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5

 今の時期は休みの学生が多いためか、バイト先ではランチタイムがよく込み合った。そのため、冬季休暇中は普段のシフトと違い、朝から夕方まで働くことが多い。

 今日も駅前で一つしかないファミレスは繁盛しており、昼過ぎだというのにほぼ満席に近い状況だった。

 とはいえ、昼食からそのままダラダラと残っている客も多く、見た目ほど忙しいという感じでもなかったけれど。

  メリーを一人家に残すことは気がかりではあったが、昼飯と念のため合鍵も置いてきたし問題ないだろう。ああ見えて一応来年度からは中学生なわけだし。

(いや、とはいえ、あのメリーだからな)

 たかが再会してから2日しか過ごしていないが、メリーの常識のなさは十分痛感している。もしかするともしかする可能性は十分ある。

 ちゃんと説明はしたが、電子レンジに金属類を入れても何らおかしくないような奴だ。その前に、蜘蛛が出たら家財が破壊されかねない。

 仕事をこなしながら、何だかんだと気になってしまう。少しだけ、子を持つ親の気持ちが分かるような気がした。

 そんなことを考えているうちに、来店する客足と反比例するように会計に向かう卓が増え、すっかり店内は落ち着いた雰囲気になっていた。

「お疲れー。休憩行っていいよ」

「あ、はい」

 作業も一通り終わり、暇を持て余していたところをチーフが背後から声をかけてきた。

 シフト終了まであと3時間か。メリーは大人しくしているだろうか。

 バックヤードに入りひと息ついていると、厨房担当の人がまかないを持ってきてくれた。

「なんか浮かない顔してるな」

「いえ、別にそんなことないですよ」

「ふーん、まぁこれでも食って元気だしなよ」

「ども、ありがとうございます」

 本日のまかないはかなり凝ったリゾットだった。この人は割と本気で料理人になりたいらしく、メニューにないものまで普通に作ってくる。合法的に店の食材を使えるまかないは、彼の格好の練習の機会となっていた。

「あ、これうまいすね」

「そうか。わりとイタリアンも向いてるのかもな」

 実は同い年なんだが、バイト歴は彼の方が長いことと、年不相応な落ち着いた雰囲気があり、ついつい敬語になってしまう。

 前に一度「タメ口でいいよ」と促されたのだが、癖付いてしまっていたのでなかなか脱却できていなかった。

 ただ、感覚としてはやはり友達に近く、休憩中も談笑する程度には仲が良かった。

 まぁ、話す内容はもっぱらくだらない雑談ばかりなのだが。

 当の本人は昼飯を済ませているのか、俺の感想を聞くとキッチンへと戻っていってしまった。

「しかし、本当に美味いな」

 ここ最近、コンビニ惣菜や弁当屋で済ませていたため、しっかりとした料理にありがたみを感じる。

 噛みしめるようにスプーンを口に運んでいると、バックヤードへと誰かが入って来た。休憩終わりで呼ばれるにはまだ早いが、店が混んで来たんだろうか。入口の方へと目を移す。

 すると、見慣れた顔がひょっこりと現れ、俺は思わずスプーンを落とした。

「へー、こうなってるんだ。私メリーさん、いまファミリーレストランにいるの」

「……おい」

 なんでお前がここにいる。

「あ、お兄ちゃん!」

 メリーがテトテトと駆け寄ってくる。昨日ゲームセンターに出かけた時と同じ格好だ。

「何でいるんだお前!?」

「お兄ちゃんが働いてるところ見たかったの!」

 メリーが元気いっぱいに答える。これが幼稚園であれば、良く出来ましたと褒めてやるところだが。

「そういうことを聞いてるんじゃねぇよ! どうやって入って来た!?」

「え? お店の周りをグルグル回ってたら、そこの窓からお兄ちゃんが見えたから」

「見えたから?」

「裏口みたいな隣のドアから入ってきました」

「それはな、不法侵入って言うんだよ!!」

 この店のセキュリティにも問題があるが、こいつの倫理観も問題だ。

 両方のほっぺたを摘まみながら叱りつける。指先から伝わるメリーの頬は 柔らかくて、そして妙に温かかった。

「……っ、お前、どうやってここまで来たんだ? 自転車でも20分近くかかるってのに」

「へ? 歩いてだよ?」

「このバカ」

「え、え? な、なんで?」

 あそこから、歩幅の小さいメリーが歩いたら、小一時間じゃ効かないだろう。確かに道はそんなに分かりにくいわけじゃないけど、無茶というか無謀というか。こんな薄着で、バカかこいつは。

「お前、ちょっと頭出してみろ」

 そう言うと、メリーはお辞儀するみたいにチョコンと頭を差し出してきた。

「そうじゃなくて、おでこ出せって」

「ん」

 言われるがままに今度は額を差し出す。何でも素直に聞いてしまう辺りは、流石に愛らしく思えなくもない。

 そのまま額に手を当て、メリーの状態を探る。

 思った通りだった。明らかにメリーの身体は熱を帯びていた。あの家から長時間歩いてきたにしては、頬が冷たくないのはおかしいと思ったのだ。

「お前、やっぱり熱あるだろ」

「え?」

「熱だよ、熱」

「別にこれぐらい、何でもないよ」

「何でもなくねーよ。確かにそんなに高熱ってわけじゃないけど十分熱いぞ」

「でも、40℃超えない限りは平熱だから大丈夫なんでしょ?」

「どれだけ体温高いんだ。そんなはずないだろ」

 どういう基準なんだ。それともこいつ、爬虫類並に体温が変動するのか? いやいや、流石にあり得ないだろ。

 ともかく、このままメリーを一人で帰すわけにはいかない。とはいえ、シフトじゃあと3時間もあるしな。

 仕方ない、正直に事情を説明して早退させてもらうしかないか。

「お前、ちょっとここで待ってろよ」

「う、うん」

 バックヤードを出て、チーフの元へと向かう。店内はすっかり落ち着いて、先ほど以上に緩やかな空気が流れている。

「すみません、チーフ」

「どうした? まだ休憩取ってていいぞ」

「いや、実はですね、ちょっと説明し辛いんですが、俺、今親戚の子を預かってまして」

「ん? それで?」

「その子が何故か今、店に来ちゃってるんですよ」

「え、なんで?」

「それが、留守番させてたんですが、俺に会いに来たみたいで……」

「へー。それで、今どこにいるんだ?」

「休憩室にいます。どうやら俺を探して、裏口から勝手に入っちゃったみたいです」

「ははは、マジで?」

「はい」

 チーフが愉快そうに笑った。この店のセキュリティとか、不法侵入の件とかはどうでもいいらしく、物珍しい状況をただ楽しんでるようだった。学校に迷い犬が入ってきたときのような、そんな緩い反応だ。

「しかし、さすがにバックヤードにいさせるのは良くないな。奢ってやるから客席でパフェでも食わせてやればどうだ?」

「いや、それが結構薄着で長時間歩いてきたせいか、熱があるみたいなんですよ。それで出来れば……」

「あぁ、そういうことか。それだったらもう上がってもいいぞ。この後も夕食時まで暇だろうしな」

「すみません、ありがとうございます!」

「で、その侵入者はどんな顔してるのかな?」

 そう言うと、チーフは休憩室の方へとスタスタ向かっていった。

 メリーの容姿を見たら、少しばかり驚くかも知れない。外人云々も然ることながら、サイズとか整った顔立ちとかで。

 後ろから着いていくと、チーフはバックヤードの入り口に手をかけ陽気な声で飛び出した。

「こんにちわー、……ってあれ?」

 チーフが明るい挨拶と共に休憩室へと入っていったが、直後疑問を浮かべる。

「どうしたんですか?」

「誰もいないよ?」

「え!?」

 俺も入口へ駆け寄り、休憩室の中を覗くが、そこには確かに誰もいなかった。

「あいつ、待ってろって言ったのに!! す、すみませんチーフ! 落ち着きのない奴で」

 辺りをキョロキョロと見渡すが、ガランとした空間には、机やテーブル、備品の積んだ棚ぐらいしかなく、いかに小さいメリーとはいえ、どこかに隠れるということは出来そうになかった。

「……っていうか、何ちゃっかり俺のリゾット食ってんだよ!!」

 見ると、机の上に置いてあった賄いの皿が空になっていた。猫だの犬だのと言ったが、前言撤回だ。この食い意地の張り方はネズミが正しい。

「うーん、っていうか本当にいたの?」

「え? いや、居たに決まってるじゃないですか! 身長134㎝ぐらいで、 ちょっと傷んでますが淡い金髪のストレート、藍色の瞳で、真っ白い肌の人形みたいに顔が整った女の子ですよ!」

「……そうか」

「ハッ」

 ――まずい。しまった。やらかした。

 昨日スーパーで店員に訝しがられたことが脳裏によぎる。

 チーフと目線を合わせると、その目は、何か可哀想なものを見るようなものになっていた。明らかにあらぬ誤解を与えてしまっている。

「い、いや、チーフ、本当に」

「うん、取り合えず今日はもう帰って大丈夫だぞ。ごめんな、最近シフト入れ過ぎてたみたいで。来月は少し減らすようにするから」

「ち、違うんですってチーフ」

「あー、その、なんだ。脳内の金髪美少女の彼女によろしく」

 そう言い残すと、チーフは『学生は大変なんだな』と呟きながら休憩室から出ていった。俺の弁解の言葉を聞くこともなく、機敏な動きで取り付く島もなかった。

 俺はさながら、真っ白な灰になったボクサーのように、ガックリと椅子へ腰を下ろした。

 軽く社会的に死にかけてる。そんな気がした。

 すると、休憩室の入口から、誤解の種、冤罪の元凶、濡れ衣を羽織らせたメリーが入ってきた。

「もう、なんなんだよお前……」

 チラッとメリーの方を確認すると、力なく呟く。こいつのせいでここ数日、俺の不審者としての株はストップ高を更新し続けている。

 メリーが何か言いたげにオズオズと近づいてくる。そしてすぐ側まで近付くと、耳元で囁いた。

「わ、私メリーさん、今、あの、その、お兄ちゃんと、恋仲にあるの?」

「……はぁ」

 先ほどのチーフの『金髪美少女の彼女』という言葉を盗み聞きしていたらしく、何故か一人で照れるようにしているが、もはや怒る気にもなれず力なくため息を吐く。というか誰もいないのに何故ヒソヒソ話しなんだ。

 そして恋仲ってお前、いつの時代の人間だよ。

 こいつの言動は何かと偏ってる。おそらく知識もだけど。

 そういえば昨日のゲームセンターでクイズゲームをやらせたときも、一般教養は年相応、というか結構出来そうな感じはあったが、雑学分野がほぼ壊滅的で、世間話が成り立ちそうにないレベルだった。

「まぁいい、取り敢えず帰るぞ。俺の上着貸してやるから着てけ」

「え? でもそれだとお兄ちゃん寒いよ」

「俺はこれ着てくから大丈夫だ」

 休憩室のロッカーの中に入っていたパーカーを取り出しながらそう告げる。冬場は寒いので、休憩中用に上着を置いておく人が多く、俺もその一人だった。

「ほら、着とけ」

「あ、ありがと」

 メリーが何かはにかむ様にして受け取った上着を抱きしめている。羽織れって言ってんのにこいつは分かっていないんだろうか。

 取り敢えず俺が着替えないことには出られないので、そんなメリーを余所に更衣室へと入り、ユニフォームから私服へと着替える。

 更衣室から出ると、メリーはちゃんと上着を羽織っていた。やっぱり寒かったのだろうか。手の出ない袖で腕を組み、俯いている。

「だ、大丈夫か? やっぱり寒いのか?」

 すると、メリーは首を左右へ振り、『お兄ちゃんの匂いがする』と顔を綻ばせた。

 ふへへ、と、例の緩んだ笑い声を洩らし、小さく丸まっている。

「……お前さ、流石にそれは俺も照れるよ」

 メリーの頭に手を乗せ、やれやれと呟く。

 しかし、ずいぶんと懐かれたもんだな。確かに小さい頃はよくくっ付いてきてたけど、あれから何年も経ってるし、再会してまだ二日だ。この警戒心のなさは色々と将来を心配にさせるな。

「さ、早いところ帰るぞ」

「うん」

 だけど今はそんな心配より体調の心配だ。こいつは平気そうにしてるけど、子供ってのはただでさえ熱に鈍感なところがあるからな。

 裏口から出るとき、チーフにメリーを見せて弁解することが頭に過ったが、メリーの赤い顔を見て少しでも早く帰ることにした。

 昨日と同じように自転車の荷台にメリーを座らせ、自宅へと向かう。

「しかしお前、本当によく来れたな。どれぐらいかかったんだ?」

「えー?」

 後部のメリーに問いかけるが、上着のフードを被ってるせいか、いまいち聞こえにくいらしい。

 もう一度、少し聞こえやすいように首を捻って、大きめの声で問いかける。

「だからー、店に来るまでどれぐらいかかったんだーって」

「うーん、分かんなーい」

 メリーもやや大きめの声で返してくる。しかし分からなくて当たり前か。長時間歩いてると時間の感覚って分かり辛いもんな。俺みたいに自転車で通い慣れてたら別だろうけど。

「じゃあ、何時ぐらいに家出たんだー?」

「えーとね、10時ぐらいー」

 思わずブレーキを握ってしまった。金きり音と共に自転車が止まり、勢いでメリーが俺の背中に突っ込んでくる。

「じゅ、10時!? お前、4時間以上かかってるじゃねぇか!!」

「えへへ、少し迷っちゃいました」

「全然少しじゃねーよ!! 風邪ひくに決まってんだろ!」

 今より厚着とはいえ、あんな遠くから俺を訪ねてきたぐらいなのに、この程度で風邪をひくのはおかしいと思ったが、まさか4時間もかかっていたとは。というかこいつ、こんな調子でよく俺の家にたどり着けたな。

「お前、じゃあ昼飯も」

「食べてないです」

「だからリゾット盗み食いしたのか」

 呆れた奴だ。食い意地が張ってたというより、単純に空腹のうえ、体力もなく、ギリギリの状態でたどり着いたってことじゃないか。この年で刹那的に生き過ぎだろ。

「お前は、今後一切俺の許可なく外出するな」

「えー」

「えー、じゃねぇよ!! 事故にでも遭ったらどうすんだ!!」

「やだなぁお兄ちゃん、私そんなに子供じゃないよ」

「大人はそんな無謀じゃねぇんだよ」

 確かに今度中学生になる子に外出の制限をするのは過保護な感じはするが、メリーにおいては決して過剰な対処とは思えなかった。一般的な常識に欠けるこいつを野放しにするのは、完全にまずい気がする。

「取り合えずコンビニ寄るぞ。マスクとか色々買わないと」

「別に大丈夫だよ」

「飯もいらないのか?」

「行く!!」

 リゾットは俺が半分以上食べていたので、予想通りメリーの腹は満たされていないようだった。また、奪われた俺自身も小腹が減っていたので、何か買う必要があった。

 家の近くのコンビニに着くと、メリーは風邪だというのに危なげない足取りで店に入り、普通にコンビニ弁当を物色し始めた。そして、照り焼き弁当に目を付けると、それを手に取った。

「待て待て待て。そんな消化に悪そうなもの食おうとするな」

「え?」

「世の中にはだな、体調が悪いときに食べるお粥というものがある」

「何それ、おいしいの?」

「うーん、若干さっき食べたリゾットってやつに似てるかな?」

「じゃあそれにする!」

 さっき食べたリゾットが余程美味かったのか、メリーは二つ返事で俺の提案を肯定した。実際にはお粥とリゾットは調理過程からしてまったくの別物なんだが、米を使っているというところで似通ってはいるし、特にそれ以上の説明はしなかった。

 その他に、俺の夕飯用の弁当や幾つかの商品を買物カゴに入れると、そのままレジに通した。細々とはしてるが、また出費が積み重なる現実に俺は目を背けることにした。

 店から出ると、取り合えずメリーにマスクを着けさせる。しかし、メリーの顔が小さすぎるため、顔の半分がすっぽりと隠れてしまった。まぁ、暖かそうでいいだろう。

 メリーは『給食当番みたいだね』と言っていたが、本来の用途はこちらの方がポピュラーであることを教えておいた。

 家に帰ると、メリーはベッドへと駆け寄り、そのまま倒れこんだ。

「おい、大丈夫か!?」

 心配になって覗き込むと、どうやら熱というよりは疲労が原因のようだった。

「私メリーさん、今体力の限界にあるの」

「4時間以上も歩けば当たり前だ。横になる前に手洗いとうがいしろ」

 横になったメリーのわきを抱えて持ち上げてやり、台所へと促したが、ふざけて俺に寄りかかってきたため、しょうがなくそのまま引きずって水場へと立たせる。

「あと、ちゃんと着替えてから横になれよ。今お湯でタオル絞ってやるから汗も拭いとけ」

「お兄ちゃん、ママみたいだね」

 メリーがニコニコしながら呟く。それは無邪気な感想だったのだろうが、両親を亡くしたメリーの口から聞くと、何だかいたたまれないような複雑な気持ちになった。同時にメリーの母親の顔をおぼろげながら思い出す。

「……あんなに綺麗じゃねぇよ」

「え、なに?」

 俺の言葉は耳に届いていなかったらしく、メリーが手を洗いながら振り向く。その顔は、はっきりと思い出せないものの、やはりメリーの母親のそれと似ている気がした。

「いや、何でもない。ちゃんとうがいもしろよ」

「はーい」

 メリーが手洗いうがいを済ませると、俺も同じように風邪の予防対策を済ませマスクをかける。勿体ないのでメリー用に買ったマスクを俺も使うことにしたが、俺には少し小さく感じた。

 タオルを熱めのお湯で絞り、洗面器と共に部屋へ持っていく。立ち上る湯気が乾燥した部屋の湿度を上げ、少しだけ呼吸がしやすくなったように錯覚する。一人では加湿などに気を使うことはなかったが、今日は濡れたタオルでも部屋の中に吊り下げようと思った。

 メリーにタオルを手渡すと、俺は昼飯の補填をするため台所へと移動した。しかし、皿に粥をあけレンジに入れたところで部屋から「お兄ちゃん、こっち来てー」と呼び出された。

 扉を開けると、ベッドの上にいる半裸のメリーが、背を向けたまま首だけ振り返って呟いた。

「せ、背中うまく拭けない」

「嘘付くな」

 そう言い残して扉をピシャリと閉める。

 お前は風呂でどうやって体を洗ってるんだ。そう心の中で一人ごちた。しかし、扉が思ったよりいい音で閉まってしまったため、若干の心苦しさを感じる。そーっと扉を開けメリーを覗き見ると、案の定分かりやすくベッドに手を付きうな垂れていた。

 仕方なくメリーの後ろまで歩み寄り、タオルをひったくる。そろそろこういったことにも慣れてきたところだ。別に今さら断る理由もない。

「ふぇ!?」

「こっち向くな。背中向けろ」

「は、はい」

 メリーが慌てるように背を向け、服を手繰り寄せて抱きしめる。少しだけ猫背になった背中を拭き取るため、タオルをたたんで汗を拭う。

 ――透き通るような白い背中に、幾つかの青や黄色の痣。

 何度見ても胸が詰まるような気持ちにさせられる。

 それとは別に、芸術品を悪戯に汚されたような憤りに近い感情が沸いてくる。

 昨日のメリーとの会話が頭をよぎる。メリーはこの傷の原因を話すことを拒絶した。どういった理由なのかは分からない。

 ただ、それでもメリーはこうして無邪気に甘えてくる。

 それに少しばかり救われている自分がいた。

 悪態はついてしまうけど、ささやかながらこいつのために何かしてやれることが嬉しかった。

「ほら、終わったぞ」

「……う、うん」

「あれ、お前さっきより熱出てないか?」

 マスクをしていて分かりにくくはあるが、先ほどより顔が赤い気がした。額に手を当ててみると、明らかに先ほどより手に伝わってくる体温は高かった。

「熱が上がってるな。すぐ服着て横になってろ」

「だ、大丈夫! そういうのじゃないから!」

「は? よく分からないけど取り合えず寝てろ。今お粥温めてやるから」

 台所へと戻り、粥を入れたままのレンジのタイマーをひねる。

 メリーの方を見ると、もそもそと服を着て大人しく布団を被っていた。ふざけたり甘える元気はあるらしいが、やはり体力を消耗しているのだろう。

 2分ほどで、レンジは小気味良い音を立てて粥が温まったことを知らせてくれた。

 器がかなり熱くなっていたので、部屋にあった雑誌をトレー代わりにし、メリーの元へと運ぶ。

「熱くなってるから気を付けて食えよ」

 メリーが無言で頷いて雑誌ごとお粥を受け取る。

 スプーンを口元へと持っていき、冷まそうと息を吹きかけるのだが、その光景はずいぶんと滑稽だった。

「マスク外せ。どうやって食うつもりだ」

 俺に指摘されずとも気付いたのだろう、言い終わる前にメリーはマスクを外していた。さっきと同じように顔が赤くなっている。

 すると、恥ずかしかったのか今度は焦るようにスプーンを口へと運んだ。相当熱かったのか体をビクつかせ口を押さえる。

「冷ませよ。なんでお前は指摘すると一つ前のことを忘れるんだ。鳥か何かか」

「わ、わたひめりーひゃん、い、いま、あついの!」

「そのまんまじゃねーか。ちょっと待ってろ水持ってきてやるから」

 かなり熱かったらしく、いつも変な言い回しをする口癖さえ何一つ捻れていなかった。

 水を持ってきて、コップを渡し、代わりにしょうがなく粥の入った器をメリーから受け取る。

 適量を掬い、十分に冷ましてからメリーの口へとスプーンを運んだ。

「ほら、口開けろ」

「は、はい」

 メリーの顔がまた赤くなる。どうやら照れているらしい。こっちはというと、人生初めての『あーん(する方)』に感慨は何一つなく、どちらかと言うと、生まれたての動物の赤ん坊に餌をあげるようなそんな朗らかな気分になった。

 しかし、3杯目をメリーの口に運んだところで、何か物言いたげに俺をじっと見上げてきた。

「どうした? 熱かったか?」

 メリーが首を振る。確かに熱いわけはない。徐々に冷めつつあるわけだし、十分冷ましてから口に運んでるし。

「じゃあなんだよ?」

「……あの、あのね。その、何ていうか、その」

「だから何なんだよ?」

「あの、……あんまり、おいしくないの」

「……」

 何だろう、本来イラッとくる場面のはずなんだが、あまりにもメリーが言いづらそうに、申し訳なさそうに訴えてくるので、逆にこちらが悪い気がしてしまった。

「そりゃ病人食だからな。それに所詮レトルトだし」

「そっか。じゃあ、しょうがないね。……うん、分かった」

「えーと」

 ……飯一つでそんなに落ち込むなよ。頼むよ。なんで俺が悪いみたいになってんだよ。確かにさっき先輩が作ってくれたリゾットと似てるとは言ったけど、コンビニのレトルト食品には明らかに荷が重いだろ。

 しかし、食べ物を食べてるこいつはいつも幸せそうなので、なかなか無下にもし難い。というか、過剰に期待させてしまった原因が俺にもあるため、若干の後ろめたさもあった。

「あー、ちょっと待ってろ」

 舌打ちしそうになる衝動を抑えて、器を持ち台所へと移動する。

 キッチンの下の収納から小鍋を取り出すと、コンロへ置きお粥を火にかける。そこへ、冷凍庫に保存しておいた生姜を包丁で削り入れ、卵を落とし、塩コショウ醤油で味を調え一煮立ちさせる。

 わずか5分の作業だ。この程度のことに気付かず、手を抜いた俺にも非はある。

 かき混ぜておじや風にすると、メリーの元へと再び運ぶ。調理中の匂いで再度食欲を刺激されたのか、メリーが二つの意味で熱い視線を送ってくる。口からはジュルリと音がなりそうなほどだ。

「出来たぞ。さらに熱いから今度こそ気をつけろよ」

 さすがに再度『あーん』はしてやる気にはなれなかった。先ほどと同じように、トレー代わりの雑誌ごと器をメリーへと渡す。

「い、いただきます!!」

 湯気がモウモウと立ち上るおじやもどきを受け取ると、メリーはガッとスプーンで掬い、そのまま勢いよく口へと放り込んだ。バカなのかこいつは。

「んふぅう!!」

「お前、学習しろよ!!」

 再度メリーが悶絶し口を押さえる。先ほどより熱そうなため、さすがに心配になってテーブルに置いておいた水を差しだした。

 しかしメリーが掴んだのは、コップではなくスプーンだった。顔をあげ、再びおじやを掬うと今度はキチンと息を吹きかけ冷ましてから口に入れた。

「お兄ちゃん、何これ、美味しい!」

「いや、卵と生姜入れて味濃くしただけだよ」

「すごいね、お兄ちゃん! 女子力高い!」

「ははは、ふざけんな。というか、なんでそんな言葉知ってる?」

 大学でも同じことを女子から言われたことがあるので、若干呆れた気持ちになった。この程度のことで女子力云々言われるのであれば、家事を毎日こなす世のお母様方は女子力53万ぐらいはゆうに超えそうだ。何なら3回ぐらいは変身を残しているだろう。

「取り合えず、早く食って寝ちまえ」

「でも眠くないよ?」

「まぁ、まだ夕方前だしな」

 メリーがおじやをパクつきながら答える。昨日あれだけあっさり寝てたし、この時間に寝ろというは確かに無理があるように思った。だいたい風邪のときってのは暇なもんなんだよな。大して興味もない番組眺めたり、一回見た漫画読み返したり、その癖人恋しかったり。

「じゃあ絵本でも読んでやろうか?」

「お兄ちゃん、流石に子供扱いし過ぎじゃない? だいたい絵本なんてあるの?」

「お前な、今はパソコンという文明の利器があるんだよ」

「なにそれ?」

「……冗談だろ?」

 こいつ、マジか。

 確かに俺も小学校低学年ぐらいの頃は何か仕事に使うやつぐらいの認識だったが、一家に一台は当たり前、小学生ですら携帯端末を使いこなすこのご時世に、まさかパソコンが分からない奴がいるとは。

 呆れを通り越して、ショックさえ受けている俺の表情を見て、流石にマズイと思ったのかメリーは取り繕うように弁解した。

「う、嘘だよ、知ってるよ! あれでしょ、外国行くときに必要なやつ!」

「は? ……っ、パスポートだろそれ!! 全然違ぇじゃねーか!! あまりに見当違いで一瞬分からなかっただろ!」

 頭文字が同じとかそういう問題ではなく、情状酌量の余地は一切ない完全なる別物であった。どうやら本気で知らないらしい。こいつ、戦後の人間か何かなのか。

「パソコンっていうのは、簡単に言えばコンピューターだよ」

「そ、それぐらい知ってるよ! お兄ちゃん私のことバカにしてるの!?」

「バカにしてるっていうか、世間知らずっていうか」

「で、コンピューターって結局なんなの?」

「ごめん、やっぱりただのバカだった」

 薄々気付いてはいたが、会話のテンポというか、コミュニケーションが基本的にずれてる気がする。それをバカとひと括りにするのはどうかと思うが、ここでこいつとバカの定義を議論しても不毛の一言に尽きるので会話の流れを戻すことにした。

 しかし、パソコンが何かと言われれば、用途が多岐に渡り過ぎているため、一概に説明し難いものがあった。

「えーとな、単純に言っちゃえば、人間の脳みそを機械化したようなもんだ」

「……? どゆこと?」

「例えば、お前何かを思い出そうとするとき、記憶を思い出そうとするだろ? それと同じで、このパソコンってのは、データがたくさんあって、そこから必要な内容を探して調べることが出来るんだ。あと、計算するときも頭の中で考えたり、紙に書いて計算するけど、それをこの機械の中で代わりにやってくれるんだ」

「よく分かんない」

「実際にやってみた方が早いか」

 大学に入るときに購入した比較的新しい型のノートパソコンをメリーの膝に置き、代わりに食べ終わったおじやの器を下げる。相変わらず小さいくせに食べるのが早いなと感心した。いや、消化に悪いし、今後はもっと良く噛んで食べるように教えないとダメか。そうしないと大きくなれないと言えば、おそらく素直に言うことを聞くだろう。

「何か見たことはあるよ?」

「そうか、そりゃそうだろうな」

 多分お前の親父さんが生きてるときに家にあったろうからな。でかい家だったし、仕事も忙しそうにしていたから、複数台あってもおかしくなかっただろう。

「お前、何か調べたいものとかないか? 何でもいいぞ」

「え? えーとね、うさぎ」

「うさぎね。了解っと」

 検索サイトを呼び出し、キーボードに手早く打ち込む。するとすぐに複数の情報や画像が出てきた。検索にかかった時間は0.22秒、該当データは46,200,000件。改めて科学の凄まじさを実感する。

「な、なにこれ?」

「全部うさぎに関してのことだよ。例えばほら、これなんかうさぎの飼い方とか生態とか色々書いてあるぞ。あとは、実際にうさぎの写真とか動画とか」

「か、可愛い! ちっちゃい!!」

 カーソルを動かし、幾つかのサイトへとアクセスする。一番メリーの目を引きそうな、うさぎの写真一覧を出すと、子ウサギの写真やら何やらがたくさん画面に表示された。見るからにモフモフしている。

「ようはこういう風に、自分が調べたいものとか、興味があるものの情報を世界中から集められるんだよ。あとはさっき言った通り、代わりに計算してくれたり、ノートの代わりになったり、この機械上で図を書いたり、ま、色んなことが出来るよ」

「……世界中」

 わりと衝撃的だったのか、メリーが呆けるように呟く。確かに俺も最初パソコンに触れたときは、その情報量に驚いたもんだが。

「これ、何でも調べられるの?」

「まぁ大体のことはな。石を金に変えるとか、人の蘇生方法とか、そういう無茶なこと以外だったらおおよそは載ってるよ」

「すごいね」

「そうだな。人間ってのはすげーよな」

 掛け値なしにそう思う。先代の知識や技術の積み重ねとはいえ、もし人類の始祖が全員俺ならば、おそらく世の中は未だに弥生時代で止まっていると思う。

「これって私でも使えるの?」

「もちろん。教えてやろうか?」

 メリーは珍しくはしゃぐわけでもふざけるわけでもなく、純粋に興味を示しているようだった。その無垢な好奇心がどことなく可愛らしく思え、俺は素直に教えてやることにした。

 意外なことにメリーは驚くほど飲み込みが早く、ローマ字はもとから分かっているようだったので、パソコンの立ち上げから動画サイトの見方やインターネットの検索方法はすぐに覚えてしまった。俺が説明するとその度何度も頷き、画面を食い入るように見つめていた。

 二人で画面を覗きこみながら、メリーの興味のあることを聞き、色んなことを調べる。といっても主に、食べ物や動物のことだったが。

 地図上で実際の現地を見て回れるサービスを教えてやると、素直に感動しているようだった。本人は行ったことがないかも知れないので、メリーの母親の国の様子も見せてやる。メリーは感慨深そうに、綺麗なところだねと、ママはここから来たんだねと微笑んだ。俺は実際にメリーの母親がどの街に住んでいたかは知らないが、その様子を見て無言で頷いた。

 気付くと机の上の時計の針は9時を指していて、窓の外はすっかりと暗くなっていた。メリーの反応が良いので、ついつい色んなものを調べ過ぎてしまった。今日だけで自分の中の雑学が10は増えた気がする。

 メリーは慣れないことで少し疲れたのか、或いは熱で体が弱っているせいか、若干ポーっとしているように見えた。そろそろ横になるように促すが、寝ることは頑なに拒否し、まだ二人でパソコンを見たいとねだってくる。

「ダメだ。あんまり長く見てると、目も頭も悪くなるぞ」

「あ、頭も!?」

「そうだ。ついでに身長も低くなる」

「えぇっ!?」

「だから寝なくてもいいから、取り合えず横になれ」

「う、うん。怖いんだね、パソコン」

「そうだ、恐ろしいものなんだ。あんまり長いこと使ってるとな、毎日パソコンしなきゃならない呪いがかかるんだ」

「呪い!?」

「そう、呪い。だから、俺がいないときは適当に使っていいけど、定期的に休憩しなきゃダメだ。あと、変な警告が出たりしたときはそのサイトは見たりするなよ。呪われるからな」

「わ、分かりました」

 そう言うと、メリーは大人しく布団をかぶり横になった。俺は結局家に帰ってから何も食べていなかったため腹が減っており、買ってきたうどんを調理するため台所へ移動した。消化にいいし、メリーにも少し食べさせてから寝かせようと思った。

 メリーは実際にまだ寝るのには早いのだろう。虚ろながら目を開け、TVをボーっと眺めている。地上波のアンテナを設置した古めのブラウン管には幾度となくみた国民的アニメの映画ロードショーが流れており、部屋からはその音が聞こえてきた。さっきパソコンで調べていたとき、たまたま今日放映されると知ったので、そのままチャンネルを合わせたのだった。

 うどんはあっという間に出来たため、メリーと二人で食べながら映画を漫然と眺める。この手の映画ってのは、不思議なもので内容はすべて分かっているはずなのに最後まで見れてしまう。やはりその辺りが名作と呼ばれる所以なのかも知れない。

 映画も終わりに近付き、ふとメリーを見ると、眠気に誘われてるのかウトウトとしていた。

「眠いか?」

 メリーが目をシパシパさせながら首を横に振る。

「嘘付け」

 何で子供ってのは眠いのに寝たがらないだろうな。まぁ大人も同じようなもんだけど。

「……お兄ちゃん、あの二人は死んじゃったの?」

 メリーが少しだけ声をガラつかせながら、マスク越しにか細い声で呟く。

 おそらくさっきパソコンで見た噂のことだろう。この手の古いアニメなどには、後付け的に都市伝説のような尾ひれが付くことが多い。

 虚ろな目で俺を見つめながら、メリーはなおも尋ねてくる。

「死んじゃったってことは、もうどこにもいないの?」

 確かに、その噂が事実なのならば、非常に悲しい話になってしまう。誰とも会えないし、誰にも気付いてもらえない。それは確かに生きてる者からすればどこにもいないということになるのかも知れない。

 メリーの顔を覗きこむと、もう半分寝ているような状態だった。

「そんなことないよ。死んでないし、ちゃんとお母さんにも会えたんだと思うよ」

 俺はメリーの頭を撫でながら語りかけた。額にかかった細い髪がそれに合わせて揺れる。

 初めてかも知れない。ここまで人に優しくしたいと思ったのは。

「そう。良かったね……」

 メリーの声はもはや寝言に近かったが、そこには安堵の色があった。

 そのままスースーと寝息を立て始めたのを確認して、俺は頭から手を離した。

 TVを消して、照明を一段階暗くする。加湿するためにハンガーへと掛けたタオルがエアコンの風に煽られ、落とした影もユラユラと揺れていた。

 それを目で追いながらベッドに寄りかかると、メリーの体調を気にかけながら、俺は今後どうするべきなのかをボンヤリと考えた。


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