第88章―13
この辺りというか、1605年から開始されたローマ帝国とモスクワ大公国の戦争において、どれだけのモスクワ大公国内の貴族当主や高位聖職者、更にはそれに味方する家族等が殺戮されていったのか。
遥か後世になっても、議論が絶えない問題である。
実際問題として、貴族の家族だからと言って、全てが殺戮された訳ではなく、この問題についてローマ帝国を批判する面々も肯定せざるを得ないことだが、この戦争時に偽帝として処刑されたボリス・ゴドゥノフの長男であるフョードル・ゴドゥノフでさえ、ペトログラード市長等の顕職を最終的には務め上げて、ベッドの上で生涯を終えているという史実がある。
だが、その一方で、父や夫や兄の為に、とモスクワ大公国の多くの貴族の家族の面々が、ローマ帝国の侵攻に対して、積極的に武器を取ることになり、戦場において、その身を散らしていったのも、一面の真実ではあるのだ。
(そして、ローマ帝国の軍隊は、彼や彼女らを、多くの場合は生きたままで捕虜とすることは無く、容赦なく戦場で殺戮して、その遺体を埋めて、無名の墓標を立てることで済ませた(とされている)。
これに対して、捕虜の殺戮は絶対に赦されない、公正な裁きを受けさせるべきだった、という後世の主張は極めて高いのだが。
もし、公正な裁きを受けた場合、こういった捕虜がどうなったのか、というと。
エウドキヤ女帝の正統性を認めた東方正教会に叛く異端者だとして、そういった捕虜全員が斬首刑となって、その遺体は火葬になる事態が起きていた。
この当時の東方正教会の教義に従うならば、遺体を火葬にされた死者には死後の復活が無く、無間地獄に堕ちるのだ。
捕虜を無間地獄に堕とすよりは、せめてもの情けとして、捕虜を殺戮して、土葬するのが当然だった、という当時の多くのローマ帝国の軍人の主張を、どれだけの人が否定できるだろうか)
そういったモスクワ大公国内の「大虐殺」を数年に亘って見聞きして、テレシコワは育ったのだ。
自分の両親や兄達が耕していた土地を治めていた貴族の当主のクビがギロチンによって文字通りに飛んで、更に遺体が火葬にされるのを、テレシコワは見届けることになった。
更に当主の家族がエウドキヤ女帝に対する武装蜂起に参加した末に、恐らく捕虜となったが、殺されて土葬されることになり、粗末な墓標が立てられたらしいが。
その墓標を、テレシコワは実見もしていた。
更に言えば、殺戮されたのは、テレシコワの家族が耕していた土地を治めていた貴族の当主だけでは無かったのだ。
辛うじて外国への亡命に成功した極少数のモスクワ大公国内の貴族の当主と高位聖職者以外全員が、ギロチンでクビが飛んで、その遺体が火葬にされたといっても過言では無かった。
そして、その家族も過半数が殺されたのだ。
エウドキヤ女帝に対して、改めて忠誠を誓った貴族の家族は辛うじて助命されたが。
そうは言っても、当主が処刑され、その一族の資産が叛乱罪に伴う附加刑として没収されては。
彼ら彼女らの殆どが、ローマ帝国の官僚なり、軍人なりとして、懸命に働いて生きるしか無かった。
又、エウドキヤ女帝に対する武装蜂起に参加して、ローマ帝国軍の捕虜になったモスクワ大公国の民も叛乱罪に当たるとして処刑される事態までが起きていた。
諸説あるが、通説では約5パーセントのモスクワ大公国の住民が、この「大虐殺」の結果として殺戮されたとされている。
その多くが貴族階級だったとはいえ、これだけの死者が出ては、農民や商人、職人といった庶民にまでも、長く暗い影が落ちるのは仕方のないことで。
その影を感じながら、テレシコワは成長して、今では宇宙飛行士になったのだ。
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