ウルスラどきどき危機一髪
木立の中からぴょんぴょん飛びはねるように駆け出してきた黒エルフの少女、
「もう! 何日も探し回ったんだよ、グリ……」
ウルスラはグリンちゃんと対峙する人影を目にして言葉を飲み込だ。そして自分が場の視線を一身に集めていることに気づいて足を止める。
「……え、人間……!?」
巨大な甲冑を身につけたシグナムを見て、ウルスラは思わず絶句してしまう。――なぜこんなところに、という疑問もつかの間、白髪赤眼の子供を抱きかかえた長身の女に注意を引かれた。強大な魔力を有する上位貴族だ。おそらく黒エルフの王女であるウルスラよりも強い。グリンちゃんがわるい魔獣でないことを伝えないと退治されてしまうかもしれない。一瞬、彼女に抱かれた子供の特異な色彩に目を奪われつつも、慌ててグリンちゃんへと走り寄る。
「ピッ!」
警戒音を発したグリンちゃんが翼を広げ、女魔族からウルスラを守るかのようにその体を隠す。
「だいじょうぶだよ、グリンちゃん」
大きな翼に手を掛け、ひょいっと顔を出したウルスラに、グリンちゃんが「クルルゥ」と喉を鳴らした。
「ちょっと伏せててね」
ウルスラがぐいぐいと翼を下に押しやると、グリンちゃんは一声鳴いてその場にぺたりと寝そべった。
「あの、この子は……」
そこでウルスラはふたたび絶句してしまう。
吹きつけられた冷たい風。
急激な気温の低下が肌に感じられた。
すべての視線がウルスラから一人の少女へと移される。
ウルスラよりもやや幼げなその少女は、不釣り合いに長大な剣を背中に帯びていた。
温室育ちである黒エルフの王女にさえ気取れる死の危険。
生まれて初めて感じるあからさまな害意に足が竦んでしまう。
そのおかげで、今すぐ少女の視界の外へ逃れたい、という衝動に従うことなく命を繋げられた。
この場において少女に背を見せるという行為は、考えうる限り最悪の結末を招く選択肢であろう。
子供を抱きかかえた女魔族がじりと後ずさった。
ウルスラへと歩み寄る少女に道を開けたのだ。
さきほど女魔族からウルスラを庇おうとしたグリンちゃんも、その巨躯を小刻みに震わせ、少女とは目を合わせないよう頑なに顔を伏せていた。
ウルスラの眼前に立った少女が、息の触れそうなほど間近に顔を寄せる。その寒々とした眼差しに射竦められ、ウルスラはまばたきひとつ、指先のひとつも動かせない。
「……や、やめてよ……かわいそうだよ」
白髪の子供が、いまにも泣きだしそうな顔で少女にうったえかけた。
――え……わたし、泣いてしまいそうなほどかわいそうな事されちゃうんですか?
全身の毛穴がぞわりと開き、ひどく冷たい汗がどっと噴きでる。
ウルスラの生涯で命の危険を感じるのも初めてなら、哀れみの視線を独り占めすることも初めての経験だった。――いや、なぜか祭服の少女だけが、羨望と恍惚の入り交じった妖しい表情でウルスラを凝視している。
「ねぇ……」
冷えた声音がささやきかける。
亜麻色の髪に鳶色の瞳。本来暖かい配色のはずなのに、この少女からは一切の温度が感じられない。
凍てつく腕が背中に回され、やさしく抱き寄せられた。
あまりの冷たさにびくりと腰が跳ねあがる。
からだを押しつけるように密着させ、小柄な少女はややつま先立ちとなり……ウルスラのうなじに鼻先を埋めた。
「……なぜあなたから、白蓮のにおいがするの?」
心臓に痛みを覚えるほどに鼓動が高鳴る。
「ねぇ、なんで?」
それが命に関わる質問だということは解っていた。
しかし、どう答えれば生き残れるのかが、ウルスラには解らない。
数日前の行いが切実に悔やまれた。
主の不在をいいことに、寝台にもぐり込んだ挙げ句「白蓮さまの匂いがするぅ」などとはしゃいでいた自分をしかりつけてやりたい。――それは命取りだぞ、と。
「あたし以外のだれかから、なんで白蓮のにおいがするの?」
どくどくと脈打つ首の動脈に、ひんやりとした唇が押しつけられた。
「はやく、答えて」
催促の言葉に、張り詰めた緊張が限界に達しようとしていた。――それが途切れた瞬間、みずからの命も途絶えるのだと、そうウルスラは思った。
「ねぇ、アルフラ……やめてあげてよ……」
その声に、はっとウルスラは息を飲む。
「――アルフラさま? アルフラさまなのですか!?」
顔をあげたアルフラがまじまじとウルスラを見つめる。
「あたしのこと知ってるの? もしかして、白蓮から聞いた?」
「はい! いぜん白蓮さまと雷鴉さまが会見をなされたときに、わたしも話をおうかがいしました」
「……雷鴉?」
アルフラにとっては聞き捨てのならない名だ。
「はい、雷鴉さまは中央の盟主さまで、とっても偉い人なんです。その雷鴉さまを相手に白蓮さまは――」
かつて魔術士ギルドがアルフラを監視し、その身に害の及ぶ画策がなされていたとき、白蓮はギルドと繋がりのあった魔王雷鴉にアルフラを守るよう依頼をした。当時の状況をウルスラが事細かに説明をするにつれ、アルフラの纏った冷気は徐々に散じていった。
「なるほど、これでいろいろと話が繋がりました」
ひとつ手を打ったフレインが納得の声をあげた。
「半年ほど前に行った召喚の儀で、魔王雷鴉からアルフラさんの身柄を丁重に扱うよう命じられた件は、導士たちの間でもさまざまな憶測がなされていました。やはりすべては白蓮さまのご意向によるものだったのですね。――しかし魔王に対しておのれの意を通すとは……」
思案顔でフレインは口許に手をあてる。
「白蓮さまは皇城において、よほど高い立ち位置にいらっしゃるのですね」
「そうなんです! 白蓮さまはとってもすごいんです!!」
このウルスラの言にはアルフラも完全に同意だ。
「召喚の際、アルフラさんの存在が魔王灰塚に対する抑えになるといった話を聞いたのですが、それについてはなにか分かりますか?」
「あ、灰塚さまは白蓮さまのあ……」
愛人、と言いかけたウルスラは慌てて言葉を切り、ちらりとアルフラの顔を盗み見る。
奇跡と呼べる英断だった。
灰塚の死因となりえる発言を飲み込めたのだ。
「あたし知ってる」
ひと月とすこし前、中央神殿で出会った老執事、松嶋の言葉が思い出された。
「灰塚ってひとは白蓮の家来なんだよね?」
「え……そうです、ね。はい、白蓮さまの家来なんです!」
アルフラは得意満面である。
魔王を手下にしている白蓮はすごいのだ。
「だから灰塚さまに命令して、凱延という貴族がアルフラさまのいるレギウス教国に攻め込まないようにしたんです。でも灰塚さまが使者を送ったときには……」
すでに凱延が小数の兵を率いて出陣した後であった経緯をウルスラは説明する。
「そういうことだったのですか。凱延は魔王灰塚の承認を得ていなかったので軍を動かすことができず、わずか百名ほどの手勢で王都へと攻め上ったのですね」
魔族の内情に通じたウルスラにより、かつての疑問がつぎつぎと解き明かされていく。
「あなた、名前は?」
好意的、とまでは言えないものの、ウルスラに向けられたアルフラの目からは、すでに害意らしきものは感じられない。名を問うということはこの場で命を奪うつもりもないのだろう。
「ウルスラです。ウルスラ・ル・ケウィン。皇城では白蓮さまの側仕えをさせていただいてます」
「え!? ケウィン姓は黒エルフの王族だと記憶していますが……?」
驚いた様子のフレインに、ウルスラは心持ち胸を張って微笑みかける。
「はい! わたしの母は黒エルフの女王なんですよ」
「白蓮て人は黒エルフの王族を侍女に使ってるのか……たしかにすごいな」
このシグナムのつぶやきは、アルフラの自尊心をおおいに満たすものだった。
紺色のワンピースに白いエプロンドレスを身につけたウルスラはいかにも侍女然としており、王族というだけあって物腰にもそこはかとなく気品らしきものが感じられる。
「じゃあウルスラは皇城から来たの?」
アルフラの質問に黒エルフの王女はにこにこと答える。
「はい、グリンちゃんも見つかったので、これから帰るところです」
「そうなんだ」
あいづちを打ったアルフラは振り向きざまに抜刀する。
袈裟懸けの一撃で熾南を斬り伏せ、上体を逸らして返り血を避ける。
温かな血潮がウルスラの頬に跳ねかかった。
「んぃぃぃ!?」
突然の凶行にウルスラの瞳が限界まで見開かれる。あごが落ちそうなほどに口も開かれていた。
アルフラは納刀しながらウルスラに向き直る。
「じゃあなるべく近道を通って皇城まで――」
なにごともなかったように話をつづけようとしたアルフラであったが、顔をこれ以上もなく引き攣らせたウルスラには内容が入ってこない。
「え……待ってください。な、なんで……ええええ!?」
あまりのことに言葉のつづかないウルスラの視線を追って、アルフラの顔が熾南へと向けられる。
女公爵は驚愕の表情のまま目を剥いて事切れていた。
とくに注目すべき点もなく、アルフラは落ち着いた様子で話を再開する。
「あたしはなるべく早く皇城に行きたいの」
しかし黒エルフの王宮で蝶よ花よと育てられたウルスラはそれどころではないようだ。初めて人が殺される瞬間を間近で直視してしまい、すっかり気が動転してしまっている。助けを求めるようにきょろきょろと辺りを見回すが、ウルスラのように慌てふためいている者は一人もいない。なのでとても恐ろしいことに気づいてしまう。
アルフラが唐突に人を斬り殺すのはそれほどめずらしいことでもなく、その足元に死体の転がる風景はわりと見慣れたものなのだ。
「……ねぇ、聞いてる?」
その問いかけにウルスラはびくりと身を震わせた。
「あのね、皇城に一番早くつける道を案内してほしいの。できるよね?」
「は、はい、まかせてください! 森の守護者と呼ばれる黒エルフにとって、この森は庭みたいなものなんです!」
うそである。
供をつけずに外出したのは今回が初めてだった。ウルスラが庭と言えるのは王宮庭園くらいのものである。
だがグリンちゃんを探しているうちに、道に迷ってしまったなどとは口が裂けても言えない。そこそこの確率で、斬殺死体の隣に転がされそうな気がするのだ。
びくびくとアルフラの顔色をうかがうウルスラに、思いのほかやさしげな声がかけられる。
「こわがらなくてもだいじょぶだよ。あたし、ウルスラをいじめたりはしないから」
これは真実だ。
すくなくともアルフラに、この場でウルスラを殺すつもりはない。
使用人は主人の持ち物である。ゆえにウルスラを傷つければ、あとあと白蓮からおこられてしまうかもしれない。高貴な女性には身の回りを世話する者が必要なのだ。――そしてそれは、決して男であってはならない。
高城は有能な執事ではあるが、彼は男性なので着替えや湯浴みの手伝いはできない。だからウルスラという小間使いは必要なのだ。
「……でもね、あたしから白蓮を盗ろうとしたら、駄目なんだよ?」
ウルスラの頬を汚す血糊をアルフラが指先で拭いとる。いまだ初潮を向かえていない黒エルフの王女にとって、血はあまり見慣れぬものであった。その毒々しい赤色に目が釘付けとなる。
「わるい泥棒ねこさんは、殺してしまわないといけないからね」
指にこびりついた汚れを舌先で丹念に浄めつつ、アルフラはくすくすと愛らしい笑い声を洩れこぼす。
ウルスラはすこしだけ失禁してしまった。
一行を先導して歩き始めたウルスラは、ちらちらと背後を振り返りながら歩を進めていた。
すぐうしろには無言のアルフラがつづき、それに従う祭服の少女。その手に引かれる真っ白な子供はしょんぼりと肩を落としている。どうやら熾南という女魔族の死が堪えているようだ。無惨な遺骸を前にはらはらと涙を流す姿はウルスラの目から見ても悲愴な情景であった。
――たぶんあの子はとてもいい子です
友達になれるかもしれない。
だが祭服の少女はだめだ。彼女にはアルフラとはまた違った怖さがある。たぶん関わりあいになってはいけない危険人物だ。
そしてルゥと呼ばれる子供にしきりと励ましの言葉をかける甲冑の女性。彼女の見た目は非常に威圧感があり恐ろしげなのだが、ルゥに接する態度を見るに、いがいと人柄は良いように感じられる。
最後尾を歩くのは緋色の導衣をまとった温厚そうな青年。顔立ちは女性的で気弱な印象を受ける。その彼が懐から白い手拭いを取り出し、小走りでウルスラの隣に並んだ。
「よろしければお使いになってください」
「え……?」
清潔そうな手拭いを差し出して、青年魔導士はにこやかに笑う。
顔についた返り血を拭くために貸してくれるということなのだろう。
「あ……ありがとうございます」
その気遣いが嬉しく、ぽっと頬を赤らめて手拭いを受けとる。
――や、やさしい
軽度のストックホルム症候群である。
「私はフレインといいます。すこしお話を聞きたいのですがよろしいでしょうか?」
「あ、はい……」
ウルスラは問われるまま白蓮や戦禍の人柄、魔王たちに関する情報、皇城での生活などを語っていく。さらには黒エルフの文化や森に住む生き物の生態。質問は多岐に渡り、フレインはそのすべてに対して興味深げに聞き入っていた。
「……わたしからもお聞きしていいですか?」
「ええ、なんなりと」
ウルスラは声をひそめてこっそりとたずねる。
「あの……アルフラさまって、いったいどういう方なのでしょうか」
以前、アルフラという少女は子犬のようにとても無邪気で、非常に可愛らしいおんなの子であるらしい、と灰塚から聞いたことがあるのだ。――しかし実際に会ってみた感想は、子犬ではなく狂犬という形容がふさわしく思える。
「そうですね。かつてのアルフラさんはたしかに狂犬のような方でした。ですがいまでは……もうちょっと酷くなっていますね」
あまりにもあんまりな答えにウルスラは閉口してしまう。
「とはいえアルフラさんも、それほど悪い人ではありませんよ。とても気軽に人を殺しすぎることに目をつむりさえすれば」
「えぇ……」
そこは絶対目をつむっちゃいけないところですよね、とウルスラは思う。そこに目をつむってしまえば毎日が命懸けだ。
「大丈夫です。私も最初はかなり戸惑いました。けれど今ではこの通りですからね。アルフラさんと一緒にいれば、すぐに慣れますよ」
穏やかに笑うフレインを見て、アルフラに慣れるとこうなってしまうのかと嘆息する。
きっと彼はウルスラが目の前で殺されたとしても、いまのようにすこし困った顔で笑っているのだろう。
一見とてもやさしそうな青年なのだが、やはりフレインもどこかおかしいと感じるウルスラであった。
アルフラと黒エルフの王女、ウルスラ。この二人の邂逅においてウルスラが命拾いをした最大の要因は、アルフラが良くも悪くも子供であったということだろう。
もしアルフラにわずかなりとも女の勘と呼べるものが備わっていたのなら、ウルスラから「敵」のにおいを嗅ぎ取っていたはずだ。
その場合、ウルスラは非常に悲惨な人生の幕引きを迎えることになっただろう。




