出陣の前夜
皇城、魔王灰塚の居室。
玉座に身を持たせた主を前に、戒閃はじっとその言葉を待っていた。
ほお杖をついた灰塚は、背もたれに深く体を沈め自堕落な様子で戒閃を見つめている。そして軽いため息と共に口を開く。
「お前はしばらくの間、この皇城に留まりなさい。勝手に動くことは許さないわ」
「分かりました……ですが――」
「口答えも、許さないわ」
「……御意に」
頭を下げはしたが、完全には不満の色を隠しきれない戒閃へ灰塚は告げる。
「なにも凱延の件をこのまま捨て置くと言ってるわけではない。グラシェールでの戦いが終わるまで待ちなさい」
グラシェール山頂付近から天へ屹立する光の柱が確認されて四日。そう時を置かずして戦神バイラウェに関する報告が届く頃合いだ。
「では、あのアルフラという娘に関しては?」
「それはまた別な話よ。……私だってそんな娘の命なんてどうなろうと知ったことではないけど……」
むしろ、灰塚にとってアルフラは非常に目障りである。
普段、周りの者に対して分け隔てなく無関心な白蓮が、あれほどまで気にかける人間の少女に嫉妬すら覚えている。
だが同時に、その少女の存在が白蓮の心を非常に大きな割合で占めているのだということも感じとっていた。
迂闊に関わると、恐ろしくまずい事態が引き起こされると直感が告げている。
白蓮が戒閃にとった態度から察するに、みずからの手の者がアルフラという少女に害を加えれば、自分にまでとんでもないとばっちりが来るだろう。灰塚はそう危惧していた。
ふたたび、大きくため息をついた灰塚へ、戒閃が遠慮がちに声をかける。
「灰塚さま?」
「なんでもないわ。お前はくれぐれも勝手な行動は慎みなさい。分かったならもう下がっていいわ」
「……かしこまりました。それでは失礼いたします」
退室する戒閃の背を見送り、灰塚は浮かない顔で立ち上がる。
日も傾き暗くなった部屋を出て、灰塚は白蓮の居室へと向かった。
その夜、以前に戦禍へ貸した魔導書をぱらぱらとめくっていた雷鴉は、皇城専属の料理人であるベルエイユの訪問を受けていた。
ベルエイユは大陸東部では珍しい西方魔族の青年である。
様々な料理の技術を身につけ、見聞を広めるため各地を旅していた変わり者だ。東方にはない料理の知識を数多く持つことを見込まれ、皇城に召し抱えられた才気溢れる料理人だった。
そのベルエイユが自信に満ちた表情で、手にした皿を雷鴉へと差し出した。
「ついに完成いたしました! 雷鴉様がかねてより望まれていた品を作ることが出来たと、私は自負しております」
「おおっ、そうか。ご苦労だったな。でも俺は甘い物はちょっとな。あまり食ったこともないし味もよく分からん」
雷鴉の手にした皿の上には、切り分けられた焼き菓子がちょこんと可愛らしく乗せられていた。
「そう言わず是非試食なされて下さい。万人に好まれるよう甘さは控え目となっています」
「そうか? じゃあ、まあ一口だけ……」
こんがりと焼き上がった甘い香りのするパイを雷鴉はすこしかじってみる。
「………………ッ!!」
口許をもぐもぐとさせた雷鴉の目が、カッと見開かれた。
「な、なんだこれはっ! うまい……うまいぞ――――っ!!」
ベルエイユの顔に笑みが広がる。
さらに一口かじった雷鴉が勢いよく玉座から立ち上がった。
「なんなんだこれはっ!? いままで経験したことのないサクサクとした食感。口の中でとろけるように広がる甘やかで優しい風味。それでいて決してしつこくはなく、微かな後味は尾を引くように更なる甘味を求めているかのようだ……」
「お気にめして頂けましたかな?」
「もちろんだ! 欲しがっている……俺の口はもっとこの菓子を欲しがっているぞっ!!」
雷鴉は残りをぺろりと一口で平らげてしまった。
「これはいったい何と言う菓子なんだ!?」
「持てる技術と経験の全てを注ぎ作り上げた新作です。私の最高傑作とも言えるでしょう。そうですね…………ミルフィーユ(千の葉)、と名付けましょう」
「みるふぃーゆ? 聞き慣れない響きだな。西方の言葉か?」
「はい。私達西方魔族の言葉でございます。共通語に訳しますと……雷鴉様を讃える千の言の葉(ウソ)といった意味になります」
「ほう、俺を讃える千の言の葉、か……」
雷鴉の口がにやりと緩まる。
「お前、なかなか分かってるな」
「恐縮です」
まんざらでもない様子の雷鴉に、ベルエイユは優雅な一礼をして見せる。
「このみるふぃーゆはまだあるのか?」
「はい、これとは別にワンホール用意してございますれば」
「そうか……」
やや締まりを失っていた雷鴉の口の端がゆっくりと持ち上がり、不敵な笑みが刻まれる。
「フッ、これでようやく……灰塚の吠え面が拝めそうだ」
「左様でございますな」
「クッ……ハハッ…………ハーハッハッハッッ!!」
魔王雷鴉の居室に、時ならぬ高笑いが響き渡った。
魅月が白蓮の部屋を訪れたとき、すでに室内には灰塚と傾国の姿があった。
二人は卓の前に腰掛けた白蓮の両側に陣取り、灰塚が持ち込んだ大量の菓子を楽しんでいた。
魅月は白蓮の右手に座る傾国へ険悪な目を向ける。
「ちょっとぉ、あなた新参者のくせにずうずうしいんじゃない? お姉さまの右隣りはあたしの席って前から決まってるのよっ」
「え……あの……」
「いいから早くお姉さまの隣を空けなさいよぉ」
「はぁ……わかりました」
おどおどとした様子の傾国は、言われるままに席を立つ。
魅月が自分の座っていた椅子に着くのを見て、傾国はその隣ではなく灰塚の左隣りへ移動して腰掛けた。
傾国がみずからの隣へやって来たことにすこし気をよくした灰塚は、その黒髪を撫でつつ魅月をたしなめる。
「魅月、すこし大人げないわよ。どこに座るかくらいでぐちぐち言うなんて」
「お言葉ですが、灰塚さまは傾国を甘やかしすぎですわぁ。子供だからといっても、その辺りはちゃんとわきまえさせないと。――ねぇ、お姉さまぁ」
それまで興味なさげに杯を傾けていた白蓮は、しな垂れかかろうと伸ばされた魅月の手を軽く身を引いてかわす。
つれない情人にめげることなく魅月は身を擦り寄せるが、白蓮は寝台の上以外ではあまり身体を触らせてくれない。
すこしムッとした魅月は、ふたたび傾国へ矛先を向け毒づく。
「だいたいあなた、お姉さまみたいなお綺麗な方を前にして、傾国だなんて大仰な名で呼ばれるのを恥ずかしくは思わないのぉ? 信じられない神経ね」
魅月から目線を逸らして縮こまる傾国へ、さらに毒が吐きかけられる。
「そういえばあなた、戴冠のときに号を改めてないのよね? いっそのこと傾国という名を変えなさいよ。その、どっちが胸か背中かわからないようなちんちくりんな身体に見合った名前がいいと思うわぁ」
小柄だがおうとつに富んだ胸部を強調するかのように、魅月は背を反らした。
灰塚の視線は思わず白蓮の薄い胸元へと向けられる。それに気づいた魅月が慌てて言いつくろった。
「あ、いえっ、あたしそんなつもりで言った訳じゃ……」
しかし、やはり白蓮はなんの興味もないらしく、無表情で手にした杯を卓に置く。
給仕のため後ろに控えていたウルスラが、空いた杯へ葡萄酒を注いだとき、扉が叩かれる音と共に高城の声が響いた。
「奥様、雷鴉様がお見えです」
「雷鴉が?」
微かに眉をひそめた白蓮へ、魅月が不快さもあらわに訴える。
「お姉さま、お会いになる必要ありませんわ。あいつったら最近はあの鬼族の女王なんかとよろしくやってて、どうせまた悪巧みでもしてるに違いないもの」
それをお前が言うのか、といった目が魅月へ向けられるが、もちろんそんなことは気にしない。
このところ雷鴉の部屋へ度々訪れる茨城のおかげで、魅月と雷鴉は冷戦状態だった。
「まぁ、確かに雷鴉は思っていた以上に油断のならない男だわ。私も東部では煮え湯を飲まされたものね。あんな奴とは関わりにならない方がよいですわ」
険しい顔で吐き捨てた灰塚へ、高城が雷鴉の用向きを伝える。
「それが……雷鴉様は、灰塚様へお渡ししたい品があるから取り次いでくれ、とおっしゃられております」
「私に?」
「はい。なんでも灰塚様を唸らせるような至極の逸品を持って来られたとか。――たいそうよい匂いのする菓子を持参されておりますようで」
「至極の逸品……」
灰塚の眉間に寄せられていたシワが一瞬で消える。すこしそわそわとした様子で白蓮の顔色を伺う。
「あ、あの……お姉さま」
「……しようがないわね。いいわ、通しておあげなさい」
「かしこまりました」
すぐに案内されて来た雷鴉は、なにやら自信に満ちた尊大な笑みを浮かべていた。そして手にした大皿をこれみよがしにちらつかせ、勿体振った口上を垂れる。
「灰塚ぁ、覚えてるか? 以前に俺が、必ずお前に一声唸らせるような菓子を持って来てやると言ったことを」
「そんなのいちいち覚えてないわ。いいから早くその至極の逸品とやらを見せてごらんなさいよっ!」
灰塚の目がくぎ付けとなった皿には、銀色のドームが被せてあって中身が見えない。だが、そこからは菓子に対しては舌の肥えた灰塚を期待させるに足る、甘くよい匂いが漂って来ていた。
傾国もよだれを垂らさんばかりの勢いで身を乗り出して皿を見つめている。
なかなかの食いつきに満足げな雷鴉が、高城へ皿を渡す。
「人数分切り分けて来てくれ。かなりでかいからウルスラやお前も味見してみるといい」
普段は道化めいた雰囲気を醸し出している雷鴉だったが、この時ばかりは絶対的な自信から来る余裕によって、中央の盟主に相応しい貫禄が見てとれた。
ぐびりと唾液を嚥下した灰塚の期待が、否が応にも高まっていく。
高城が戻るまでの間、手持ちぶさたな雷鴉が勧められもしないのに白蓮の正面に腰掛けた。
「私、あまり甘いものは好きではないのだけど」
うんざりした顔をする部屋の主へ、雷鴉は得意げな笑みを向ける。
「まぁそう言うなって。一口食べてみりゃ、その仏頂面もとろけること請け合いだ」
ふんっ、と魅月が鼻を鳴らす。
「甘い物好きな灰塚さまならともかく、お姉さまを満足させることが出来るかしらねぇ」
刺々しい態度の魅月にも、今の雷鴉は動じない。逆に余裕を見せて夢魔の女王を皮肉る。
「お前はこのところ、事あるごとにお姉さま、お姉さまと煩いが……アレか? なんか姉妹の契りみたいなもんでも結んでるのか?」
「はぁ? なによ契りって。そんなものなくてもお姉さまはお姉さまだわぁ」
そわそわと高城が菓子を運んで来るのを待っていた灰塚が、ぼそりとつぶやく。
「まぁ別の意味でお姉さまから、毎晩のようにちぎっては投げされてるけどね……」
その言葉に、魅月だけではなく傾国やウルスラまでもが頬を赤く染めていた。
雷鴉がとても嫌そうな顔をする。
「……夢魔の女王が聞いて呆れるな。得意の房術で骨抜きかよ」
だが、渋面を作り嘆息した雷鴉を見て、魅月が忍び笑う。
「あらぁ、あなたもしかして、私や灰塚さまが情愛なんかでお姉さまに従っていると、本気で思っているのぉ?」
「……どういう意味だよ?」
「ふふ、まぁあなたなんかにお姉さまの魅力は分からないでしょうねぇ」
白蓮が咎めるように魅月を軽く睨む。
訝しげな表情の雷鴉が口を開こうとしたとき、高城が手にしたトレイの上にいくつもの小皿を乗せて戻って来た。
「お待たせいたしました」
高城とウルスラが手早く小皿を配っていく。
「これは……」
灰塚が小皿に乗せられた焼き菓子をじっくりと観察し、驚きと感嘆の入り交じった声で言った。
「初めて見るお菓子だわ。……パイ生地とカスタードを何層にも重ねて焼いあるみたいね。ただ手がこんでるだけじゃなく、ここまで薄く引き伸ばした生地の形を崩すことなく焼き上げるなんて……並の料理人に出来る仕事ではないわね」
しきりと感心した様子の灰塚に、雷鴉がくっと顎を反らす。
「流石だな、灰塚。初見にも係わらず、一目でそこまで見切るとは」
「表面が白いのは粉糖をまぶしてあるのね。……この鮮やかな赤いジャムは、ストロ――いえ、ラズベリーかしら……それに香ばしくていい匂い。焼き加減も程よく見目もよいわ」
「みるふぃーゆ(俺様を讃える千の言の葉)という菓子だそうだ。素晴らしい名だろ?」
「みるふぃーゆ……」
ごくり、と灰塚の喉が動いた。
「さ、遠慮せずにやってくれ」
灰塚が手の平サイズのミルフィーユを、ぱくりと一気に半分ほども口に入れた。そして幸せを噛み締めるようにゆっくりと咀嚼する
もにゅ、もにゅ、ももにゅっ――
「っ~~~~~~~~!!!!」
声にならない唸りを上げ、灰塚が椅子を蹴立てる。
雷鴉の方を見て、ぱくぱくとせわしなく口を動かす。しかし、あまりの衝撃に言葉が出て来ないようだ。つづけざまに残ったミルフィーユのカケラを口へと押し込む。
そんな灰塚を胡散臭げに見ていた白蓮も、試しとばかりにミルフィーユを食べてみる。
「あら、これは……」
形のよい眉がぴんと跳ね、意外そうな口ぶりで白蓮がつぶやく。
「本当に美味しいわね」
すでに自分の分を食べ終えた灰塚が、頬を紅潮させ高城へ命じる。
「おかわりっ!」
「はっ、ただいま」
ククッ、と喉を鳴らした雷鴉が、にやにやとしていた。
「どうだ? 満足してもらえたか?」
「ええっ、こんな美味しいお菓子を食べたのは初めてだわ! このみるふぃーゆを作った料理人を今すぐ連れて来なさい!!」
「おいおい。それが人にものを頼む態度かよ? もうちょっと口の聞き方ってもんがあるんじゃないのか?」
「くっ……」
屈辱感あふれる表情で、灰塚が雷鴉を睨みつけた。
隣の席では傾国が夢中でミルフィーユをぱくついている。なぜそんなところについてしまったのか、ふっくらとした頬にはカスタードのクリームがぴとりと付着していた。
そんな子供らしい無邪気な様子の傾国へ、魅月から底意地の悪そうな視線が投げられる。
「いい事を思いついたわぁ。傾国、あなた号をみるふぃーゆに改めなさいよ」
「…………え?」
突然振られた意味不明な薦めに、傾国が硬直する。
「みるふぃーゆ……?」
灰塚が新しく運ばれて来た小皿の上の菓子と傾国を見比べる。
「……ないわね」
しかし雷鴉は嬉しそうだ。
「いいんじゃないか? 傾国改めみるふぃーゆ(俺様を讃える千の言の葉)……いい響きだ」
「あの……あたしの名前、お父さまとお母さまから頂いた大切な名ですし……」
傾国はひたすら困惑していた。
魅月は愉快でたまらないといったねちっこい視線を傾国へ向けている。
「なによ、あたしの言うことが聞けないってゆうの? 中央の盟主様もそうしろって言ってるのよぉ」
このままでは本当に改名されかねないと思った傾国が、灰塚のドレスをつまむ。
「魅月、いい加減になさい。傾国が困ってるじゃないの」
「別にみるふぃーゆ(俺様を讃える千の言の葉)でも構わねぇだろ。いい名だと思うぞ」
「そんな訳ないでしょ! いくら美味しいからといって、お菓子の名前をそのまま号にするなんて、あんた馬鹿じゃないの!!」
「でもぉ、灰塚様だって傾国の名は、お姉さまに対して失礼だし分不相応だと言ってらしたじゃないですか」
「それとこれとは――」
「お姉さまはぁ、みるふぃーゆという名前、どう思われます?」
ぱくり、とミルフィーユを一口ついばんだ白蓮が、何の気はなしに答える
「可愛いらしいわね」
「だいたいみるふぃーゆだなんて――」
雷鴉に対して掴みかからんばかりの勢いで罵ろうとしていた灰塚が、白蓮の一言にぴくりと動きを止めた。
「とても素敵な命名ですわ。さすがお姉さまです」
「……っえ!?」
傾国が絶句する。
それまで味方だと思っていた灰塚。その見事なまでの手の平返しに、大きな瞳が限界まで見開かれた。
「あのっ、あのっ、灰塚さまっ」
「あまり私のドレスを引っ張らないでちょうだい、みるふぃーゆ」
「えぇーーーー!!??」
あっさりと灰塚から裏切られてしまった傷心の傾国は、一人よろよろとバルコニーへ出た。
雲一つない満天の星空を眺めて夜風にあたる。
一際強い輝きを放つ星を仰いで両手を組んだ。
「ああ。お父さま、お母さま……傾国はみるふぃーゆになってしまいました」
傾国の黒い瞳に、きらりと涙が光った。
魔王みるふぃーゆ誕生の瞬間だった。
白蓮の部屋を後にした雷鴉はみずからの居室へ戻り、好評を得た菓子をふたたび手にして戦禍の私室を訪れていた。
すこしお調子者の気がある中央の盟主を、戦禍は真剣な面持ちで迎え入れた。
「どうしたんだ? なんかあったのか?」
「ええ」
席に着いた雷鴉へ火酒の杯を勧めつつ、戦禍はゆったりとした口調で語る。
「グラシェールからの知らせが届きました。有翼人の捕虜付きでね」
「なんだと!?」
「それにより戦神バイラウェの降臨が確認されました。詳しくは明朝にも魔王達を招集して説明します」
「ははっ、そうか……やっと神族の奴らをお目にかかれるってわけだ」
口許を笑みの形に歪めた雷鴉へ、ぴしゃりと戦禍が釘を刺す。
「グラシェールには予想以上の有翼人達が群れ集っているようなので、まずは露払いとして中央に集結しつつある各地の貴族を差し向けるつもりです。私も魔王達を引き連れグラシェールへ進軍するつもりですが……くれぐれも、一人抜け駆けをして先走ることは控えて下さい」
その力に見合わぬ慎重な方針を口にする魔皇を、雷鴉が探るような目で覗き込む。
「一早が送った偵察隊は全滅したらしい。聞く限りでは、どうやらバイラウェは戦神の名に違わぬ力を持っているようです」
「全滅……? その偵察隊は李巡が率いていたはずだよな?」
李巡は中央に属する将位の魔族の中でも際立った力を持つ者だ。雷鴉と同じ中央の魔王である一早が、全幅の信頼を持って送り出した将軍である。
「おそらく自らの身を持って、バイラウェの力量を計ろうとしたのでしょう」
「それを計算の上で、一早は李巡を送り込んだはずだぞ」
「そうですね……我々は少し神族の力を侮り過ぎていたのかもしれません。さすがは神々を守護する四柱の一角、といったところですね」
淡々とした声音で語る戦禍とは逆に、話を聴き入る雷鴉からは抑えようのない高揚感が溢れ出ていた。
「いいじゃねえか。李巡を失ったのはちょっと痛いが、戦う相手は強いに越したことはない。むしろ朗報だ」
「ちょっと、ではありませんね。李巡は中央の貴族をよくまとめくれていた。その彼女を欠いたことは大きな痛手です。……ただでさえ我々魔族はまとまりがないというのに」
「別に中央の将軍は李巡だけってわけでもないだろ。代わりに俺の手下の奴でも……」
色素の薄い碧眼が、じっと雷鴉を見つめていた。
雷鴉は自身に向けられた微妙な眼差しの意味を正確に読み取る。
「なるほど。俺の息のかかった奴じゃ信用出来ない、と?」
「まぁ、有り体に言えばそうなりますね」
その率直な物言いに、雷鴉は苦笑してしまう。
「別にあなたが何をどうしようと、あまりとやかく言うつもりはありません。中央に関しても好きに仕切って構わない。――むしろそれが出来るのならば私の心労も大部分が解消される」
「…………」
「ですがあなたの台頭は、他の王達がよく思わないでしょう。語り部の老人から聞く限り、大災厄以降、神族との間で交わされた戦端がことごとく小競り合いで終わっているのは、魔族同士による内紛がすべての元凶らしい」
これには雷鴉も軽く頷く。実際のところ、戦禍という強力な指導者がいなければ、多くの魔王が会して争いもなく事が済むはずもない。
「あまり出過ぎた真似はするな、と?」
「ええ、その辺りは慎重にお願いしますよ。各方面への綿密な根回しは、あなたの得意とするところでしょう?」
「得意ってわけでもねぇんだけどな。……まあ、必要ならやるよ」
「ゆっくりで構いません。時間をかけ、中央の盟主であるあなたが、各地の王達を統率する基盤を作って下さい」
「なあ……」
まるで雷鴉のことを信頼でもしているかのような戦禍の言葉に、中央の盟主は戸惑いの表情を浮かべた。
「あんたはさ、俺が魔皇の玉座に野心があること……知ってんだろ?」
「ええ、最近あなたもそのことを隠そうとはしていませんしね」
「だったらなんで――」
「よい、経験となるでしょう。あなたにとって」
きつい火酒の杯を傾ける戦禍の表情は、ひどく疲れた者のようにも見えた。
「私はね。この玉座に着くのは、別にあなたでも構わないと思っているのですよ」
「な――――ッ!? そりゃどういう意味だよ!?」
「そのままの意味です。他意はありません。まあそれも、一連の戦いが終わってからの話ですがね」
水のように杯を空ける戦禍へ、問い掛けるような鋭い視線が向けられる。
しかし、なかなかに腹の読めない魔皇は、この話はこれまでだと言うように、雷鴉へも火酒の杯を勧める。
「……あんた、一体なに考えてるんだよ?」
「そうですね。とりあえず今は、あなたが何かと先走りたがる魔王達を上手くまとめ上げてくれればいいと思ってますよ」
「チッ、簡単に言ってくれるな。だいたいそりゃあんたの仕事だろ。災厄の主の跡を継いだ失望帝以降、それを出来る奴が居なかったから、神の宮なんて目障りなモンが何千年も存在してるんだしさ」
「あなたが帝位を望むのなら、どのみち王達を従える手腕は必要でしょう?」
「……そうは言ってもな、一番面倒なのはあんたの想い人だぞ。最近は灰塚や魅月もあいつにべったりだ。昨日も話しただろ? あの白蓮て女、ほんとに厄介だ」
火酒を苦そうに煽った戦禍が、その表情のまま軽く眉根を揉む。
「あの人には……後で私から直接話しておきましょう。さすがにこのところ目に余るものがある」
「ああ、そうしてくれ。自分の女のたずなはしっかり握っておかないとな」
「では魅月の方はあなたに頼みますよ」
痛いところを突かれた雷鴉が短くうめいた。
「近頃では傾国もあの人の部屋に入り浸っているらしいですしね」
「ん……ああ。傾国なんだけどな。あいつ号を変えたぞ」
渋い顔から一転、嬉しそうにする雷鴉へ、戦禍の不審そうな目が向けられる。
「号を変えた? ずいぶん急な話ですね。……式典も行わず?」
「みるふぃーゆ、てんだ。いい名だろ?」
「………………は?」
雷鴉が初めて見るようなほうけた顔で、戦禍が聞き返した。
「だから、みるふぃーゆ、だ」
「みるふぃ……??」
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返し、戦禍は勢いよく音をたてて杯を卓へ置いた。
「いや、そんな……いくらなんでもみるふぃーゆは無いでしょう! 我々魔族の慣習からあまりに離れ過ぎている!!」
「そうか? 俺はいい――」
「よくありません!! あなたは一国の象徴とも言える魔王の号をなんだと思っているのですかっ!」
「あ、ああ……まあ確かにな……」
滅多に見せない戦禍の剣幕さに、雷鴉も少々及び腰だ。
「その話が知れ渡れば、格式や伝統にうるさい藤堂などは激怒しますよ。彼は傾国の叔父ですし、名というものを非常に重視していますからね」
「う…………そう、だな……」
「この微妙な時期に、あなたはなんてことをしてくれるのですか!」
「いや、その……言い出したのは俺じゃなく魅月や灰塚なんだが……」
頭痛を堪えるかのような顔をした戦禍が、盛大なため息を吐き出す。
「今すぐ傾国と灰塚を呼んで来て下さい」
「なんだよ、俺に使い走りをさせる気かよ」
ぼそぼそと不平を口にする雷鴉へ、じろりときつい眼差しが送られる。
「中央の盟主という立場上、本来ならその場に居たあなたが止めなければならなかった話なのですよ!」
これ以上は薮蛇だと思った雷鴉は、無言で席を立ち、おとなしく戦禍の言葉に従った。
その後、戦禍の私室へ呼び出された傾国と灰塚は、こってりと小言を聞かされる事となった。
傾国は、あやういところで魔王みるふぃーゆの称号をまぬがれた。




