邪神様とピンチ
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──邪神様とピンチ
何かがいると言ったフェリクス。
「何かと言いますと、何です?」
「静かに」
私が尋ねるも怒られました。
フェリクスは警戒した様子で進み続け、そして不意に立ち止まった。そして、私にも神前にいるものが見えた。それは他でもなく私が知っている人であった。
「おやおや。そのようなか細い光を頼りにこのような暗闇を進むのか。何と無力で、何と愚かなことだろうか。光は闇を照らし出すのには非力で、逆に闇に潜むものに己の存在を知らせるだけだというのに」
そうくつくつと笑うのは、クラウディアさんだ。彼女がこの地下神殿にいた。
「誰だ、お前は」
フェリクスが身構えてそう尋ねる。
「この地下神殿を築いた魔女のひとり、とでも言っておこうか」
「この地で悪魔崇拝が行われていたのは500年以上昔だ」
「たったの500年程度でそこまで驚くのか?」
フェリクスの言葉にクラウディアさんが嘲るように笑う。
「この宇宙が生まれ、生命がこの星に宿った時間を考えれば500年など数秒にも満たない時間だ。なのにお前は500年がまるで永遠の時間であるかのように語る。愚かしい、愚かしい。実に愚かだ」
「黙れ。人間の時間ならば500年は永遠に等しい。少なくとも個人が生きられる時間としては500年は膨大な時間だ」
「ふふ。ただの人間個人に何の価値がある? お前は何かを語る時に、羽虫の価値観を考慮するのか?」
「羽虫だと」
「自らが羽虫にすら満たないことを知らない愚かな存在だよ、お前は」
何か言い合っているが、言葉のドッジボールになっている気がします。
「人間は自分たちのみが高度な文明を築いたと思い込んでいる。自らがこの星の頂点に立っているのだと。自らの信仰は正しく、他は異端であり、分裂病患者の妄想だと思い込んでいる。実に愚かしい」
クラウディアさんはそう言って笑うが、その目の焦点はフェリクスに定まってはいない。彼女は虚空を見ながらそう語っている。
「この場所で悪魔を崇めていたのか?」
「崇める? やはり、その程度の理解か。この場を見て崇めるなどというのは」
「お前は悪魔崇拝者なのだろう。カルトの信仰者だ」
フェリクスが断定するように言うが、クラウディアさんはフェリクスなど眼中にないと言うように冒涜的な偶像を見上げる。
「我々は彼ら上位者を崇めたいのではない。崇めるというのは己の無知への降伏だ。我々は知りたいのだ。理解したいのだ。彼ら上位者の意志を、思考を、価値観を、彼らを包む秘匿されたヴェールの向こう側を。まだ見ぬものを見て、まだ感じぬものを感じ、まだ得ぬ知識を得るのだ。冒涜的な事実を、目を閉じても感じる闇を、夢の中に潜む存在を、ひひっひひはははっ!」
狂った笑みを浮かべるクラウディアさん。
「狂ってる」
フェリクスはそう吐き捨てた。
「狂っている? どちらがだ? 無知で下等な肉塊であることを幸せに思っているお前のことか? それとどのような犠牲を払おうと知を求める私のことか? 誰が我々が正気であると保証してくれるのだ?」
クラウディアさんはフェリクスをせせら笑い、神殿の奥に進んでいく。
「待て。この場所について知っていることを──」
「肉は肉に。我がしもべに食らい殺されるがいい」
フェリクスがクラウディアさんを追おうとしたとき、何かが暗闇から這いずってきた。粘着質な音が、水分を含む何かが蠢くような音が、そしてかすかに何かを唱えるようなささやきが聞こえてくる。
「フェリクス様! 下がってください!」
危険を察知した私がフェリクスがクラウディアさんを追おうとするのを抱き着いて止め、後ろに引っ張る。
「アア、アア、アア……! ワレワレハ、ワレワレハ、ワレワレハ……」
人間のような声を発して現れたのは、巨大な肉塊だった。赤黒い肉塊から触手がぬらりと形成されて蠢き、濁った眼球がいくつも肉塊の表面に浮かんでいる。その肉塊から人間の声がするのである。
これは紛うことなき化け物だ。
「これは……!」
フェリクスが恐怖を示し、私を庇いながら後ずさる。
「に、逃げましょう、フェリクス様!」
「だが、逃げ切れるか……!?」
私には分かってしまった。
あの肉塊はここで祈りをささげていた崇拝者たちの成れの果てだ。私のような人間に非ざる上位の存在になろうとして同胞を、自らを実験台にした末路だ。彼らは人間より聡明で、頑丈で、神秘的な存在になろうとして、ああなった。
どういうわけかそういうおぞましい事実を理解しても、私は平気だった。見た目のグロさにはうんざりさせられるが、正気を失うようなことはない。
……あるいは私はずっと狂気の中で生きていて、最初から正気ではないのか……。
「逃げられます! 早く、フェリクス様! 急いで!」
「くっ!」
フェリクスがこの状況で正気を失わないように声をかけながら、私たちは下ってきた階段を目指して走る。
肉塊は粘着質な音と人間のささやきを響かせながら、私たちを追ってくる。それもかなりの速度でである。触手はフェリクスを掴もうとして伸びるが、今はまだ届いていない。しかし、それも時間の問題だ。
「はあはあはあっ! あれは、あれは何なんだ!? 何故あの肉塊から人間の声が!」
既にフェリクスは正気を失いかけていて、足取りがおぼつかない。
このままじゃ追いつかれる!
「フェリクス様。少し目を閉じていてください」
「何を──」
私は手袋を外し、フェリクスにそう言い放つ。フェリクスは何が起きているか理解していないが、それこそが彼が正気でいるために必要なことだ。
無知はときとして救いなのです。
「私のような存在になろうとして、その醜い姿になったとは。本当に愚かです」
私は迫りくる肉塊の化け物を相手に手袋を外した手を伸ばす。
「平伏せ」
そして私の手が肉塊の触手に触れたとき私がそう命じる。
「アア、アア、アア、アア! アア、アア、アア! カミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマカミサマ!」
肉塊から聞こえていた人間のささやきが、叫びに代わった。
ぐねぐねと肉塊の化け物は蠢き、それから触手が先端から腐り落ちていく。私に触れた部分から腐り落ちて、異臭を放ちながら肉塊が瓦解していく。
朽ちていく。腐っていく。死んでいく。
残されたのは化け物だった肉塊の腐乱死体。それすらも溶け始め、その形を失いつつあった。辺りには腐臭が満ちて、酸が発するような化学薬品臭も漂っている。
「……本当に愚かだった……」
彼らを実験台にしたのはクラウディアさんも含まれるだろう。彼女にとって失敗作であった彼らだがこの場所を守るための番犬にはなっていた、と言うところに違いない。
「フェリクス様」
私は肉塊の化け物が無力化されたのを確認してからフェリクスの下に歩みよった。
「人間の声がした。人間の声が。あの化け物から、おぞましい肉の塊から確かに人間の声がしたのだ。そんなはずはない。そんなことがあっていいはずがない。こんなことが神がお許しにならない。だが、だが、あれがもし人間の成れの果てだったとしたら……そんなのはおぞましすぎる……! 誰がこのようなことを……!?」
フェリクスは頭を押さえ、そう何度も呟き続けていた。
不味いです。フェリクスがついに狂気の縁に立ってしまっている。このまま放置すれば彼も自殺未遂を起こして精神病院送りだろう。
私の知人──クラウディアさんがやったことだけに責任を感じる。
「フェリクス様。私を見てください」
フェリクスの両頬を私は手で包んで言う。
フェリクスの焦点の合わない瞳が私の方をゆっくりと捉え始めた。
「ここには何もなかったんですよ。何もなかった。いたのはネズミだけ。それだけで、怖いものは何も存在しなかった。そうなんですよ」
「何もいなかった……?」
「どこにも怖いものなんていない。お化けも、魔女も、怪物もいない。世界はいつだって正常で正しく、狂ってなどいない。そうなんですよ、フェリクス様」
「世界は正常……」
そうとまで聞き、ようやく目の焦点が合いかけたところで、フェリクスがついに気を失った。ごとんと階段に身を横たえ、苦しそうに息をしている。
「ここに置いていくわけにはいきませんよね」
とはいっても抱えていくには重すぎる。
「目が覚めるまで待ちますか」
私は倒れたフェリクスの隣に座り、彼が目を覚ますのを暗闇の中で待った。
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