楽しい船旅(後)
「……とりあえず、一度船室に戻って着替えましょうか」
全身ずぶ濡れに潮垂れたルゥを見て、ジャンヌがそう提案した。
すると狼少女は頭上を仰いで首を振る。
「すぐ乾くからいい」
見上げた太陽はほぼ真上に位置し、赤道に近いのか、晩秋とは思えない陽射しの強さだ。しかし釣竿を探して辺りを見回したルゥの体がぷるりと震える。
「……おしっこしたくなっちゃった」
「では、わたしはそろそろアルフラさまを探しに……」
股間を片手で押さえて内股になった狼少女がもう片方の手でジャンヌの腕を掴む。
「いっしょにゆこ」
仕方ありませんわね、という顔でジャンヌはおとなしくルゥに引きずられていく。アルフラを探しつつ、辺りをきょろきょろしながら歩いていると、前を行く狼少女が不意に立ち止まった。あやうくぶつかりそうになった神官娘が、後ろからルゥを抱きかかえる形となる。
「……おねえちゃん、なにやってるの」
狼少女の興味津々といった視線の先では、船員たちと車座になって賭博に興じるシグナムの姿があった。
「あれはダメな大人の見本です。真似をしてはいけませんよ」
さきほど見たときとはうって変わり、シグナムはこれ以上ないといった満面の笑みである。ルゥとジャンヌが釣りをしている間に劇的な大逆転が起こったようだ。すでに酔いも回っているのか、ご機嫌な様子のシグナムは貫頭衣を脱いで、薄物の肌着姿となっていた。
「早く行きましょう」
すこし嫌がるルゥの手を引き、ジャンヌは薄暗い木板の階段を降る。中層甲板に下りた二人は、割り当てられた船室へと入った。寝台がふたつ置かれた手狭な部屋だ。それでも数人単位での雑魚寝が当たり前な一般船員のそれと比べれば、かなり優遇されていると言えるだろう。
船室に入るなり、狼少女は着ている衣服を脱ぎ散らかして全裸となる。そして部屋の隅にある木箱へ駆け寄った。その箱は床に釘打ちされており、中には小振りな水瓶が置かれていた。ルゥとジャンヌのおトイレである。
水瓶の蓋を取り、狼少女は木箱の上にしゃがみこむ。ルゥが用を足している間に、ジャンヌは狼少女の着替えを寝台の上に出しておいた。なにげに面倒見のよい神官娘だ。
小用を終えたルゥがじゃれついてくるのをあしらいつつ、ジャンヌは狼少女に服を着せる。そしてふと、もう一度フレインの容態を確認しに行ってみようと思い立った。
「わたしはフレインさまの様子を見に行ってきますが、ルゥはどうします?」
返事の代わりに、にこにこと手を繋いできた狼少女と連れ立ち、ジャンヌは船室を出る。
隣室の扉を開けてみると、フレインは依然としておだやかな寝息をたてていた。首筋に触れて体温に異常がないことを確かめたジャンヌは、念のために再度、快癒の祈りを捧げておくことにした。
「ああ、我は願う」
とくにすることもなく、手持ち無沙汰なルゥはだんだんと退屈になってくる。ジャンヌの詠唱が終わるころには、いつの間にか狼少女は部屋から居なくなっていた。それに気づいた神官娘が、あら? という顔をしたのと同時、船室の扉が開かれシグナムが顔をのぞかせた。
「どうだ、フレインの様子は」
「なにも問題ありませんわ。ほどなく目を覚まされるかと」
「そうか……お前の治癒魔法はたいしたもんだな。かなりの深手だったのにもう呼吸が落ち着いてる」
「いえ、すべてはアルフラさまのご加護があればこそですわ」
たぶんそれは違う、と思ったシグナムだったが口にはせず、手にした酒壺を備え付けの木卓に置いた。
「気付け代わりに持ってきたんだけど必要なかったみたいだな」
「ええ、それよりシグナムさま。ルゥの教育によくありませんので、すこし振るまいには気をつけてください」
「ん……? あたしなんかしたか?」
「日も高いうちからお酒を嗜み賭け事に興じるなど、まるでならず者の行いですわ」
目を吊り上げたジャンヌから、いかにも神官らしい小言をちょうだいしたシグナムは、苦笑気味に肩をすくめて見せた。
「たまにはいいだろ。あたしはああいう荒っぽい連中とは気が合うんだ。かるい息抜きだよ」
「ルゥがよくない遊びを覚えたらどうするのですか! それにかるい息抜きで散財するのもどうかと思いますわ」
「ああ、やったことのない賭博だったから最初は負けてたんだけどな、最後は大勝ちしたまま勝ち逃げしてきたんだ」
うれしそうに笑うシグナムを見て、ジャンヌは大きなため息を落とす。
「まあ、イカサマに気づかれるまではたっぷり稼がせてもらうさ」
「――えっ!? イカサマをなさったのですか? 駄目ではないですか!」
目をまるくして大声を出したジャンヌの口を、シグナムが素早く掌で塞ぐ。
「声がでけぇよ。ばれちまったらカモれなくなるだろ」
神官娘は口を押さえられたまま、もごもごと不正を批難する。ややしてすこし落ち着くと、当然ともいえる疑問が首をもたげた。
「初めてする賭け事なのに、なぜイカサマが出来るのですか?」
「ああいう木札を使った賭博はね、何枚か札を手元に隠しとくだけで勝率が跳ね上がるのさ」
昔、傭兵仲間からやり方を教わったんだ、と笑うシグナムを見る神官娘の目は、とても冷えきったものだった。しかしそんな単純なイカサマならば、すぐにばれて直に痛い目を見るだろう。そう思ったジャンヌの内心を見透かしたかのように、シグナムがニヤリとしてみせた。
「あいつらあたしの胸ばっか見てたからしばらくは気づかないさ。男ってのはほんとに馬鹿だよな」
肌着の胸元を引っ張ったシグナムがいたずらっぽく片目をつむる。
「あっ……もしかしてイカサマがばれないように慣頭衣を脱いでいたのですか?」
言語に絶する卑劣さである。
しかし同性であるジャンヌですらシグナム連峰の谷間には目を奪われてしまうので、海賊くずれの男たちなどいちころだろう。
あきれたように首を振った神官娘は、それ以上言及しても不毛であろうと感じ、アルフラを見なかったか尋ねてみた。
「アルフラちゃんなら部屋にいるみたいだよ。でもしゃべり声が聞こえてたから邪魔しないほうがいい」
魔剣と会話をしているのか、それとも心の原風景との語らいか……後者であった場合、邪魔をすれば命に関わる勘気を被るおそれがある。シグナムの言う通り、あまり近づかない方がよいだろう。
「触らぬ神に祟りなし、てね。――それよりしばらくルゥを見張っててくれよ」
「見張る?」
「ああ、さっき船倉に降りていこうとしてたからさ、かるく叱って上甲板で遊ぶように言い含めといたんだ」
なるほど、とジャンヌはうなずく。船倉には食糧庫があるのだ。
ここ最近、四六時中ジャンヌについてまわっていた狼少女がめずらしく一人でいなくなったと思ったら、こっそりと盗み食いをたくらんでいたらしい。
「ルゥを探しにいってきます」
「そうしてくれ。あたしはフレインが起きるのをここで待ってるよ。すこし相談したいこともあるしね」
船室を出たジャンヌが階段を上がると、さきほどまでシグナムと賭け事をしていた水夫たちの笑い声が聞こえてきた。なにやら卑猥な話で盛り上がっているようだ。
視界に入れるのも汚らわしいとばかりに目を背け、ジャンヌは早足に歩き過ぎようする。しかし話し声まではどうすることもできず、聞きたくもない破廉恥な内容が嫌でも耳に入ってしまう。
「だから俺は言ってやったのさ……こいつはとんだ淫乱だぜ!! てな」
それが話のオチであったらしく、とたんに男たちの下卑た笑い声が響き渡った。
神官娘の顔がぴくりと引き攣る。
とても聞き覚えのある声が混じっていたのだ。
「――ルゥ!?」
荒くれ者たちの中に、なぜか違和感なく溶け込んだ狼少女が大口を開けて笑っていた。まるで違和感のない辺り、逆に違和感だらけである。
「なにをやっているのですかあなたは!!」
水夫たちが思わず身を引いてしまうほどの怒声が浴びせれた。
びっくりした顔のルゥが慌てて手にした木札を投げ捨てた。そして床に並べられた菓子や果物を両手でかき集める。おこられることを察した狼少女は、賭け事の戦利品をジャンヌに取り上げられると思ったらしい。
神官娘はルゥの耳をつねりあげて船縁まで引きずっていく。
「まったくもう! ああいった遊びはまだルゥには早すぎます!」
お説教をはじめたジャンヌから隠すように、狼少女は菓子と果物を小鞄の中に詰め込んでいた。それを見咎めた神官娘がすっと目を細める。
「まさかイカサマをしたのではないでしょうね?」
「イカサマってなに?」
「いえ……ならばよいのです。――よくはありませんね。それは返してきなさい。賭け事で勝って利益を得ようなど――」
「勝ってないよ? なんか負けるたびにおじちゃんたちがお菓子くれたの」
「……そうですか」
単純な好意からのいただき物であれば目くじらを立てることもないだろう。ジャンヌがそう思い直したところで、おじちゃんたちからの声がかかった。
「そろそろ晩飯時だ。早く厨房へ行ったほうがいいぞ」
見れば陽射しもだいぶ傾き、東の空はかすかな藍色を帯びはじめていた。
夕食を終え、目を覚ましたフレインにも食事を運んでやったシグナムは、酔いも醒めてきたのでふたたび上甲板で晩酌でも、と考えながら階段を登っていた。夕涼みも兼ねてすこし落ち着ける場所はないかと周囲を見渡す。――すると息を切らせた狼少女が焦りも露に駆けよってきた。
「おねえちゃん! た、たいへん! たいへんだよ!!」
「なにがあった?」
その様子からただ事ではないと察したシグナムの表情が引き締まる。
「お日さまっ! お日さまがね……」
「……ん?」
目尻にうっすらと涙をため、膝をがくがくとふるわせたルゥが船尾――西の方角を指さす。
「海に沈んじゃう!!」
見れば傾いた太陽が茜色に染まった水平線に差しかかろうとしていた。
狼少女はまるでこの世の終わりが来たかのような慌てようだ。実際、ルゥのなかではそこまで想像が進んでいるのかもしれない。
どうしよう、どうしようと手を揉み絞る狼少女にシグナムが笑いかける。
「ルゥ、太陽ってのはな……」
言いかけたところで、シグナムの笑顔が悪い笑みに変わった。なにやらいたずらでも思いついたらしい。
「おねえちゃん……?」
不安そうにする狼少女と目線を合わせ、シグナムは唇に人差し指をあてた。
「しッ……静かに!」
びくりと肩をふるわせたルゥが両手で口許を押さえる。
シグナムは緊張感を漂わせつつ、今まさに沈みゆく太陽を指し示した。
「ようく耳を澄ませてみな」
意味がわからない、といった顔をしながらも、素直なルゥはじっと太陽を注視する。そして遠く水平線にその輪郭が重なった瞬間――
「――聴こえたか?」
「……え、なにが?」
真剣な顔のシグナムに、困惑著しい狼少女が問い返した。
「いまジュッて音がしたろ。……あれはお日さまが消える音だ」
「ええぇ!? ………………きこえなかったよ??」
シグナムとお日さまを何度も見比べながら、すこし混乱してしまったルゥは目をくりくりとさせる。
「おい、あんまり子供をからかうなよ。すっかり信じちまってるじゃねえか」
ふたりのやり取りを聞いていたらしいコバルト船長が、見兼ねたようにシグナムをたしなめた。彼はコツ、コツ、と独特な足音でルゥの前に立ち、膝を落として目線を合わせる。
「いいか嬢ちゃん、太陽ってのはな……」
コバルト船長は、四半刻ほどで解りやすく『地動説』を解説し、その意外な博学ぶりを発揮した。
しかし狼少女は終始、うさんくさ気な顔で彼を見ていた。
深夜、あらかたの水夫が眠りについたかという頃合いに、アルフラは妙な気配を感じて船室を出た。魔剣を片手に階段へと向う途中、不意に前方右手の扉が開き、寝間着姿のジャンヌが飛び出してきた。その出で立ちを見たアルフラがかるく眉をひそめる。神官娘の纏った衣服はほぼほぼ脱げかけており、裾もおおきく捲れて白い腿が剥き出しとなっていた。
まるで暴漢にでも襲われたかのような有り様である。
「あ……アルフラさま!?」
敬愛する女神の視線に気がついたジャンヌは、羞じらいの素振りで着乱れた衣服を整えだした。――しかし間髪置かず船室からまろびでた狼少女がジャンヌの腰に飛びついた。
なにやら微笑ましげに組んづ解れつしだした二人に向けられるアルフラの目はとても冷たい。
「……なにを、してるの?」
その声でやっとアルフラの存在に気づいたルゥが、驚いた様子でジャンヌから手を離した。そして神官娘をにらむようにして指をさす。
「あのね! ジャンヌがボクとおなじ部屋はやだって言うの!」
「それはルゥが厭らしいことをしようとするからではないですか!」
「え……」
アルフラがめずらしく驚いたような顔で二人を見比べた。
「あなたたちって……ほんとうにそういう関係だったの?」
「そうだよ!」
「ちがいます!!」
食い気味に否定した神官娘に、ルゥは「え?」という表情だ。
「……いやらしいことってなに?」
憮然とした顔の女神さまに問われ、神官娘はあたふたとしながらも口を開き、
「それは……」
羞恥のあまり言葉をにごした。
「……なに?」
信仰する女神に問い詰めらては答えないわけにもいかず、ジャンヌは消え入るような声でぽそりとつぶやく。
「お、おしりに……へんなものを……」
「へんなもの?」
「それは……き、季節のお野菜や……いかがわしい形のしっぽを……」
たちまち頬に朱を散らせ、ジャンヌは尻すぼみに言葉を途切れさせてしまう。
一瞬、なにを言われているのか分からず真顔になったアルフラであったが、理解が追いついたとたん、とても嫌そうな顔になる。どうやらあまり羨ましくは感じられなかったようだ。ルゥとジャンヌにとっては幸いである。
「あ、あの、わたしはきっぱりと拒んでいるのですが、ルゥが無理矢理……」
「でもね、ぎゅっぽぎゅっぽしてあげると、すぐにジャンヌはあんあん――」
「言いません!」
かなり強めのげんこつが狼少女の頭頂部に落とされる。
「にゅっこにゅっこ?」
「言い方の問題でもありません!」
アルフラの白い視線に気づいたジャンヌが言い訳がましく早口でうったえかける。
「あの、わたしはあんあんなどとはしたない声を出したりは――」
「こいつはとんだ淫乱だぜっ」
「――ルゥ!!」
ふたたび降り下ろされたげんこつを、狼少女はひょいっとかわす。
「お願いですからすこし黙っててください! アルフラさま、わたしはほんとうに――」
「へっへっへ、うえのおくちは正直だな」
「――っ!」
みたびこぶしを振り上げた神官娘であったが、その姿勢のまま動きを止め、こてりと首をかたむけた。
「上の口が正直…………それはふつうに正直者ということでは? もしかして誉め言葉なのでしょうか……?」
真摯に考えはじめたジャンヌの肩が掴まれ、船室に押し込まれる。
「え……アルフラさま?」
振り返ると、意地の悪げな笑みを口許に浮かせた女神さまと目が合った。
アルフラはふと思い出したのだ。自分の名をあやしげな呪文に使った神官娘にお灸を据える予定だったことを。
「あなた、これから毎日ルゥと一緒に寝てあげなさい」
「――ええ!? そんな……」
悲壮な顔でジャンヌは絶句してしまう。その信仰心ゆえに反論できないのだろう。
「わあぁ、アルフラありがと!!」
ルゥはおおはしゃぎだ。
ぱたりと閉じられた扉からは悲鳴らしき声が漏れ聞こえていた。
かるい意趣返しを終えたアルフラは満足して上甲板への階段を登る。
かすかな波の音に耳をかたむけつつ船縁に立ち、暗く穏やかな海面をのぞき込む。そこには追い風を受けて疾駆する帆船に列ぶ者があった。人影とも魚影とも形容可能な海の稀少種。――人魚である。
見られていることに気づいたその人魚は、アルフラに無邪気な笑顔を向けておおきく手を振ってきた。上半身は美しい女性の造形。豊かな翠の髪を波打たせ、同じ色合いの鱗を備えた下半身には見紛うことなき魚の尾びれ。
アルフラはさきほど感じた気配の正体を確認したとたん、それに対する興味を失った。あまり腹の足しにはならないと見積もったのだ。
しきりと手を振る人魚に背を向け、中層甲板の船室へと戻る。――途中、ジャンヌとルゥの部屋から緊迫感に満ちたさけび声が聞こえてきた。
「な、なんですかそれは!?」
「……ちょっとお高い秋野菜?」
「変態!変態!変態!変態!!」
室内からは激しく争う物音と荒い息づかい。
「おやめなさい! そんなものが入るわけ……」
「――あ、はいっちゃった」
「あひぃ!?」
アルフラは足を止めるでもなく素知らぬ顔で通り過ぎ、自室の扉を開いた。




