天網恢々疎にして漏らさず(後)
シグナムたちがその場に駆けつけたときには、もはや横から口を挟めるような状況ではなかった。アルフラのわきに転がる死体を見て、すでにふたつの命が失われていることを把握する。荷台をおおう幌の左側面は、多量の返り血を浴びたらしく朱に染まっていた。そしてジャンヌが拾い上げた誰のものとも知れない右腕。
荷台の上でへたりこんだ少年を見て、シグナムがため息をついた。
「あのガキ……レギウスの旅籠でアルフラちゃんに乱暴したやつだ」
たんにアルフラが一般人を虐殺しているのではなく、その少年には相応の因果があったのだ。
「なんと罪深い……」
荷台の少年へ憎々しげな目を向けるジャンヌとは対照的に、フレインは嘆息するような声でつぶやく。
「それにしても……いささかやり過ぎなのでは……」
その言葉へ被せるように、じゃらりと鉄鎖の鳴る音が響いた。
フレインの正面に立ちはだかったジャンヌが、決してアルフラの邪魔はさせまいときつい眼差しで彼を睨む。
「殺気立つなよ、うっとうしい。フレインだって止めに入るほど命知らずじゃないさ」
「え、ええ……」
一歩踏み出しかけていた足を戻して、フレインは顔をうつむかせる。
「まあ、死体になってる奴らはまきぞいかも知れないけど、あのガキどもは自業自得だ。あたしたちが命懸けでアルフラちゃんから助けてやる義理はない」
相手が悪かったんだよ、と陰鬱な顔でシグナムはつぶやいた。
「ええと……なんだっけ……」
子リスのような仕草で首をかしげて、アルフラは鳶色の瞳をまたたかせる。
「……そう、あなたはあたしの目が気に入らないって言ったわ」
「ち、ちがう、ちがいます! 俺、言ってない……」
涙を流しながら頭を振るイザークの目の前で、アルフラは腰の短刀を引き抜く。いっそ怯えた声が訴えた。
「ほ、ほんとうだよ! きみの目つきが気に入らないって言ったのはペドロなんだ!!」
「うそばっかり」
アルフラは聞く耳もたぬとばかりにイザークの髪を掴んだ。そして短刀の刃先を彼の右目に突きつける。とたんに絹を裂くような悲鳴が上がった。
「やめてえぇぇ――――――!!」
エレンが背後からすがりつくようにイザークの体を抱きしめる。
「ほんとうなの! あなたの目が気に入らないって言ったのはペドロよ! 顔の包帯を剥いだのもイザークじゃないわ!!」
「……え?」
言われてみれば、たしかにそうだったような気もする。アルフラは少年たちの顔をよく覚えていなかったのだ。実際のところ、あの時のことをそれほど根に持っていたわけでもない。たまたま彼らの存在が知覚の網に引っ掛かったから今の状況があるだけで、積極的に少年たちを探すつもりもなかった。白蓮に絡んでいない事柄だけに、彼らへ対する仕返しはあまり重要でなく、この偶然の再会がなければ、いずれ忘れてしまっていただろう。
「お願いだからもうゆるして!! ペドロにもちゃんとあやまらせるから!」
泣き叫ぶエレンをじっと見つめ、ついで昏倒しているペドロに視線をうつす。ようやくおぼろげながらも記憶がよみがえり、自分の目を気に入らないと言って包帯を剥いだのは彼だったのだと思い出した。
ほっそりした肩をいくぶん落として、アルフラはすまなげにたずねる。
「もしかして……あたし、まちがっちゃった?」
「そうよ! だから――」
「いまさらそんなこと言われても……」
こまり顔でぼやいたアルフラであったが、それはこの場にいる全員が思ったことだった。ささいな勘違いから右腕を失う羽目となったペドロも、意識があれば同じ気持ちだったかもしれない。
「ええと……あたしの肩をふんだのは、あなたのほうなの?」
短刀の腹でひたひたと頬を打たれたイザークが小刻みにうなずく。彼はここに至り、みずからの行いを心底後悔していたが、それは永遠に手遅れだった。
「……じゃあしょうがないから、あなたは目だけでゆるしてあげるわ」
「そんな!? 俺は――」
理不尽な裁定を下され、唖然とした形相のイザークが言葉をつづける前に、冷たい刃が右の眼窩にもぐり込んでいた。
「――――ッ――――――――――ッッ!!」
聞き苦しい、割れた悲鳴をあふれさせるイザークを押さえつけて、アルフラは念入りに手首を捻る。刃先が眼窩底骨を削る感触にあどけない口許をほころばせて、短刀を引き抜く。そして手近な積み荷に刀身をこすりつけて刺さった眼球と視神経をこそぎ落とした。それら一連の行為を、ほほえみまじりに行ったアルフラを見て、エレンはひどく狂乱していた。手足をでたらめに動かして少しでも眼前の凶人から遠ざかろうと必死だ。しかしびくりと肩を震わせ、悲痛な叫びを上げる。
「いやっ、いやああぁぁぁ――――――!!」
アルフラの冷たい手が、彼女の足首を掴んでいた。無造作にエレンを引き寄せてその耳許にささやきかける。
「あなたはあたしの顔を見て、ばけものって言ったわ」
本来、アルフラに弱者を嫐って悦に入るような性癖はない。そういった発想自体を持ち合わせてはいなかった。もともとは純真な、無色透明な性根の持ち主なのだ。
かつて高城から、敵が生きている時間は短ければ短いほどよい、との教えを受け、素直なアルフラは戦いにおいて速やかなる至殺を心がけていた。血を獲るために魔族を無力化したときも、苦痛を長引かせようという意図は微塵もなく、ただ効率化を追求しただけであった。
今現在アルフラが有する嗜虐性の出所は、他ならぬ二人の少年なのだ。彼らが子供特有の悪意でもって、満身創痍のアルフラを虐げたことにより、彼女の内に弱者を嫐るという概念が発生したのである。その後にアルフラが行った凶行のいくばくかは、彼らの影響があってこそ。ならば毒を植えつけた少年たちが、その犠牲となるのは当然の帰結といえなくもない。最後に残ったエレンという少女はその罪状に該当せぬものの、アルフラの情緒に酌量といったものは期待できそうにない。心の疵は膿み爛れて、それを土壌に芽吹いた悪意はすでに実を結びつつある。
「おねがい……ゆるして。ばけものだなんて言って、ほんとうにごめんなさい」
はらはらと落涙しながら、エレンは媚びた笑みで言いつのる。
「あなたはすごく綺麗だわ。あたしなんかより、ずっと……」
いびつな泣き笑いで切々とうったえるエレンを安心させるように、アルフラは大輪の笑顔で応えた。
「しんぱいしないで」
エレンの顔にちいさな手がのばされる。
「すぐに泣いたり笑ったりできない顔にしてあげるから」
氷よりもなお冷たい手に顔を鷲掴みにされて、エレンは狂ったように弟の名を呼んだ。
「イザーク! イザーク!! たすけて――――!!」
右目を押さえて荷台の隅にうずくまった少年は、がちがちと歯を鳴らしながら顔をそむける。
「む、むりだよ……ごめん、姉ちゃん……」
「そんな……もともとあんたたちのせいで……ひっ、いぃ!?」
イザークをなじる言葉は苦痛を帯びた悲鳴にかわる。
「痛ッ、あ、あああぁぁ!! あつい!! あついいぃぃ――――――!?」
表皮が凍結し、神経組織の死滅する痛みが、灼熱感となってエレンを苛んでいた。堪えがたい痛みに身をよじりつつ、激しく頭を振るがアルフラの手はべったりと顔に張りついて離れない。無理に押しのけようとすると、生皮を剥がされるような激痛が襲いかかる。しかし、泣き叫びながら身悶えていたエレンは、不意にすべての痛みから解放された。それまでの酷い苦痛がうそのように、不気味なほどなにも感じない。――いや、じんわりとした痺れるような感覚がかすかに残っている。いつのまにかアルフラの手も顔から離れていた。その掌にはなにやら黒い布切れのようなものが付着している。ちょうどエレンの顔と同じ大きさのボロ布だ。それが細胞組織を破壊されて黒色化した自身の皮膚だということを、彼女は理解できなかった。
ひゅっと息を呑む音が響き、エレンはそちらへ“顔”を向ける。するとイザークが怯えたように身を引いた。まるでばけものでも見るかのように目を見開いて。
「え……なに? なんなの?」
エレンは両手を顔のそばまで持っていくが、こわくて触れることができない。
「……イザーク。わたしのかお……どうなってる? ねえイザーク……わたしの、かお……」
剥き出しになった表情筋をいびつに歪めた姉に、イザークはぶるぶると震えていた。三十種以上もある表情筋が個別に蠢き、複雑に収縮するさまが見て取れるいまのエレンは、ある意味とても表情豊かといえた。もしその上に皮膚が乗っていれば、彼女は現在ひきつった笑みを浮かべているように見えただろう。
「……かお、わたしのかお……ねえ!! わたしのかおはどうなってるの!? おしえてイザァァクゥゥ――――!!」
狂おしくわめき散らすエレンに、ばけものみたいだよ、と教えてやろうかと思ったアルフラであったが、その行為にたいしたおもしろみも感じなかったので、用は済んだとばかりに荷台から飛び下りる。
ことの終わりを見越したシグナムたちが、馬車へと駆け寄ってきた。みな一様に暗い面持ちをしたなかで、一人、ジャンヌだけが高揚感もあらわに周囲の惨状を見渡した。そして、因果は人の手により返されるという理を、神官娘は真っ向から否定する。
「天網恢々疎にして漏らさず、ですわ! 我が神の手は地平を撫でるほどに長く、どれほど姑息な罪人であろうと決して逃れることはできないのです!!」
ジャンヌはうっとりとした表情でアルフラを讃える。
「この者らは本来、七度の刑死を賜わっても償うことのできない罪を犯したというのに、その命を安堵なさるなんて……。あぁ、我が神のなんと慈悲深きことか!」
しかし、彼女の女神が返した因果はあまりに凄惨極まりない。
悲鳴を上げつづける肉色の顔の少女。
抉られた目を押さえて震える少年。
右腕を失い昏倒するその従兄弟。
血の海に沈む彼らの両親。
猟奇的に赤く染められた幌馬車。
状況的にはたちの悪い野盗の襲撃でも受けたかのようだった。
シグナムは深く息を吐いて、なにか言いたげな顔をしていたが、アルフラを一瞥しただけで口を閉ざした。彼女もたしかにこの少年たちには強い怒りを覚えていた。もしアルフラが暴行を受けているときに少年たちを捕まえていれば、怒りに任せてその首をへし折っていたかもしれない。当時のアルフラはまだ酷く衰弱していたし、火傷により体がうまく動かせない状態だったので、ただ突き飛ばされて転んだだけでも、受け身が取れないため万が一ということも十分あり得たのだ。
だからフレインが言うように、やり過ぎだとは思わない。傭兵稼業で食ってきたシグナムに言わせれば、やられた以上にやり返さなければ報復の意味などないのだ。――しかし、とシグナムは思う。今回アルフラがやったような陰惨なやり方を、彼女はあまり好かない。かといってそういったきれい事を理由にアルフラと対立するつもりもないので、やはり少年たちの自業自得だったのだと自分を納得させた。
そもそも因果論において、かならずしも因と果は等価交換ではない。ささいな悪事が巨大な悪果となって返されることもしばしばである。だからこそこの世は不条理なのかもしれない。




