第4話 その夜、名前はまだ守られていた
集落を出てしばらく歩いたところで、セリアが足を止めた。
「ここまででいい」
朝の霧が、まだ地面に薄く残っている。
風に乗って、湿った土と薬草の匂いが混じっていた。
「本当は、森の縁を見て回るだけのつもりだったの」
セリアは腰の鞄から、干からびかけた葉を一枚取り出した。
「これ。昨日までは、もっと張りがあった」
指で触れると、葉は簡単に裂けた。
生命力が、抜けている。
「魔力が荒れると、こうなる。
地下を動く魔物が近い時の兆候」
なるほど、と納得する。
治療役は、戦わなくても“異変”を読む。
地面に目を凝らすと、露が不自然に揺れていた。
風もないのに、円を描くように、微かに波打っている。
――確かに、何かいる。
「だから、あなたについてきたわけじゃない」
セリアは、きっぱり言った。
「たまたま、行動範囲が重なっただけ。
でも、このまま戻ったら……」
視線の先は、集落の方角。
「夜には、あっちに出る」
幼いドラゴンが、低く唸った。
尾が地面を叩き、警戒を示す。
俺は剣を握り直す。
「戻れ」
「……それは無理」
セリアは、視線を逸らさなかった。
「見つけた以上、放っておけない」
森の奥で、**どん……**と、低い振動が響いた。
音ではなく、足裏に直接伝わる重さ。
次の瞬間、木々の影が歪む。
現れたのは、人の形に近い石の塊だった。
表情はなく、関節の隙間から黒い靄が漏れている。
地面に足を下ろすたび、**どん、どん**と土が沈む。
石骸兵。
「……やっぱり」
セリアが短く息を吐いた。
「視線、合ってるのに反応が遅い。
音か、魔力に引き寄せられてる」
つまり――
目は見えているが、判断が鈍い。
「私が囮になる」
「無茶だ」
「追われるだけ。触れなければ、問題ない」
理屈は通っている。
だが、成功する保証はない。
石骸兵が動いた。
**どん――っ!**
一歩で、地面が跳ねる。
振り下ろされた腕を避けると、背後の木が**がんっ**と砕けた。
息が詰まる。
――今の俺じゃ、決めきれない。
それでも、戦うしかない。
幼いドラゴンが、**ぎゃっ**と鳴いて飛びかかった。
小さな体当たり。
ほんの一瞬、石骸兵の動きが止まる。
「今だ!」
――《裂剣・一文字》。
刃が、関節の隙間を滑る。
**がりっ**という嫌な感触。
浅い。
石骸兵の反撃。
衝撃で、体が弾かれる。
視界が揺れ、膝が軋む。
その瞬間、胸の奥で理解する。
**この戦いを生き延びたら、
今夜、俺は“何か”を捨てることになる。**
だが――
**今は捨てられない。**
それは、ルールだ。
力は、夜にしか得られない。
「――生きて!」
セリアの声。
必死で叫ぶ。
そして、
**俺の名前を呼んだ。**
音だけが、胸に落ちる。
意味は分かっている。
だが――なぜ、こんなにも胸が痛むのか。
その理由だけが、分からない。
幼いドラゴンが、首を振って鳴いた。
否定。
やめろ、という意思。
「……守る」
誰にともなく呟く。
石骸兵が、再び腕を振り上げる。
「今……!」
セリアが、両手を伸ばした。
淡い光。
治癒魔法。
だが、それは俺ではなく――
**剣へと流れ込んだ。**
「石骸兵は、生き物じゃない。
魔力の残り火で動いてる。
治癒は、それを鎮められる」
刃が、熱を帯びる。
「切るんじゃない。ほどくの」
踏み込む。
剣を突き立てる。
**ずん――っ!!**
関節が砕け、
石骸兵が崩れ落ちる。
黒い靄が、霧のように消えた。
静寂。
荒い呼吸。
生きている。
――捨てていない。
夜。
焚き火の火が、小さく弾ける音だけが続いていた。
幼いドラゴンは、すでに俺の膝の上で丸くなり、規則正しい呼吸をしている。
その体温が、まだここに“生き延びた現実”を繋ぎ止めていた。
セリアが、火を見つめたまま口を開く。
「……ねえ」
視線は合わせない。
けれど、声だけははっきりしていた。
「あなたの名前、聞いていい?」
胸の奥が、きしりと鳴った。
それは“忘れている”からじゃない。
むしろ逆だ。
**あまりにも、はっきり残っているからだ。**
俺は、ゆっくり首を振った。
「今は……触れないでほしい」
拒絶ではない。
先延ばしでもない。
**今ここで言葉にした瞬間、
それ自体が“失う前提の記憶”になる。**
それが、分かっていた。
セリアはすぐには答えなかった。
焚き火の火が、ぱち、と音を立てる。
やがて、彼女は小さく息を吐き、うなずいた。
「分かった」
それだけ言って、話を終わらせるかと思った。
だが、続けて、静かに言う。
「でも……」
ほんの一拍、間を置いて。
「あなたを“呼んだ事実”は、
私の中に残す」
その言葉が、胸に落ちる。
名前は、共有されていない。
呼び方も、明かされていない。
それでも――
**“呼ばれた瞬間”だけが、彼女の中に残る。**
幼いドラゴンが、眠ったまま、わずかに尾を動かした。
――覚えている側が、また一人増えた。
俺は焚き火を見つめながら、静かに思う。
今日は、捨てなかった。
名前も、記憶も。
だが、この重さは――
**いつか、代償になる。**
それだけは、もう誤魔化せなかった。




