献身の怪物(前)
一行が旅籠に戻ると、部屋ではすでに二人の下男が大きな桶に湯を張っている最中であった。商会長エーギルが遣いを走らせて用意を命じていたのだ。
抜かりのないその対応に、フレインが苦笑混じりにひとりごちる。
「如在のない方ですね」
ジャンヌがルゥをくるんだ外套に手をかけたのを見て、彼はすこし時間を潰してくると告げて部屋を出た。
「ちょっと熱いな。平気か?」
湯加減を見ていたシグナムが尋ねると、ルゥは湯気を立てる桶にそろそろと爪先を降ろす。
「ひゃう……」
やはりすこし熱かったらしく、いったん足を引いた狼少女はぷるぷる震えながら足を湯に沈めた。
「ぅひい…………あついけど、きもちいい~」
ジャンヌはみずからも少年たちの体液で汚れた祭服を脱ぎ、用意された布を湯に浸す。それをかるく絞り、桶の中で座り込んだルゥの顔にあてた。
「んうーー」
額や頬を優しく拭ってやると、うれしそうに目を細めたルゥが神官娘に抱きついてきた。
「すこし拭きにくいのですが……」
そうぼやきつつも、ルゥを引き剥がすことはしない。体温が高く肌もすべすべなルゥに抱きつかれると、その温もりがとても心地良いのだ。ジャンヌは背中に腕を回して抱き返すようにしながら、狼少女の体を清めていく。
「ひゃっ、くすぐったいよ!」
薄く色づいた胸の先端や股間の柔肉を布で擦ると、ルゥはきゃっきゃと悲鳴をあげて身をよじらせた。ジャンヌに反撃しようと手を伸ばすが、倉庫から回収された月長石はシグナムが持っているため、あっさりと押さえ込まれる。
「おねえちゃん助けてー」
両の手首を掴まれて、そのままぷらんと吊り下げられてしまったルゥがじたばたと足で湯を蹴る。
「あんまり暴れるなよ。床がびしょびしょだ」
桶の中に浮いた布を手に取り、シグナムは狼少女の尻をぺちぺちと叩いた。
「ん、だいぶ綺麗になったな」
「じゃあつぎはボクの番?」
「いえ、髪を洗ってからですわ」
「えぇー」
身体的なふれあいで安心感を得られたのか、泣き腫らした目許以外は普段の元気な狼少女に戻ったようだ。良くも悪くもルゥは純朴で単純なのである。
無邪気な嬌声が響く室内で一人、アルフラだけが部屋の片隅で心の原風景をうっとりと見上げていた。
翌日、陽が高く昇りきってから目を覚ました一行は、船旅に備えて買い出しへ行くことにした。
「あたしとフレインで市場に行ってくるから、ルゥとジャンヌは留守番だ」
「えっ、市場にゆくの!?」
さすがに昨日の今日なので、シグナムは気を回してルゥを部屋に残して必要な物を揃えに行こうと考えたのだが、
「ボクも行きたい!」
狼少女がすごい勢いで食いついてきた。
かしこいルゥは知っているのだ。市場には美味しい物がたくさんあることを。
「……お前、昨日はとんでもない量を食っただろ」
昨夜はホルムワンド商会の持ち店で、酒池肉林の宴が催されていた。ルゥは文字通り産卵期の鱈のように腹が膨れるまで飲み食いし「ここに住みたい」と言い出すほどのご満悦だった。
シグナムが狼少女の額を指でぐりぐりとやり、咎めるように言う。
「いくらなんでも食い過ぎだろ。今日はおとなしく留守番してな」
このままでは本当に置いていかれると思ったルゥは、昨日からなんでも言うことを聞いてくれるジャンヌの手を掴む。期待に満ちた目で見上げると、案の定、神官娘は口許をほころばせて笑みを返した。
「よろしいのではないですか。シグナムさまからお預かりした金子もだいぶ残っていますし、今日はわたしもルゥから離れないようにしますわ」
「ああ、それならまあ……」
顎に手をあててすこし考えるような仕草をしたシグナムがアルフラの方を見る。
「あたし、ピナの鞘を取りにいく」
「そうか……じゃあとりあえず市場まで一緒に行こう」
五人揃って部屋を出た一行は、昼の強い陽射しに照らされながら街路を歩く。
「なあ、アルフラちゃん。とりあえず細工師の店で鞘を受け取ったあとは、部屋に戻ってあたしたちが帰るのを待っててくれ」
アルフラを一人で行動させるのは色々な意味でとても不安だ。できればシグナムも同行したいところではあるが、最近のアルフラは露骨に人を拒絶する空気をまとっている。
「なにか欲しい物があれば買っとくけど……どうする?」
話を聞いているのか、アルフラは虚空を見上げたまま無言であった。こうなっては会話が成り立たないことを百も承知なシグナムは、それ以上無駄に言葉を重ねることなく口を閉ざす。
本来、治安の悪い街中を異国の子供が一人で歩いていれば、たちまち面倒事に巻き込まれるのが世の常である。しかし常人にも解る、あからさまに異常な存在感を放つアルフラに、みずから関わろうとする者などそうそう居ないはずだ。
自分にしか見えない想い人になにやら語りかけだしたアルフラのうしろ姿を見送り、シグナムたちは雑貨などを扱う露店の前で足を止めた。
「ねえ、あれなに?」
雑貨屋の斜向かいを指差したルゥが、神官娘の袖をくいくいとやる。見ればそちらの露店では大きな釜を、これまた大きな木ベラのようなもので掻き混ぜる店員の姿があった。
「なんでしょう。とても香ばしくてよい匂いがしますね」
「釜飯だよ」
気の良さげな雑貨屋の店主が二人の疑問に答える。
「米と具材をだし汁で炊き込んだ料理だ」
「おいしそうっ!」
食欲をそそるその匂いにやられてしまった狼少女は、いまにもよだれを垂らしそうな勢いだ。
「シグナムさま、すこしあちらへ行ってきます。お二人の分も買ってきましょうか?」
「いや、あたしはいい」
「私も結構です」
ルゥはジャンヌの左腕を抱いたまま、ぐいぐいと引っ張る。
「あわてなくても屋台は逃げませんよ」
旅籠を出てからの狼少女は終始、ジャンヌの腕にぴとりとくっついたままだ。すこし歩きにくそうにする神官娘ではあったが、それでも邪険にすることなくルゥの歩調に合わせている。――そんな二人をシグナムとフレインが微笑ましげに見ていた。
「あいつに任せとけば大丈夫そうだな」
「そうですね」
普段と変わらず奔放な様子の狼少女であるが、ちゃんと学習能力はあるらしく、ジャンヌから離れることはしないし、同じ年頃の少年を見かけると、じっと警戒の眼差で見やり、決して近づくことはない。月長石も巾着袋に入れ替え、しっかりと首から下げている。それは人目につかないよう貫頭衣の下に隠されているので、昨日のような事はもう起こらないだろう。
「よし、つぎは酒屋だな」
一通り雑貨を物色しおえたシグナムが顔を上げた。
「え、昼間からお酒ですか」
すこし嫌な顔をしたフレインに不本意そうな声が返される。
「酒場じゃなくて酒屋だ。すくなくても半月以上の船旅になるんだ。酒は必要だろ」
「それはわざわざこちらで用意せずとも、エーギルさんに頼んでおけばよいのでは?」
「いや、こういう港町にはいろんな国の酒があるんだ。そりゃ自分で選びたくなるのが人情ってもんだろ」
「はぁ……」
きらっきらと瞳を輝かせるシグナムを見て、フレインはあいまいにうなずいてみせた。
内心で、食べ物に釣られたときの狼少女とあまり変わらない目をしているな、と思うフレインであった。
その日の夜もエーギル主催の宴に招かれた一行であったが、まだ宵の口といった頃合いにも関わらず、アルフラは早々に旅籠へと戻ってしまった。当然のように付き従おうとしたジャンヌであったが、ついてくるなとひと睨みされたうえ、ルゥがまとわりついて離さなかったため、それを断念せざるえなかった。それから半時(約一時間)ほど経ったころ、フレインが神官娘の耳許でこうささやいた。
「ルゥさんは私が見ていますので、アルフラさんのところに行かれても大丈夫ですよ」
ジャンヌがとなりに目をやると、ルゥは大きな皿を両手で掴み、中身の海鮮煮込みをごくごくと飲み干している最中だった。
「今日は一日中、ルゥさんのお守りでお疲れでしょう?」
「疲れてはおりませんが……」
口ごもりながらも、やはりアルフラのことが気になるらしく、ジャンヌは扉とルゥを交互に見比べる。
「……感謝します」
短く告げて席を立ったジャンヌを見て、ルゥも皿を持ったまま立ち上がった。
「どこゆくの? おしっこ?」
ついて行く、とうれしそうにジャンヌの手を握ったルゥへ、いつになく真摯な口調のフレインが呼びかける。
「ルゥさん。すこしお話があります」
「ん……?」
ジャンヌはみずからの手からルゥの掌をやんわりと開かせ、おさな子に言い聞かせるように告げた。
「わたしは先に部屋へ戻りますので、ルゥはもうすこし食事を楽しんでいてください。夜はちゃんと一緒に寝てあげますから」
「うんっ、わかった!」
最後の一言が効果覿面であったらしく、狼少女は満面の笑みでうなずいた。
ジャンヌが店の扉から出ていくと、ルゥはフレインへと向き直り、ふだんよりもいくぶん低めの声で尋ねる。
「なに、お話って?」
「……大切な話です。ここではなんですので、場を移しましょう」
言いつつフレインの視線が正面に座るシグナムへと流された。
「え、あたしもかよ……もうすこし呑んでからじゃだめか?」
不満をこぼしたシグナム同様、ルゥもまだ食べたりないようだ。手が骨付き肉の方に伸びている。
「もし私どもに聞かれたくない話をなさるのなら、人払いをいたしましょうか?」
気を利かせたエーギルの言葉に、フレインはゆっくりと首を振る。
「やや込み入った話になるかもしれませんので」
「そうですか……ではせっかく用意した料理ですし、残りは包んで皆様の部屋へお持ちしましょう。もちろん酒壺も添えて」
「助かります」
エーギルの言葉でしぶしぶ納得した顔のルゥとシグナムを同行し、フレインたち三人は店をあとにした。
「……って、あたしらが泊まってる旅籠かよ」
三人の向かった先は、一行が宿泊している部屋のすぐ隣、まったく同じ間取りの一室であった。フレインが昨夜のうちに追加で借り受けていたのだ。
「なんでわざわざこんな……アルフラちゃんやジャンヌには聞かれたくない話なのか?」
「いえ、そういう訳ではありません。これからする話は、あのお二人にとってまったく無意味なものですから。――それに、ジャンヌさんのいないところでルゥさんにはお尋ねしかったのです」
フレインは二本の燭台に灯をともし、手にしたカンテラを壁掛けに吊り下げた。そして席に着くようシグナムとルゥを促す。
「……で、話ってのは?」
土産に持たされた火酒の壺を卓に置き、シグナムが椅子に腰かけた。ルゥは子供用のものがなかったため、みずからにはいささか高すぎるそれによじ登る。
「率直にお訊きします」
日頃から回りくどい物言いの多いフレインではあるが、このときは前置きもなく話を切り出した。
「お二人は本当に魔族の領域へ渡ってもよいのですか? かなりの確率で生きては帰れませんよ」
「……いまさらかよ」
シグナムは壺から直接火酒を煽り、熱い息をはく。
「んなもん承知のうえだ。あらためて話すようなことでもないだろ」
「……そうですね。このところの散財のしかたを見るに、シグナムさんは充分にその可能性を考慮しているのだと感じました」
シグナムはこれまでに貯めた資金の証文をホルムワンド商会に売り払い、かなり高額な渡航費を工面したうえで、ルゥやジャンヌにも必要以上の金を持たせたりしている。おそらく彼女は、墓まで金を持って行っても使い道がない、と考えているのではないだろうか。
「……まあ、そうだね。五分五分くらいで死んじまうかもしれないな、とは思ってたさ」
「本当にそれでよいのですか? 目的地である皇城では、幾人もの魔王たちが待ち構えているはずです。しかし私たちではロマリアのとき同様、アルフラさんの力にはなれません」
事実、アルフラと魔王口無との戦いは、巻き込まれただけで確実に命を失うであろう激烈なものであった。シグナムたちはその猛威が及ばぬ遠方に待避する以外にできることがなかったのだ。
「いまのアルフラさんは、誰の助けも必要と――いえ、白蓮様以外の誰をも必要としていません。シグナムさんが無理に同行する理由は……もうないのでは?」
フレインのいう通り、アルフラは仲間を必要としていない。かつては確かにあったはずの信頼も、すでに失われて久しい。この状況でシグナムが命を張ってまで同行する理由など、まったくもって見当たらないのだ。
「――アルフラさんは、変わってしまわれたのですよ」
淡々と断じたフレインに、間髪置かず否定の言葉が返される。
「いや、そうでもねえよ」
酒壺を深く傾けたシグナムは、物問いたげな視線を向けるフレインに笑いかけた。
「エンラムに来る途中の峠道でさ、ルゥが獣人の牝狼を捕まえてきたろ」
迷子になってたから助けてあげたんだよ? と言い張る狼少女に苦笑を浮かべつつ、フレインはかるく首肯した。
「あの夜にな、たき火をじっと眺めるアルフラちゃんを見てて思い出したんだ」
唇をきつい火酒で湿しながら、シグナムは懐かしそうに目を細める。
「あれは……初めてアルフラちゃんと出会って、傭兵団の本隊と合流した日の夜だったかな……」
めずらしくしんみりとした語り口のシグナムに、フレインとルゥはあいづちを打つこともなくただ聞き入る。
「あの夜は団の隊長たちを集めて朝方まで呑み明かしたんだ。うちの団は四百人からの大所帯でさ、見た目も中身もそこらの山賊と変わりのない荒くれ揃いで……あたしたちが囲んだたき火のまわりじゃ、酔っぱらいどもが鍋でもひっくり返したような大騒ぎをしてたな。まあ気性は荒いが、みんなそれなりにいい奴ばっかだったよ」
いまでは喪われてしまった気の置けない仲間たちを想い、その声には隠しきれない悲哀が滲んでいた。
「あたしは酒を呑みながらね、戦って強くなりたいって言うアルフラちゃんに、だったら傭兵に混じって戦争をやるより剣の稽古でもしてた方がいいって話をしたんだ」
シグナムは火酒の壺を置いて大きなため息を落とす。
「いま考えると信じられない話だよな。あの頃からアルフラちゃんは強かったけど、それでも剣士としてはそれなりの腕がある、って程度だ。いまみたいに神憑ったデタラメな強さはなかった。かるく手合わせしたときはあしらうことも出来たし、オークどもに囲まれりゃ普通に苦戦もしてた。いかつい傭兵どもにびびって、あたしの背中に隠れたりしたこともあったんだぜ。――な? 信じられない話だろ? ……それが一年も経たないうちに、今の有り様だ」
とりとめのない思い出話をしながら、シグナムは火酒で濡れた唇を親指で拭う。
「ああ、話が飛んじまったな。とにかくあたしはね……あの夜、たき火の前に座りこんだアルフラちゃんを見て、まるで泣き疲れて膝を抱えこんだ子供のようだなって思ったんだ」
シグナムの黒い瞳が微かに潤みを帯びていることに気づき、フレインはなにか見てはいけないものを目にしたかのような心持ちとなってしまう。
「たぶんあの時からだな……あたしがアルフラちゃんを守ってやらないといけないって思ってたのは」
「……ですが――」
「ああ、いまはもう、アルフラちゃんは誰の助けも必要ないよな」
母性を感じさせるシグナムのやわらかな表情は、どこか悲しげだ。それが伝播したのか、フレインの心中にも形容し難い複雑な思いが込み上げてくる。
「でもさ、アルフラちゃんは確かに強くなったけど、あの頃からすこしも変わってないよ。――いや、成長してないって言ったほうがいいかな。あたしの中ではね、いまでもアルフラちゃんは、泣きつかれて膝を抱えた子供のままなんだ」
シグナムの言う通り、たしかにアルフラは成長していない。雪原の古城で、白蓮に捨てられたのだと泣き叫んだあの日から、その精神は一歩も前に進めていないのだ。
「……どの道ね、傭兵になると決めたときから、長生きできるなんて思っちゃいないよ。あたしの仲間もみんな死んじまったしね」
強い酒精を一気に呑み干し、シグナムは口許をゆがめて笑みを作った。
「――太く短くってのも、悪かない生き方さ」




