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氷の滅慕  作者: SH
六章 悲恋
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閑話――IF 始まらない物語



 蒼白く降りそそぐ月光の、冷たく冴えわたった秋の夜。

 突然の襲撃者により、その村は滅びようとしていた。

 息をひそめて村を包囲した獣頭の亜人、コボルトたちが大挙(たいきょ)して押し寄せて来たのだ。村人たちのなかには(すき)(くわ)といった農具でもって立ち向かった者もあったが、数に倍するコボルトたちによって次々と打ち倒されていった。村のいたるところから火の手があがり、野犬の群れが獲物を狩り出すように、コボルトたちは逃げまどう人間を追いつめてゆく。

 比較的村のはずれに位置する小さな家屋(かおく)にも、今まさに五人のコボルトが押し入ろうとしているところであった。一般的にほとんどの建築物は、予期せぬ襲撃にも対応できるよう、扉は内開きとなっている。中から家具などで戸口を塞げば、容易には扉を押し(ひら)けないように造られているのだ。しかし、助けの期待できぬ状況では、それもあまり意味がない。

 家屋の中では倒した食卓で扉を押さえつけて、コボルトたちの進入を(はば)んでいたが、それほど長くは持ちこたえられそうになかった。扉を激しく殴打する音とともに、木材が(きし)みをあげて内側へとたわむ。

 恐怖に息をのむ音がみっつ、屋内からほそく響いた。家主である男が、妻と娘に向かって耳打ちする。


「お前たちは裏口から逃げなさい。まだあちらは大丈夫なはずだ」


「おとうさんは!?」


 男は穏やかに笑い、まだ十歳になったばかりの愛娘に言った。


「俺はぎりぎりまでここでねばる。誰かがここで扉を押さえていないと、奴らはすぐにでも押し入ってきちまうからな」


 瞳いっぱいに涙をためた少女の頭を撫でて、男は妻の頬にかるく唇を触れさせた。


「身寄りはないが、クリオフィスへ行けばなんとかなるはずだ。俺もお前らが逃げたあとですぐに向かう」


 悲壮な表情で、しかしながらも力強くうなずいた妻を見て、男はうすくほほ笑む。


「お前はいい女だ。頭もいいし、聞き分けもいい」


 愛してる、とつぶやき口づけを交わして、男は妻の体を押し離した。


「ネリーを頼む」


 名を呼ばれた少女はびくりと身を震わせて、涙をしたたらせながら叫んだ。


「やだ! おとうさんも! おとうさんもいっしょに――」


 父の手を掴み、すがりつこうとするネリーを、母親が背後から抱き寄せる。


「私たちがいつまでもここにいたら、お父さんが逃げられないの。わかって、ネリー」


 その言葉に被さり、一際(ひときわ)激しく打ち叩かれた扉の上部が木っ端と砕け散った。開いた隙間から戦鎚を構えた襲撃者が身を乗り出す。


「早くいけッ!」


 男は叫びながら火かき棒を振り上げてコボルトを威嚇した。

 母から引きずられるようにしてネリーは戸をくぐる。さいわいコボルトたちが裏口に回りこんでいることはなかったが、村のそこいらじゅうを徘徊(はいかい)する獣頭の人影が見えた。

 ネリーは母から身を低くするように言われ、這うような姿勢で手を引かれる。襲撃者たちの目を逃れて、物影に隠れながらすこしでもその場から遠ざかろうとしたとき、凄まじい破砕音が背後から聞こえた。ついに扉が破られたのだ。

 野犬の唸るような恐ろしい声がいくつも聞こえ、激しく争う気配が感じられた。

 とっさに家の方へ駆け寄ろうとしたネリーを、母親が抱きすくめて口を塞ぐ。泣き声を上げることもできないネリーは、何事かを叫ぶコボルトの声と、弱々しく消えゆく父の悲鳴をただ聞いていることしかできなかった。



 少女のあたたかで幸せな家庭は、この日を限りに失われてしまったのだ。





 ネリーとその母親は(からすき)(牛馬に引かせる農具)などが置かれた掘っ立て小屋の陰に隠れて、じっと息をひそめていた。視線の先では、略奪をすませた五人のコボルトが家屋から出てくる。手に手に血塗れの凶器をたずさえた彼らは、つぎなる獲物を求めて村の中心部へと歩いていった。しかし、最後尾に位置するコボルトがふと足をとめる。しきりに周囲を見回して、ひくひくとその鼻面(はなづら)をふるわせる。そしておもむろに、ネリーたちが隠れる掘っ立て小屋へ顔を向けて、にたりと鋭い犬歯を剥いた。

 息をつめてその様子をうかがっていた母親は、ネリーの手を強く握りしめてその場から駆けだした。背後からは荒々しく吠えたてるコボルトが凄まじい勢いで迫ってくる。獣頭の襲撃者はその身体能力も獣並みに優れていて、とても女の足で逃げきれるものではない。ましてや子供連れではなおさらだ。じきに追いつかれるであろうことを悟った母親は、ネリーの手を離して叫んだ。


「――そのまま走りなさい!!」


 (きびす)を返した母親は、すぐ背後にまで迫ったコボルトの腰に組みつく。


「逃げて、ネリー! 早く!!」


 我が子を救うため、恐るべき追跡者に立ち向かった母親の背に、小剣が降り下ろされる。ざくりと突き立った刃は母親を串刺しにし、その口からくぐもったうめき声がもれた。すこしでも痛みに悲鳴を上げれば、ネリーが足をとめて戻って来てしまうと考えて、必死に苦悶を噛み殺す母親の背に、コボルトは何度も小剣を降り下ろす。そして母親の予想通り、ネリーは逃げることをせず――


「おかあさん!!」


 拳ほどの大きさの石を手に取り、母を責め(さい)む獣頭の怪物に飛びかかった。

 コボルトはぐったりと力を失った母親を払いのけ、小剣を振り上げた。しかしその動きはわずかに遅く、ネリーの手にした石が獣頭の横っ面に叩きつけられた。かん高い鳴き声を上げて倒れたコボルトに石を投げつけて、ネリーは母を抱き起こす。

 仲間の悲鳴を聞きつけて、周囲のコボルトたちが集まってくる気配があった。


「おかあさん! はやくにげなきゃ!」


 血塗れの母はぴくりとも動かず、激しい焦燥感にとらわれたネリーにその死は理解出来ない。

 泣き叫ぶネリーは、背中から抱きしめるように腕を回して、母の遺骸に呼びかける。


「あいつらがきちゃう!! おかあさん! おかあさん!!」


 視界の端に、こちらへ向かってくるコボルトたちが見えた。


「おねがい! おかあさん起きて! あいつらが!! あいつらが……」


 体のちいさなネリーでは母を抱き上げることもできず、ぬめる血に手を滑らせながらもその体を引き()っていく。

 ネリーは勇敢な少女だった。ふつうならば大人でも恐怖に身をすくめるような状況で、獣頭の怪物に立ち向かい、母を救おうとした。そしていまも、一人で逃げることなど考えもせず、自分より遥かに体の大きな母親を連れていこうと死力を尽くしている。――しかしそれで逃げきれるはずもなく、獣毛におおわれた手が、ネリーを捕らえた。

 髪を掴まれて乱暴に引き寄せられたネリーの腹に、小剣が突きこまれた。


「おかあ、さ……」


 横殴りに振るわれた戦鎚が、側頭部に叩きつけられる。



 ぐしゃりと凄まじい音が脳内に響くと同時、ネリーの意識はふつりと途絶えた。





 母親の体におおいかぶさるようにして倒れた娘を見下ろし、それを囲んだコボルトの一人が小剣を振りかぶる。虫の息である少女にとどめを刺そうというのだ。しかしその時――


 ルオォォォォ――――――――ン!!


 澄んだ夜気を引き裂いて、長く尾を引く遠吠えが響き渡った。

 威圧と警告の入りまじった咆哮(ほうこう)。それを耳にしたコボルトたちは、たちどころに恐怖で身を凍りつかせた。呼吸すらも阻害(そがい)する呪縛に(とら)われて、時が止まったかのように誰一人動くことができない。

 長い長い沈黙の後、ようやく金縛りから解き放たれたコボルトたちは、得物を投げ捨てて脱兎のごとくその場から駆け去る。彼らに呪縛をもたらした咆哮の主が、急速に近づきつつあることを気取(けど)ったのだ。

 コボルトたちを怯えさせた遠吠えは、昏睡(こんすい)していたネリーにもいくぶんかの影響を及ぼしていた。本来ならそのまま死にゆくはずだった少女は、うっすらと右のまぶたを持ち上げた。

 意識は混濁し、ネリーはなぜ自分が地面に倒れているのかよくわからなかった。(かすみ)がかった頭は思考をまとめられず、ぼんやりとしたまま立ち上がろうとする。


――……あれ? なんで、だろ……たてない……


 ちからの()えた体はまったくいうことをきかず、上体を起こすことすらままならない。


「おかあ、さん……あたし……たてないよ……」


 ひどく体が冷たかった。

 なにかとても大切なものが、急速にこぼれ出ているような感じがする。


「さむい……おかあさん、さむい」


――そういえば……きょうの夕食は……なんだろう


「……おかあさ……」


――あたし……おかあさんの作った、あたたかいスープが……のみたい……


「お、かあ……」


 あたりには、いつの間にか雪がちらつきはじめていた。

 それはひらひらとネリーを白くおおい隠してゆく。

 肌につめたさはなかったが、ただただ寒い。

 目がぼやけて周囲が暗くなってくる。

 その先には、死が感じられた。


 ネリーの意識と命が消えゆくすんぜん。そのかすみがかった視界のなかに立つ人影があった。

 ――それは美く、ひたすらに神々しい、ほっそりとした少女だった。傲然(ごうぜん)と、無慈悲に、冷淡に見下ろす氷の美貌。その姿は気高く孤高でなにより美しい。まるで女神さまのようだとネリーは思った。女神さま自身がお迎えにきてくれたのだと、そう思った。そのことに満足したネリーは、(くら)くやすらかな眠りのいざないに身をまかせる。


 もしこの時、ネリーにわずかでも助けを求める力が残されていれば、ほんの一言声を発することができていたなら、結果は変わっていたのかもしれない。しかしこの勇敢な少女の物語は、始まることなく戦火の波間に沈んでしまった。

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