黒エルフの森(後)
息を切らせてアルフラの天幕へ駆けてきたウルスラであったが、しかし……
「あれ……アルフラさま、居ませんね」
灯りの落とされた天幕内は無人で、きれいに敷かれた寝具だけが放置されていた。おそらくジャンヌが用意したものなのだろう。
「……どうしましょう」
探しに行くにもあてがなく、行き違いになる可能性を考慮すれば、このまま天幕で待っているが無難であろう。そう考えたウルスラは、その場でしばらくアルフラを待つことにした。――だが思いの外帰りは遅く、すこし手持ちぶさたになってしまい、あたりをきょろりと見回す。そして靴を脱いで丁寧に揃え、
「おじゃましまーす」
アルフラの天幕にこそこそとあがり込んだ。そして寝具をすこし移動させ、みずからの座る場所を確保する。
「わあ、このお布団……ふかふかですねえ」
ぽふぽふと薄手の掛け布団をなでまわし、ウルスラは表情をほころばせる。
「……」
そんなことをしている場合ではないと思いつつも、すこしだけ寝ころんでみたいという欲求がふくらんでくる。
「ちょっとだけなら……」
そんな言葉をつぶやきながら、ウルスラはふかふかお布団にころりと横たわった。
すよすよと穏やかな寝息をたてていた黒エルフの王女は、なにやら腹部に圧迫感を覚えて目を覚ました。
「……あ」
じっと見おろすアルフラに気づき、あわてて起き上がろうとしたウルスラであったが、
「はぅ……」
体が動かない。――アルフラがぐりぐりとウルスラの腹を踏んでいるのだ。
「あたしの天幕で、なにしてるの?」
いかにも不機嫌そうな声音が降ってくる。
「す、すみません。アルフラさまの帰りを待つうちに……はぅ、お、おなか、くるしいです……」
足裏でウルスラの腹を押さえつけながら、アルフラは口を開く。
「ちょうどよかったわ。あたしもお話がしたくてあなたを探してたの」
「あ、はい。それでしたらいくらでも……」
「じゃあ、白蓮が皇城でどんな暮らしをしてたのか、くわしく聞かせて」
「わかりまし、あふっ……あの、そろそろ足をどけていただけると……あぅ……」
アルフラのちいさな足は、踏みつけるというよりまさぐるような動きに近かった。圧迫感に慣れてくると非常にくすぐったく感じられる。
顔を赤くして身悶えるウルスラを一瞥し、足を上げたアルフラはぺたりとその場に座った。
急かすような強い眼差しがウルスラの瞳をのぞきこむ。
「あ……でも、お話をする前に伝えなければいけないことがあるのでした」
なに、と首をかしげたアルフラの機嫌をうかがいつつ、ウルスラは白蓮不在の事実を告げる。
「その、ええと……白蓮さまは現在、留守にしてまして、皇城には居られないんです」
瞬間、刺すような痛みを感じるほどに冷たい風が天幕内を駆け抜けた。
白蓮が激怒したときと酷似した気配がアルフラから感じられる。
――ひいぃ、やっぱり怒ってらっしゃいます
思わず正座をして身をちぢこまらせた黒エルフの王女に、酷く冷たい声が尋ねる。
「白蓮はどこにいるの。侍女のあなたなら、もちろん知ってるよね?」
知らないと言うことのできないウルスラは、必死に頭を働かせてこう答えた。
「高城さまがご存知です。あの、高城さまは十日と置かず皇城に来られるので、たぶん白蓮さまもそんなに遠くない場所にいるんだと思います」
「……ウルスラは白蓮の居場所を知らないの?」
「も、もうしわけございません。以前、灰塚さまにも同じことを聞かれたので、おそらく高城さまと戦禍さましか知らないところに居るんだと思います」
ウルスラと視線を合わせたまま、アルフラは無言でなにかを考えているようだ。氷室のごとく靄の立ち込む天幕内で、ウルスラはぷるぷると震えていた。入り口から吹き込む外気がむしろ暖かく感じられる。
「あいつね……きっと戦禍があたしの白蓮を隠したんだわ」
怒りの矛先が彼の魔皇へと向けられたのは、ウルスラにとってとても幸運であった。
「そ、そうですね。たぶん戦禍さまがお命じになったんだと思います」
頬をぴくりと引き攣らせたアルフラはおもむろに立ち上がり、ウルスラの肩に足をかける。
「はわっ」
ころりと敷布の上にころがされたウルスラの腹部に、ふたたび足がのせられる。
「なんでもっと早くそれを言わなかったの?」
「ごめんなさいごめんなさい、うっかりしてましたああぁ」
足指で器用に貫頭衣がめくられ、ウルスラの素肌にひんやりとした足が触れた。
「高城はいま皇城にいるの?」
「い、いまはおられませ――あふ!?」
さきほどより若干強めに踏まれ、へんな声がでてしまう。そうとうくすぐったいようだ。
「でも、数日中にはまた戻られると、ひあぁ……」
「ここから皇城まではどれくらい?」
「二、三日くらいで……ふあ……つくはずです」
「……そう、いそがないといけないわね」
ちいさなため息を落としつつも、ウルスラのやわらかな腹をふみふみと責め立てる。そのおしおきは、くすぐったさが麻痺して次第に気持ちよく感じられるあたりまで続けられた。
みょうな性癖に目覚めてしまいそうなウルスラだった。
翌朝、日の出を待つことなく野営地をあとにした一行は、干し肉などの携帯食をかじりながら森の深部を歩いていた。周囲には背の高い樹木が群生し、その枝葉に陽光が遮られて足元は薄暗い。しかし道はしっかり踏み固められており、常時から人の往来の絶えないことがうかがい知れた。
「この近くには大きな集落があるんです。ふだんはそこそこ人通りもあるはずなんですけど……なんでこんなに静かなんでしょう」
その原因であるアルフラは興味なさげに黙々と歩いている。北上する寒波を避けるため、黒エルフの森全体に避難勧告が出されたことをウルスラは知らなかった。
その後、誰とも行き逢うことなく歩き続け、正午にさしかかりそろそろ小休憩を入れようかという頃合い――
「――あっ」
不意にウルスラが驚きの声をあげて立ち止まった。その視線を追った一行は、樹上の太く張り出した枝の上に奇っ怪な生物を発見した。
「ローパーです」
ウルスラからローパーと呼ばれたその生物は、人の胴体ほどもある円筒形の肉茎から無数の触手を生やしたいびつな形状をしていた。肉茎の表皮は褐色で、てらてらと黒光りしており、それとは対照的に触手部分は薄桃色の明るい色合いであった。そのうねうねと蠢く様はどこか原始的な環形動物を連想させ、肉色の体皮もあいまって見る者にひどく猥雑な印象をあたえた。
「あっ、しかもこの子、赤目ちゃんですよ!」
ローパーの胴体、その頭部とおぼしき部位には巨大な目がひとつ。その赤い単目がぎょろりと一行に向けられていた。
シグナムがうわぁ、と呻くような声を喉から出した。
ローパーの陣取る枝はちょうど道の真上に位置していたのだ。
「これ、絶対ダメなやつだろ」
「赤目ちゃんは人を襲ったりはしません。むしろ人懐っこいんです」
シグナムはこれ以上ないというほどの渋面だ。
「……ひとなつっこい?」
その語意と目の前の絵面がどうにも合致しない。
「ローパーはすごくおとなしいし、主食は鹿や猪なんかの四つ足動物なんです。それにほとんどのローパーは碧い瞳をしていて、赤目ちゃんはほんとにめずらしいんですよ」
うれしそうに説明するウルスラはやや興奮気味で、その頬をかすかに上気させていた。
「わたしたちのあいだでは、赤い目のローパーを見つけるとその日一日幸運に過ごせるという言い伝えがあるんです」
どうやら黒エルフにとって赤目ちゃんは四つ葉のクローバー的存在らしい。
「ウルスラさん、あのローパーという生物には口に相当する器官が見あたらないのですが……鹿や猪をどうやって補食するのですか?」
ローパーはフレインの知識にもない希少生物らしく、彼は好奇の視線でその生態を観察していた。
「あの触手が口代わりなんです。ローパーは獲物を捕らえると排泄孔から触手を侵入させて、溶解液を分泌するんです。それでどろどろに溶けた内臓を触手でちゅーちゅーしちゃうんですよ」
シグナムがじり、と一歩後ずさる。
「……見た目通りのグロさだな。ほんとうに大丈夫なのか?」
腰の引けたシグナムへ論より証拠とばかり、ウルスラはたたっと駆け出しローパーの触手に飛びつく。
「あははっ――ほら、大丈夫ですよー」
触手にぶら下がったウルスラは満面の笑顔だ。その奇行にシグナムは目をまるくしていたが、いきなり飛びつかれたローパーは触手をかるく揺らせ、ウルスラにきゃっきゃと無邪気な悲鳴をあげさせていた。
「黒エルフの子供はみんなこうやってローパーと遊ぶんです」
その楽しげなようすに我慢のできなくなった狼少女がウルスラへと駆け寄り、ぴょいっと飛びつく。
「え、ちょっと、なんでわたしに掴まるんですか!?」
腰に抱きつかれたウルスラはさすがにふたり分の体重を支えることができず、ルゥもろとも地面にどさりと落ちてしまった。
「もぅ、あぶないじゃないですか」
とくに怪我もないようで、立ち上がったウルスラが狼少女にうらみがましい目を向ける。その横を、無言のアルフラがすっと通りすぎた。すぐに神官娘があとを追う。しかしローパーの手前で足を止め、ほんとうに大丈夫でしょうか? といった顔で頭上を見上げる。
「おい、排泄孔に気をつけろよ」
シグナムが笑い含みに声をかけ、ローパーの下を通り過ぎる。神官娘はややきつめの視線でそれに応じた。
ふたりのやり取りを見ていたルゥがウルスラを見る。
「……はいせつこーてなに?」
「えっ、それは、ええと……」
育ちのよい黒エルフの王女はすこしだけ顔を赤らめて答える。
「お、おしりの穴です」
「――おしり!?」
ルゥが勢いよくジャンヌへと振り返った。
「いえ、そんな期待に満ちた目で見られても……襲われませんよ」
きらきらと瞳を輝かせる狼少女に背を向け、ジャンヌはやや早足で歩きだす。
「でも赤目ちゃん、すっごくジャンヌのこと見てるよ」
「え……」
見上げると、赤い瞳と目が合ってしまう。
「……襲われません、わよね?」
ちいさくつぶやきながらローパーの真下を通り抜けようとした瞬間――触手のひとつが腰に巻きつき、ひょいっと体が持ち上げられる。
「きゃああ――なぜわたしだけ!?」
反射的に袖口から鉄鎖を取り出したジャンヌを見て、ウルスラから制止の声があがった。
「待ってください! 赤目ちゃんはただかまってほしいだけなんだと思います。なでなでしてあげればすぐに満足してくれるはずです」
「な、なでなで……?」
神官娘はとても嫌そうにローパーの頭頂部を見つめる。黒光りする体表には無数の血管が浮き出ており、なにやら淫猥な形状のように思える。それに触れることは非常にためらわれるのだが、そうしているうちにもジャンヌの女神さまは足を止めることなく先に行ってしまっている。
「……」
意を決っして手を伸ばしてみると――
「あら、意外とよい手触りですわね」
さすさすと擦ってみると、ローパーの頭頂はおどろくほどに滑らかで、ほんのりと温かい触感がとても心地いい。赤目ちゃんもたいそう気持ちがよいらしく、赤い目を細めてうっとりとしているようだ。
さすさす
ほわほわ
赤目ちゃんの美肌を堪能するうちに、ジャンヌの口許にもいつしか淡いほほえみが浮かんでいた。
ほどなく触手の拘束を解かれた神官娘は赤目ちゃんに別れを告げ、残念そうな顔のルゥとウルスラを連れて女神さまを追いかけた。




