうな人だったが、あれは俺を欺くためだったのか。

「それで、もう一つの質問は何でしょうか?」

「あ、あぁ。これは聞くまでもないのかも知れないが、一応あんたに聞いておきたかった」

「はい」

「俺は、これからどうすればいいと思う?」

 この女が、どんな意図で俺をここに招き入れたかはすでに察していた。そして、俺はどう言われても、この後どうするか決めていたし、変更する予定もない。ただ、何となく目の前の協力者に後押しをしてもらいたかったのかも知れない。

「自分のことは自分で決められたほうがいいと思いますが」、そう前置きを置いたうえで、僅かな沈黙の後、家政婦は静かに口を開いた。

「過去は変えようがありませんし、あなたに出来ることは何一つありません。今までお嬢様が経験し、苦しんできた事実は傷となってその心と体に残り続けます。しかし、これからのことは、幾らでもしてあげられることがあるはずです。その傷を雪ぐことが、癒すことが、できるはずです。そして、今あなたに出来ることが、あなたにしか出来ないことがあるでしょう」

 ――そう応えてくれた彼女の言葉は、変わらずに淡々としていたけれど、強い意志のようなものを感じた。

 俺が先ほど感じていた無力感や葛藤を、酌んでくれているようでもあった。

 俺は彼女の言葉に無言で頷くと、布団の上で横になっているメリーの元へと進み、出来るだけ優しくその身体を抱き上げた。

 そのまま冷たい畳の上を歩き、牢の入り口に立つ家政婦の前へと進んだ。

「じゃあ、俺はこいつをここから救い出すことにするよ」

「そうですか」

 俺の言葉に家政婦が頷く。俯いた顔はまつ毛が長く、美形な顔立ちに白い着物のような服がよく似合っていた。

 最初に抱いた人形や幽霊のようなイメージとはずいぶんと変わって見えた。

「それでは、この家の者としてそれは阻止せねばなりませんね」

「はぁ!?」

 すっかり穏やかな空気のなか、送りだされるのかと思っていた俺は、メリーが寝ていることも忘れて驚きの声を上げた。今まで我慢していただけに、この地下に来てから一番の大声だ。

「な、何言ってんだアンタ!?」

「いえ、私はこの家の人間ですし、奥様からここからお嬢様を出さないように言われておりますので、至極当たり前のことを言っているのですが」

「いやいやいや、そういうことじゃなくて、今さら何言ってんだよ! 俺にこいつを連れ出してほしくてここに連れてきたんじゃないのかよ!?」

「いえ、あなたがお嬢様にお会いしたいと言われるので連れてきただけですが」

「はぁああああ!?」

「私は私の役目がございますから」

「いや、あんた役目って……」

 前言撤回だ。やはりこの女、何を考えてるのかさっぱり分からない。先ほどは美形だなんて思ったが、その無表情は昆虫の類と一緒で思考があるのかないのかさえ察することが出来なかった。

 しかし、俺が戸惑い、メリーを抱えながら立ち尽くしていると、家政婦は急にその場でうずくまった。

「え? ど、どうした?」

「痛いです」

「な、なにが?」

「持病の腹痛に見舞われて動けそうにありません」

「は?」

「持病の腹痛に見舞われて動けそうにありません」

「え、えっと、大丈夫ですか?」

「痛くて動けそうにありません。ですので、私が動けないうちに逃げたりしないで下さい」

「え?」

「私が動けないうちに、決してお嬢様を連れていったり、逃げたりしないで下さい」

「……」

 そう棒読みで訴える家政婦は、それでも表情を崩さず真面目に俺の顔を見ていた。

 その顔には、『お嬢様を助けてあげて下さい』と書いてあるような気がした。

「いや、悪いけどこの隙に逃げ出させてもらうよ」

 そんな家政婦に、俺も同じように棒読みで空々しく答える。こんな状況なのに自分の頬が緩んでいるのを自覚した。

 俺は座敷牢を背にそのまま歩を進めた。

 階段の一段目に足をかけたところで振り向くと、律儀にも家政婦はまだ腹を抱えてうずくまったままだった。俺はそんな彼女へ、先ほどのことを思いだして声をかける。

「そういえば、悪かった。こいつの傷をあんたが付けただなんて疑って」

 その声に反応して、家政婦が顔を上げた。

「あんたは決してそんなことはしないって分かったよ」

「……私も、お嬢様と一緒でした」

「え?」

 家政婦の言葉は俺と違い小さかったが、よく澄んでいて、地下室が静かなこともありはっきりと聞き取れた。

「奥様方が引っ越されて以来、使用人は不当な労働を強いられたり、強制的に解雇されました。住み込ませて頂いていた私も、中学生の当時から働かされ、自由を奪われていた身です」

「……」

「お嬢様ほどではないにしろ暴力を振われたこともございますし、自分の時間や将来の選択肢というものはござませんでした。教え込まれたことや指示を受けたことをこなし、私はそれが自分の運命なんだと、次第に諦め、感情を閉じました」

 ポツリ、ポツリと、呟くように言葉を続ける。俺は黙ってそれを聞いていた。 

「そんな私に、お嬢様はいつも笑いかけて下さいました。色んなことを話して下さいました。色んな事を尋ねてこられました。この地下に来てから、私が家の方には秘密裏に勉学を教えているときも感謝されていました。たまにお持ちするお菓子を非常に美味しそうに召し上がって下さいました。自分がお辛いときも、私を気遣われ、不満や弱音一つ洩らしませんでした」

 メリーと彼女がどんな風にこの家で過ごしてきたのか、その6年間が思い浮かんだ。

 彼女もまた、被害者だったのだ。

「私は、罪悪感に苛まれながらも、淡々とお嬢様の世話を行い、そんな私にお嬢様は助けを求めることはありませんでした。ただただ、明るく接して下さいました。そんな自分が忌々しく、情けなくて仕方がありません」

 家政婦は、大きなため息を吐いて立ち上がると、檻越しに俺の目をまっすぐ見詰めてきた。

「お嬢様から聞いたお話しの中で、一番嬉しそうに話されていたのは、あなたとの思い出でした。優しくて、いつも面倒を見てくれて、私が困ったときは助けてくれると、そう仰ってました」

 その言葉を聞いて、俺は胸が締め付けられた。

 そして、それと同じだけ、メリーを抱きかかえる腕に力が入る。

「あなたは、聞いていた通りの人でした。優しくて、見た目と違い情に熱く、私と違ってお嬢様を助け出すことの出来る人でした」

 彼女は夕暮れの墓地と同じように、薄く微笑んだ。本当にその表情の変化は些細なもので、良く見なければ見落としてしまいそうなものだった。

 ただ、俺は、その言葉は確かに嬉しかったけれど、素直に受け取るわけにはいかなかった。俺なんかより、こいつを、メリーをずっと想っていた人間が目の前にいる。

 ずっとメリーを思いやって、そして、ずっと自分を責めてきた奴に、せめて伝えなきゃならない。

「……違う、俺じゃない。今までこいつを救っていたのは、そして助け出すのは、紛れもなくあんただ」

 そう伝えると、彼女は驚いたような表情をした後、顔を俯かせた。

 離れていて、その目元はハッキリとは見えないが、その後に続いた言葉は、滲んでいるような気がした。

「……どうか、お嬢様を宜しくお願いします」

 白い服の前の手を重ねて、彼女は小さく一礼した。

 そして顔を上げると、再び腹部を押さえてその場にしゃがみ込んだ。今さら感が前面に出ていて、俺がその様子を見て笑うと、彼女が悪態を付くような調子で言ってきた。

「あと、外で忠告した通り、簡単に人を信じない方がいいですよ。きっとあなたは騙されやすいです」

「肝に銘じておくよ。お返しと言ってはなんだけど、あんたは嘘を付かないと言っていたが、本当に付かない方がいいな。きっと簡単にばれる」

 そう言うと、小さな沈黙のあと、初めて家政婦はクスクスと声を出して笑った。

 俺もそんな彼女を見て、肩を揺らした。

「必ずまた来る。その時は礼をさせてくれ」

 そう、ここから出て全てが片付いたら、必ずまた来る。メリーと一緒に。

 そう告げると、俺は階段を上り始めた。

 その後ろから、「行かないで下さい。逃げてはダメです」と棒読みの声が響いてきたので、俺は入口を出るまでに笑い声を消すことに苦労した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ