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氷の滅慕  作者: SH
四章 覇王
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最低な白蓮



 なぜ、こんなことになっているのか……。

 傾国はみずからが置かれている状況に、とても困惑していた。

 気が動転するあまり、大きな瞳をうるうるとさせてしまう。


 時の頃は、夜の(とばり)が降りきった宵の中程。

 場所は、部屋の中央に置かれた天蓋付きの寝台の上。

 目の前には、怜悧(れいり)な美貌に婉然(えんぜん)たる微笑みを浮かべる白蓮。


 その不穏な笑顔から(のが)れるように、傾国は腰をひねり寝台の上を後ずさる。

 体の動きにあわせ、まとった衣が細い肩からはらりと落ちる。

 いつの間にやら、しっかりと結い上げられていたはずの腰帯が、ほどかれてしまっていた。

 今朝がた怜琳(れいりん)に着付けてもらった、非常に複雑な結い方をされた帯である。

 自身ですら一人では脱ぎ着出来ない衣の腰帯を、白蓮がどうやってほどいたのか傾国にはまったく分からなかった。


「あ、あのっ、あのっ、白蓮さま!?」


 甲高い声を上げた傾国を見て、白蓮が顔をほころばせる。


「心配はいらないわ。天井のシミでも数えてなさい。そうすればすぐに終わるわ」


 傾国は思わず、シミひとつない天井を見上げる。

 見当たらない汚れを探そうとしていた傾国は、肩を掴まれ押し倒されてしまう。


「あ……?? ひぃ!」


 灰塚が言うところの“いい声”で鳴いた傾国の顔に、絹糸のような光沢を持った銀色の髪が流れ落ちていた。

 魂を抜かれるほどに美しい顔が寄せられる。


「ウルスラから――」


 鈴の()のような声が、耳もとで囁く。

 耳朶(じだ)を掠める吐息に首筋を粟立たせ、傾国はぷるぷると身を震わせる。


「聞いているわよね?」


 たしかに、先ほど友達になった黒エルフの王女から聞かされてはいた。


「で、でも……(とぎ)というのは女の人が……」


 そう、大人の女性が殿方に対し、(なぐさ)みの話をしたり、ときには体を使って奉仕をすることのはずだ。


「フフ……あなたも女、でしょ?」


 白蓮が声を発するたび、首筋にぞくぞくとした痺れが広がり、傾国の身体が弛緩してゆく。


「あ、あたし、まだそんなのよく分からない……」


 いずれは雷鴉に輿入れし、そういった事になるのだという話を女官から聞いてはいた。だが、夜の営みの細部については、幼い傾国に対し濁されて伝えられている。

 傾国の持つ乏しい知識では、実際のところこれからナニが行われるのか想像もつかない。

 ただ、殿方とのそういった経験のない自分には勤まるはずがないと思った。


「問題ないわ」


 白く、細長い指が傾国の首筋から胸元へと撫で下ろされる。

 袖を通していたはずの衣が脱がされ、自分が一糸まとわぬ姿にされていたことに傾国はこの時やっと気がついた。

 まるで魔法のような手際のよさだ。


「ま、まま、待って……ここ、心の準備をする時間を……」


「時間? そんなもの、必要ないわ」


 切羽詰まった叫びを上げた傾国のおとがいに、魔法の手が添えられる。


「さぁ、傾国」


 酷薄な印象を受ける唇が、うすく開かれた。

 くすりと、からかうような笑い声が響く。


「女になる時間よ」



 最低な白蓮だった。





 東の空が白みかけ、さんざめく鳥たちの声で傾国は目を覚ました。

 ぼうっと辺りを見回すが白蓮は見当たらない。

 広い寝台の上には傾国一人きりだった。

 寝起きだというのに、どきどきと大きく胸が高鳴っている。

 夏の夜にしては涼しく、寝心地はよかったのだが、妙に体温が高く身体が汗ばんでいた。

 昨晩、事が終わった後には、びっくりするほど体が熱くなり、鼓動は打楽器を打ち鳴らすかのように跳ね上がっていた。

 火照る体を冷ますかのように、首筋へあてられた白蓮の手がひんやりと気持ちよく、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 ふらふらと立ち上がった傾国は、聞こえてくる小鳥の鳴き声に誘われ、寝所から続くバルコニーへと出てみる。

 西の空はまだ暗く、早朝の静謐な外気が肌に心地好い。

 ぼんやりと空を眺めながら、昨夜の出来事を思い返し、とんでもないことになってしまったと実感する。


「あぁ……お父さま、お母さま――」


 一際輝やきの強い明けの明星を仰ぎ、傾国は祈るように薄い胸の前で手を組んだ。


「――傾国は女になってしまいました」



 傾国の黒い瞳に、きらりと涙が光った。





 幼い魔王が、今は亡き父母へ重大な報告をした一刻ほど後。

 まだ朝も早い時間だというのに、灰塚の私室へ来客の知らせを持った待女が訪れた。


「鳳仙が? ……まったく。年寄りは朝が早いわね」


 灰塚と鳳仙(ほうせん)は同じ北部の王とはいえ、数十年に渡り争い続けた間柄だ。決して友好的とは呼べない関係である。

 鳳仙にも、灰塚から険悪な感情を向けられている自覚はあるはずだ。

 王達の集う公式の場でならいざしらず、個人的な会見を求めてくるのは珍しいことだった。


「……いいわ。すこし待たせておきなさい。すぐに用意する。――ああ、ついでに何か飲み物を持って来てちょうだい」


 ゆったりとしたガウンを羽織っていた灰塚は、お気に入りの赤いドレスに着替える。

 程なくして戻ってきた使用人がいれたお茶で一服し、北部の盟主である老魔王の待つ部屋へと向かった。


 かなりの時間を待たされていた鳳仙は、それでも機嫌よく灰塚を出迎える。


「早い時間からすまなんだな、灰塚。……ふむ、しばらく見んうちに、また女っぷりを上げたのう」


 好色そうなシワ深い顔が、無遠慮に灰塚の身体を舐めまわす。

 灰塚は嫌悪感もあらわに、小振りな酒壷を携えた老魔王を睨みつけた。


「……このヒヒ爺。喧嘩を売りに来たのでないなら、さっさと用件を言いなさい」


 鳳仙との長年に渡る争いの原因は、あまりにしつこい求婚のアプローチによる関係の悪化、というのが実情であった。

 老いてなお、鳳仙は何十人もの側室を後宮に(はべ)らせている。


 二言めには「結婚してくれ」が、この老魔王の口癖なのである。


 そんな鳳仙を、灰塚とその臣下は激しく嫌悪していた。


「ふぉっふぉっ。相変わらず口が悪いのう。そなたには男女の機微というものが――」


「あなたと世間話をするつもりはないわ。用がないのなら、お帰りはあちらよ」


 灰塚は扉を指差す。

 取りつくしまもないその態度に、老魔王は白い眉をしならせて苦笑する。


「わかったわかった。そう恐い顔をしてくれるな。今日ここへ来たのはな、そなたにひとつ頼みたいことがあるのじゃ」


 無言で見返す灰塚を宥めるように、しなびた手がひらひらと舞う。


「そなたは戦禍帝の想い人と、かなり昵懇(じっこん)の仲らしいのう?」


「……だからなに?」


「うむ。その白蓮という女性(にょしょう)、しばらく皇城をあけていたらしいが、昨日こちらへ戻ったと聞いた。是非一度会ってみたいと思うての」


「だったら勝手にすればいいじゃない」


 いやいや、と首を振った鳳仙の眉間にシワが刻まれる。


「儂も一度、ご機嫌伺いに行ってはみたのじゃが、あっさりと追い返されてしもうた。聞けば他の王達も似たようなもんだそうだ」


「でしょうね。お姉さまは男嫌いなところがあるもの。――まして、あなたのような好色爺になど、お会いにはならないわ」


「いかにも、いかにも」


 なにが嬉しいのか、老魔王は呵々(かか)と笑う。


「そこでじゃ。かの御人と仲睦(なかむつ)まじいそなたに、渡りをつけて貰いたいのよ」


「はぁ? 私が言ったところで、お姉さまがお前に会うことなどないわ」


「それならそれで構わん。ひとつ頼まれてくれんか? これこの通り、土産も持参しておる」


 鳳仙が手にした酒壷を(かか)げる。


「そなたが最近、とみに酒を好んでおると知ってな。これは雪解け水を使い、ライ麦とイモを蒸留して造った高級酒じゃ」


 灰塚は鳳仙の領地が、火酒の有名な産地であったことを思い出す。

 葡萄酒を好む白蓮ではあるが、蒸留酒はどうなのだろうと考え込む。


「……いいわ。どうせ追い返されるだけだろうしね。その代わり――お姉さまがその酒を気に入ったら、もう何壷かよこしなさいよ」


「おお、引き受けてくれるか。では早速――」


 馴れ馴れしく伸ばされた鳳仙の手を、ひらりと灰塚がかわしたところに、扉の外から来客を告げる声が響いた。


「灰塚様。――口無(くちなし)様がお見えになられています」


「とり込み中よ。土産だけ受け取って帰しなさい」


 灰塚のいらえに、戸惑うかのような気配が返される。


「それが、口無様は大きな石像を二体も担がれていて……」


「あら、もう出来上がったのね」


 そのやり取りに首を傾げた鳳仙を尻目に、灰塚は弾んだ声で命じる。


「分かったわ。部屋の中へ像を運び入れて貰いなさい」


 すぐに戸口から遠ざかる足音が聞こえ、程なくして等身大の立像を担いだ口無が招き入れられる。

 本人よりも明らかに重量のあるそれらを、お喋り魔王は軽々と両肩に乗せていた。

 口無は先客である鳳仙へうろんな目を向けつつ、灰塚の前に立像を並べる。


「これは……なかなかの出来栄えね。いい仕事をしてるわ」


 重厚な石造りの像を入念に検分し、灰塚は感嘆のため息を漏らす。それは細部までを事細かに彫り抜かれた、実に見事な品だった。

 満足げにうなずく灰塚を見て、鳳仙がぼそりとつぶやく。


「そなたの男の好みは……残念極まりないのう」


 当然のように、口無から凄まじく不機嫌な視線が送られる。


「鳳仙殿。私の姫君に対する雑言(ぞうごん)、聞き捨てなりませんな」


 その口無の言には、灰塚からとても嫌そうな返答がなされる。


「誰があなたの、よ」


 鳳仙も不快そうに顎ひげを(しご)きつつ辛辣な言葉を放つ。


「昨日今日盟主の座に着いた青二才が、大層な口を叩きおる」


「南部にはあなたのように、老いさらばえてなお玉座にしがみつくような恥知らずはおりませんからな」


 一瞬のうちに険悪な雰囲気の漂いだした室内で、灰塚はかるく肩をすくめる。


「ばかばかしい。じゃれあいたいのなら外でやってちょうだい。私はお姉さまのところへご機嫌うかがいにゆくわ」


 昨日、傾国を白蓮の部屋へ置いてきたこともあり、今朝は早めに様子を見に行ってみようと考えていたのだ。


「おお、そうじゃった。南部の小僧っ子なぞ相手にしておる暇はない。儂も共に参らねばの」


 口無はなにやら自分の知らぬところで話が進んでいたと知り、鳳仙に負けじと名乗りを上げる。


「ほう! 愛しの灰塚様が姉君と敬愛なされる白蓮殿の(もと)へゆかれるのですか? ならば是非! この私もお目もじ願わねばなりませんなっ」


「……別に、いいけどね。どうせ鳳仙と二人揃って門前払いされるのが関の山だわ」



 気のない様子で二人の魔王を見比べ、灰塚は扉へと歩きだした。





 刻を同じくして、雷鴉の居室には東部の盟主、藤堂が訪れていた。

 変わり者が多い魔王の中では堅物で知られるこの東部の盟主を、雷鴉はとても苦手に感じていた。しかしそんなことはおくびにも出さず、彼は気安い調子で歓待の意を表す。


「よう。久しぶりだな、藤堂。東部では戦禍の奴にこっぴどくやられたそうじゃねえか。もう怪我の具合はいいのか?」


「いらぬ世話だ。少々聞きたいことがあって訪ねて来たのだが……」


「ん? なんだ? こんな朝っぱらから」


「……その朝っぱらから、なぜお前のところに鬼族の女王がおるのだ?」


 雷鴉の三歩ほど後ろに奥ゆかしく(たたず)む茨城へ、敵意を向けた藤堂が問い返す。

 藤堂にとって、茨城が殺した傾国の父は義兄にあたる。ゆえにこの鬼族の女王に対しては、悪感情しか持ち合わせていない。

 灰塚の部屋と同様、こちらでも一瞬のうちに張り詰めた空気が流れだす。


「見て分からぬのか? (わらわ)は昨晩、我が背の君とお楽しみだったのじゃ。――二人で朝の余韻に浸っておったというに、相変わらず無粋な男よの」


「ほう……」


 茨城の言葉に、藤堂は厳しい目を雷鴉へ向ける。


「いや、騙されるなっ。楽しんだんじゃない。俺が一方的に楽しまれたんだ」


 雷鴉は自身よりゆうに頭ふたつ分は高い茨城へ、かんべんしてくれといった顔をする。巨大な体躯(たいく)を誇る鬼族の女王は、そそり立つ二本の角を勘定に入れれば、その差は頭みっつ分だ。


()い奴じゃのう。そう照れるでない。――それより藤堂。用があるなら(はよ)う済ませて帰れ。妾たちが(むつみ)合う時間を邪魔するでない」


 雷鴉の肩がびくりと震える。その顔は心なしかやつれているようだ。


「いやいや、藤堂。せっかく来てくれたんだ。ここは盟主の座にある者同士、今晩はサシで飲み明かそう!」


「飲み明かす?」


 藤堂は顔をしかめる。


「まだ朝だぞ?」


「そうか。じゃあ早速、酒でも持って来させよう。ゆっくりしてってくれ」


 藤堂の話は聞かず、手を打ち鳴らした雷鴉が給仕の者を呼ぶ。だがやって来た使用人は、主へさらなる来客を告げた。


「高城様がお見えになっております」


「あ? 高城?」


 一礼した使用人を(いぶか)しげに見やり、雷鴉は数瞬のあいだ記憶をあさる。

 確かに聞き覚えのある名なのだが……


「ああ、白蓮とこの執事か」


 また邪魔者が来たか、といった表情をした茨城を見て、雷鴉は客が多いに越したことはないと考えた。


「よし、通せ」


「おい、雷鴉。先客である俺に断りもなく、新たな客人を部屋へ入れるのは礼に失するであろう」


 保身に走った中央の盟主は、藤堂のもっともな物言いも気にしない。


「堅いこというなって。俺はにぎやかな方が好きなんだよ」


 そんな雷鴉に、茨城からも恨みがましい視線が飛ばされる。

 微妙な空気の漂う室内へ招かれた、多数決的には招かれざる客は、一人ではなかった。


「……おい。なんで魅月(みづき)まで居るんだよっ?」


 高城と(とも)だって現れた魅月に、雷鴉が情けない顔をする。


「あらぁ、ご挨拶ね」


「ほう、お前が魅月か」


 茨城にとって魅月は初対面なのだが、雷鴉との間に一子もうけているという話は聞き及んでいる。雷鴉へ想いを寄せる茨城としては、恋敵(こいがたき)と呼べる存在だ。


 あからさまに感ぜられる敵意が、魅月に臨戦体勢を取らせる。


「なぁに、このでかいの? 初対面の相手にお前呼ばわりなんて……鬼族って本当に野蛮なのねぇ」


 小柄な夢魔の女王を見下ろし、鬼族の女王は厚めの唇を歪めて(わら)う。


「室に入る(妻になる)ことなく、子を産み落としたアバズレがッ」


「――――はァ?」


 敵意を通り越し、二人の間では殺気ともいえる剣呑な気配が火花を散らせていた。


「やめろ! 皇城内での争いは御法度だ。この部屋で一戦交えられたら、戦禍にどやされるのは俺なんだぞっ」


 雷鴉が制止の声を上げる。だが、この険悪な事態を巻き起こした直接の原因は彼自身だ。むしろ雷鴉が口を開くたび、室内は殺伐としていく。


 戸口で済まなそうにしている高城へ雷鴉が詰め寄る。


「おい! どうしてくれんだよこれっ」


 高城は身から出た錆ではないのか、と思いつつも、丁重に頭を下げて見せる。


「そう言われましても……私は主から、魅月様に頼んで雷鴉様を呼んで来るよう申し付けられたものですから」


「なんだと貴様ぁ。――よし! 行こう、今すぐ行くぞ」


 我関せず、といった(てい)で成り行きを見守っていた藤堂の肩を雷鴉が乱暴に叩く。


「そういうことだ。あとは頼んだ」


「ま、待て! 俺にどうしろと――」



 焦った叫びを上げた藤堂にすべてを投げ、雷鴉は高城の背を押した。

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