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氷の滅慕  作者: SH
六章 悲恋
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狼少女と秋の空 ときどき刈り入れの女神



 南方の獣人族とおぼしき雌狼が去ったのち、ジャンヌは湯を沸かしてルゥの体を拭いてやることにした。

 雨後(うご)の雑木林を歩き回った狼少女は全身泥だらけで、汚れた服はすべて剥ぎ取り洗い(おけ)の中に入れる。替えの貫頭衣(かんとうい)と下着もすでに用意済みだ。

 服を脱がせるさい、ルゥはきゃっきゃと嫌がりジャンヌの手をわずらわせた。それでも湯をしぼった布を体に当ててやると、気持ちよさげに目を閉じて静かになる。


「あら? 腕にすこし血がついていますね」


 ルゥの右肘あたりに乾いて赤茶けた血液が付着していた。


「木のえだにひっかけたの。でももう治ったよ」


 その言葉通り傷痕は見あたらないようだ。濡れた布で入念に擦ると、しみひとつない真っ白な肌が(あらわ)となる。成長期の子供らしくやや骨張った腕を掴み、ジャンヌはしみじみとつぶやいた。


「ルゥはたくさん食べるのになかなか肉がつきませんねえ」


「むねはちょっとおおきくなったよ?」


 ぺたりとしたそこへ目をやった神官娘は、真顔で首を横に振る。


「たぶん気のせいですわ」


「えー、そんなことない……あっ、見て見て!」


 ルゥはあまり成長の痕跡が見られない胸を指さす。


「どうしたのですか?」


「ちくび立ってる!!」


 なにが嬉しいのか、ルゥはにこにこと満面の笑顔だ。淡い桜色の先端を布で拭いてやると、すこし痛かったらしく悲鳴をもらして体を引く。しかしまたすぐ突きだすように胸を張り、ジャンヌに拭くよう催促してくる。


「つぎは背中です。うしろを向いてください」


 たんねんに胸や腰を清めたあと、向き直ったルゥの首筋から背中にかけて(ぬぐ)っていく。背には(わず)かに背筋が付いており、おさないながらも狼少女の薄い体は非常に均整がとれていた。


「ルゥはとても綺麗な体をしていますね」


「うん! おねえちゃんみたいなおっぱいになるの」


「それは……ルゥのお母さまがシグナムさまと同じくらい胸が大きいのなら可能性もあるかと思いますが……」


 ジャンヌのもっともな意見にルゥはしょんぼりとした顔をしていた。


「まあ、夢は大きいほうがよいと思いますよ」


 胸が大きいほうがいいな、とつぶやいた狼少女の体を拭き終え、ジャンヌは着替えを手に取る。


「こんどはボクがふいてあげるねっ」


「いえ、結構です」


 かるく身の危険を感じた神官娘はやんわりと断り、ルゥの頭に貫頭衣をかぶせた。


「シグナムさまが夕食の支度(したく)をして待っていますわ。ほら、早く服を着てお行きなさい」


 むずがる狼少女の背を押して強引に食事へ向かわせたあと、ふと気づく。


「あ……下着」



 ルゥのかぼちゃぱんつがぽつりと残されていた。





 残り湯でみずからも体を清め、ジャンヌは手早く身支度を整える。その後ぱんつを片手にたき火の前に行ってみると、ルゥはすでに食事をすませて天幕に戻ったあとだった。シグナムは神官娘の手にしたぱんつに怪訝(けげん)な顔をしつつも、木椀によそった夕食をジャンヌに手渡す。


「食事はあとでいただきますわ。とりあえずルゥにぱんつをはかせないと」


 ああ、そういうことか、と納得したシグナムはかぼちゃぱんつを見て笑っていた。


「じゃあ椀はたき火の前に置いとけよ。そうすりゃしばらくは冷めないだろ」


「そうですわね」


 言われた通りに木椀を置いた神官娘は、すこし離れた天幕へと向かう。その表情はかるく(こわ)ばり、軽度の緊張が見られた。以前に何度か天幕の中で待ち伏せをされ、不覚を取ってしまった苦い経験があるのだ。ジャンヌは用心深く気配を殺し、忍び足で天幕に近づく。そっと中をのぞきこんでみるが、天幕内は真っ暗で様子が判然としない。すやすやと寝息らしき音が聞こえるもののジャンヌに油断はない。夜の狼少女がケダモノであるということを彼女は忘れていなかった。しかも今現在、狼少女はぱんつを履かずにジャンヌを待ち構えているのだ。非常に危険な状況である。

 しばし夜闇に目が慣れてくるのを待ち、意を決した神官娘は天幕の入り口をくぐる。両の(こぶし)には鉄鎖が巻かれ迎撃準備も万全だ。いまなら爵位の魔族に不意を打たれても返り討ちにできるだろう。しかし狼少女のものとおぼしき寝息は途切れることなく、月明かりに透かし見た天幕内にも動きはない。どうやらルゥはほんとうに眠っているようだ。

 ジャンヌは安堵の息を()いて狼少女の枕元にしゃがみこむ。なにかよい夢でも見ているのか、ルゥの口が時折(ときおり)むにむにと動いていた。毛布を肩まで掛けてはいるが、すこし暑かったらしく右足だけをぴょこりとはみ出させている。


「寝ているときはほんとうに可愛らしいですわね」


 小声でつぶやいたジャンヌはぷにぷにとしたルゥの唇を指でつつく。そのゆたかな弾力をしばらく楽しんでいると、すこし嫌がるように狼少女が身じろぎをした。ながい睫毛(まつげ)がわずかに震え、目許に落ちた影がかすかに揺れる。それでもルゥが起きる気配はない。日中はほとんどお昼寝をしていなかったので眠りも深いようだ。

 早々(そうそう)にぱんつを履かせることを諦め、神官娘は祭服を脱いで肌着姿となる。そして静かに毛布をめくり、ほどよく人肌に暖まったルゥの隣へともぐりこむ。



 ジャンヌが夕食を()り忘れていたことに気がついたのは、翌朝のことだった。





 その日は早朝から積み荷の移し替えが始まった。壊れた車軸の修理が上手くいかず、荷馬車を捨てることになったのだ。小型の天幕や寝具をちいさくまとめ、二頭の馬にくくりつける。アルフラたちが乗る馬車にも、可能な限りこまごまとした荷物が積み込まれた。いざ出発という頃合いには日射(ひざ)しも強くなり、革鎧を着込んだシグナムは汗ばむほどの陽気となっていた。


「もうすぐ冬だってのにレギウスじゃあり得ない暑さだな」


 やや辟易(へきえき)とした調子でぼやき、御者台に座ったシグナムは革鎧の留め具を外す。風通しのよくなった胸元から(こも)った熱気が抜け、それで幾分(いくぶん)ましになった。ついでに腰を締め付ける剣帯(けんたい)も外して長剣だけを手元に置く。やや不用心とも思える(てい)たらくではあるが、すでに雑木林を抜けて周囲は見通しが良くなっている。遠目には草を()む山羊が数頭()れており、いかにものどかな牧草地が広がっていた。

 ゆるやかな峠道を進んでゆくと、やがて大きな平屋造りの建物が見えてきた。柵で囲まれた広い敷地の中では多くの子供が楽しげに駆け回っている。みなしごを集めた孤児院であろうか、と予想をつけたシグナムであったが、周囲に大人の姿が見あたらないことを不審に思う。子供たちの中には幼児といえるおさな子も混じっているため、本来なら孤児院の職員が見守っていて(しか)るべきはずなのだ。

 なにか釈然としないものを感じて周囲の様子をうかがっていると、四歳ほどの女の子がシグナムに向かって両手を振ってきた。子供好きな女戦士は思わず頬をゆるめて手を振り返す。するとその幼女がよたよたと駆け寄って来たのでシグナムは手綱(たづな)()って馬車の速度を落とした。


「これ、あげるー」


 背伸びをして差し出された幼女の手には、麦の穂がひと(ふさ)にぎられていた。やや面食らいながらも、ありがとうと笑いかけると、幼女も満面の笑みを返す。


「むびょーそくさいのおまもりなんだよー」


 麦穂を受け取ったシグナムは大げさに驚いた顔をした。


「そうか、こいつはありがたいな。大事にするよ」


 その言葉を聞いて満足げにうなずいた幼女は、友達らしき少年に呼ばれてそちらへと走ってゆく。


「知らない大人に近づいたらだめだって、ちぃねえちゃんに言われてるだろ」


 幼女よりすこし年上らしき男の子の声が聞こえてきた。もしかすると彼女の兄なのかもしれない。かるいお小言が始まったようだ。その様子をほほえましげに見やり、視線を正面に戻す。孤児院の先は一面の麦畑であった。ちょうど収穫の時季らしく、豊かに実った麦の穂先は重々しく垂れ下がっていた。


「この辺りはずいぶんと収穫期が遅いんだな……」


 なんとはなしに麦畑を(なが)めていると、街道の左手にちいさな人影が見えた。緋色の衣をまとった細い少女だ。手には長柄(ながえ)の大鎌。慣れた仕草で麦を刈り入れてゆく。その姿を視認した瞬間、シグナムは顔ごと少女から目を逸らしていた。なぜかそちらに視線を向けることができない。いつの間にか鼓動が早鐘を打ち、一刻も早くこの場から遠ざかりたいという焦燥感に(とら)われる。その感情の出所(でどころ)は、あらがい(がた)い畏怖心であった。小刻みに震える手で馬に鞭を入れようとしたとき、後方で馬車の戸が音をたてて開かれた。

 視界の端をアルフラが駆けてゆく。しかしシグナムはそちらを見ることができなかった。アルフラの向かう先には、緋色の少女がいるのだから。


 死を恐れる者は決して彼女を直視できない。

 死を恐れぬ者も本能がそれを忌避(きひ)する。

 ましてや死を望む者は彼女の前で正気を(たも)つことすら不可能であった。

 ゆいいつ死という概念を理解しえないおさな子だけが、その姿を視界におさめられる。もしくは生存本能の機能していない真性の狂人だけが――



 大鎌の少女は、そういった存在であった。





 不意に感じられた異質な気配。

 アルフラはその少女に興味を()かれて馬車から飛び降りた。鞘に納めた魔剣を左手に持ち、少女へと歩み寄る。すぐに彼女は麦を刈る手を休めて顔を上げた。背丈も年の頃も似通った二人であった。

 目線の高さはほぼ同じなのだが、その少女にはどこか他者を見下すような尊大さがあった。しかし不思議とそれが不快に感じられない。――それも当然であろう。生と死は平等ではない。彼女は常に勝者なのだから。


「こんにちは、アルフラ」


 少女はアルフラの目を見つめて笑いかける。長い黒髪に紅玉のような赤い瞳。肌は白磁(はくじ)の硬質さ思わせる白。緋色の長衣がはたはたとそよ風に(なび)く。


「以前から直接会ってみたいと思っていたが……そちらから来てくれるとは中々の僥倖(ぎょうこう)だ」


 初対面であるにも関わらず親しげに話しかける少女に、アルフラは不可思議な面持(おもも)ちを向けていた。


「それにしても……ずいぶんと死臭がきついな。私よりも余程仕事をしているとみえる」


 非常に好ましげな目で少女は語りかける。アルフラもなぜだか彼女に対しては敵意というものが湧いてこない。

 大鎌を装飾品のように片手で(もてあそ)び、少女は笑みを深める。


「どうした? 私ばかりしゃべっているではないか」


 無言で見つめ返すばかりのアルフラに、少女はすこし不満げに目を細めて首をかしげた。


「私は敵ではないぞ? お前が弟を殺したことも別に怒ってはおらん。あの不甲斐ない愚弟をこの手にかける手間が省けたとさえ思っている」


 アルフラは少女と同じ角度に首をかたむける。彼女の弟というのが誰を指しているのか分からなかったのだ。殺した相手をいちいち覚えていられるほど、アルフラは綺麗な手を持ち合わせていない。そして少女に対して感じる奇妙な親近感に困惑もしていた。――そういった思いを見透かしたかのように、ふむっと少女はひとつうなずく。


「まあいい。ならばお前の役に立つ話をしてやろう」


 少女は刈り取った麦を器用に大鎌でより集めながら話をつづける。


「私の弟は様々な権能を有していたが、お前は自分がそれを扱えることに気づいていないな? あれは戦いに向いた力は持っていなかったが、いくつかは使えるものもある。そう……たとえば支配の言霊だ」


「……なに、それ」


 はじめて言葉を返したアルフラに、少女はしたり顔で口角を持ちあげた。


「言葉で相手を従わせる術だ。たとえば動くなと命じれば、その声を聞いた者は動けなくなる」


 そこで少女はただし、と注釈をつける。


「なにかと便利な代物だが、慣れないうちは力の消耗も激しい。まあ、機会があれば試してみるといい。制約(ギアス)の魔法もこれの応用だな」


 ふと、少女の視線がアルフラを通りすぎてその背後へと流された。同時にぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。それはアルフラからすこし離れた位置で止まった。


「ちぃおねえちゃん、その子だれ?」


 シグナムに麦穂を渡した幼女だ。


「おともだち?」


「まあそのような……いや、まったくちがうな」


 そうなんだ、とつぶやいた女の子はアルフラを素通りして少女の腰に抱きつく。


「あのね、ティムがまたあたしのこといじめるの! ちぃおねえちゃんに言いつけてやるってゆったのに、ティムったらちぃねえちゃんなんかこわくないって!」


「ほぅ、それはお仕置きが必要だな」


 少女は慣れた手つきで女の子の髪を撫でる。その様子を見ていたアルフラの瞳から、彼女に対する興味が急速に薄れていった。 それを知ってか知らずか、少女はじっとアルフラを見つめていた。その瞳がゆるやかに(またた)き、なにか大切な秘密を打ち明けるかのように声をひそめて話しだす。


「アルフラ。私はこの世界を愛している。そしてこの世界に生きるすべての者が(いと)おしくてたまらないのだ」


 少女は右手で女の子を抱き上げて、その頬に優しく口づける。


「もちろんアルフラ、私はお前のことも愛している」


 片手に幼女を抱き、もう片方の手には大鎌を持った少女が愛を囁く。それはとても異様な光景であった。しかし同時にその生と死の対比はこれ以上もなく神々(こうごう)しかった。

 アルフラは無意識うちに深く呼吸をする。息を呑む、という感覚は実に久しぶりだ。


「人の持つ愛という感情に限りはない。お前のそれは一人の女にのみ向けられているが、ほんの(わず)かにでも周囲の者へ分けてやってはどうだ」


 少女は(くび)っ玉にかじりつくようにして(ほう)ずりしてくる女の子をあしらいながら告げた。


「このままでは……とても悲しい結末がお前の()く末に待ち受けているぞ」


 くだらない、と一言吐き捨ててアルフラは背を向ける。


「あたしは白蓮さえいれば、なにもいらない」


 すべてを拒絶する言葉を残してアルフラは歩きだす。 


「待て、最後にひとつ忠告だ」


 どこか(あわ)れむような声音(こわね)がアルフラの背を追いかける。


「お前は(いま)だ魔族の皇帝に及ばない。単身では勝ち目がないぞ。どうしてもあれを倒したいのであれば、竜の勇者と呼ばれる少年と共闘せよ。さすればかすかな勝機が見えてくるはずだ」


 真摯(しんし)に響く少女の声にも立ち止まることなくアルフラは馬車へと向かう。


竜の支配者(ベルサリカ)の姫君もそれを望んでいよう」



 歌うようなかん高い刃鳴りだけがそれに(こた)えた。

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