第89章―5
妻の美子が来るのを予期していたのだろう。
不意に自分の下にやって来た美子を、夫の今上(後水尾天皇)陛下は驚く様子もなく、向かい合うように座るように勧めて、夫婦はお互いに向かい合った。
お互いが座ってすぐ、美子は冷たい口調で夫に言った。
「中和門院陛下にお会いして、用向きを伺いました。貴方は何処まで知っていたのです」
「弟(近衛信尋)が、其方の入内の儀があった直後といってよい頃に、其方の娘になる鷹司智子と結婚したい、近衛家を捨てても良い、と自分に言ってきて、更に母(中和門院)にも相談しに行った。自分や母は、弟を止めようとしたのだが。続けて、弟の妻(近衛信尹の娘)が懐妊した、夫の子に間違いない、と触れ回る事態が起きた。それで、母は色々と考えて動いていたようだが、その詳しい内容までは自分は聞いていなかった。其方と会いたい、と母が言ってきたことから、母は重い決断を下したようだ、とまでは考えたが、その内容について、どうにも母には聞けていなかった」
今上陛下は、ぽつりぽつりと妻に語った。
美子は夫の答えを聞いて、溜息を吐きながら言った。
「分かりました。それ以上は、私も聞きたくありません。鷹司家に対して、智子を近衛信尹の死後養女にすることを勧め、更には智子と近衛信尋の結婚も勧めます。良いですね」
今上陛下は、妻の言葉に黙って肯いた。
美子は改めて考えた。
本当に夫と近衛信尋は兄弟だけあって色々と似ている、というべきだろう。
好きな女性の為ならば、全てをなげうっても良い、と一時の激情に駆られていうとは。
更に言えば、女性の好みも似ているようだ。
これは、一条昭良も同様と考えて、鷹司家に対して、輝子の縁談をそれとなく勧めるべきだろう。
その方が、後々で問題を引き起こさないだろう。
美子は、そこまで突き詰めて考えざるを得なかった。
そして、美子からの連絡は、鷹司家の面々を驚かせることになった。
「私が近衛信尹様の死後養女になって、近衛信尋様の正妻になるの。私は一条昭良様と将来は結婚する筈では無かったの」
「智子は今上陛下を、お父様と呼ぶべきなのか、お兄様と呼ぶべきなのか」
「更に言えば、輝子にまでその余波が及ぶとは」
智子は絶句することになり、教平は途方に暮れて現実逃避の言葉を発して、信房も呆れかえるような想いがしてならなかった。
智子の縁談自体は、生前の信尚が内々の話ということで、智子の中等部入学を機に、一条家に既に持ち込んでいて、智子もそれを内諾していたのだが。
まさか、その話がいきなり流れて、その実兄になる既婚者の近衛信尋との縁談が持ち上がるとは。
しかし、中和門院陛下の了解まで既にあって、更に今上陛下や自らの実母になる美子中宮まで賛同していては、智子としては極めて断りづらい話である。
教平は改めて想った。
家格から言えば、素直に喜ぶべきなのだろうが。
妹二人が摂家に嫁ぐ話を、他家に嫁いだと言える実母が持ち込むとは想わなかった。
とはいえ、中和門院陛下や今上陛下も後押ししていては、どうにもならないな。
だが、輝子は、まだ小学校に入るか入らないか、という年齢なのに、本当に気が早過ぎるよ。
信房の想いも、教平と大同小異だった。
何とか断りたいが、これはどうにも断れない話だ。
そうしたことから、鷹司家も、この縁談を最終的には受け入れることになった。
智子は、まずは近衛信尹の死後養女になり、14歳になり次第、義兄になる信尋と結婚することになった。
そして、輝子も一条昭良の婚約者に内定することになった。
(又、近衛信尋の今の正妻は、智子が養女になった直後に強制的に離婚させられ、中和門院陛下が尼僧として引き取られて、生涯を終えた)
近衛信尋の先妻の運命は言わずもがな、ということで。
それにしても、義父の弟と結婚した場合の義父は、
「お父様」と呼ぶべきなのか、「お兄様」と呼ぶべきなのか。
どちらが正解なのでしょうか?
尚、これで第89章を終えて、最終章の第90章に次話から入ります。
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