第86章―4
そうした状況から、ローマ帝国とモンゴル等との外交関係は、極めて微妙としか言いようが無いのが現状だったが、そうは言っても、敵対関係というよりは非好意的中立関係程度に収まっていた。
そして、そのことが先年、1610年代後半にある意味では奇跡を引き起こした。
世界最高峰のエヴェレスト山頂への初登頂に、ローマ帝国の登山隊は成功したのだ。
実際問題として、エヴェレスト山頂への登頂は極めて困難というより、不可能とずっと謳われていた。
何しろ標高八千メートルを越える高峰なのだ。
山頂部の酸素は極めて薄い現実があり、更に天候等の様々な障害がある。
それこそ日本や北米共和国でさえ、エヴェレスト山頂への登頂については政府支援を渋ってきたのが現実というものだった。
(最も一皮むけば、それはローマ帝国への日本と北米共和国からの配慮でもあった。
ローマ帝国のエウドキヤ女帝は、北米共和国が北極点に、日本が南極点に初到達したことから、世界最高峰であるエヴェレスト山頂への初登頂は、ローマ帝国が成し遂げるべきだ、と獅子吼していたのだ。
そこまで、エウドキヤ女帝がエヴェレスト山頂への初登頂に拘るのならば、自分達は南北両極点初到達を成し遂げている以上は譲るべきだろう、と日本と北米共和国は考えた次第だった)
そういった背景があったが、ローマ帝国というよりエウドキヤ女帝としては、北極点初到達は北米共和国に、南極点初到達は日本に取られたことから、地球上最高峰のエヴェレスト山頂への初登頂(到達)はローマ帝国が何としても成し遂げようと考えて、準備を整えていたのだ。
(この辺りは、現実世界の英国が、北極点初到達も南極点初到達も他国に取られたことから、エヴェレスト山頂への初登頂に拘ったのと似通った事態と言えるかもしれない)
だが、そもそも論になりかねないが、エヴェレスト山頂どころか、その麓にたどり着くことさえ、一騒動では済まないのが現実だった。
何しろ現実世界で言えば、チベットとネパールに挟まれているのが、エヴェレストなのだ。
更に言えば、この世界でも17世紀前半当時のネパールの中心地カトマンズ盆地を統治していたマッラ朝は分裂抗争しつつあり、カトマンズ盆地外の諸勢力がこの抗争への介入を図ろうとしている状況も相まって、ネパール側からエヴェレスト山頂を目指そう等、困難と言うよりも不可能と言えた。
こうしたことから、ローマ帝国はチベット側からエヴェレスト山頂への登頂を目指すしか無かった。
そして、チベットに対して名目上に近かったが、宗主権を得ていたモンゴルの力を借りて、ローマ帝国はエヴェレスト山頂への登頂を目指すことになった。
チベット地方各地では小国というより小勢力が分立しており、モンゴルの宗主権をそういった小勢力が認めることで平穏を維持していたのだ。
そう言った背景から、ローマ帝国はモンゴルの協力を得て、チベット側からエヴェレスト山頂への登頂を目指すことになった。
アバラコフを隊長として、副隊長にボナッティを任じたローマ帝国のエヴェレスト山頂を目指す登山隊は極地法を駆使しての登山を行った。
これについて、それこそ口の悪い他国の登山家の一部に言わせれば、
「アルバイン法でエヴェレスト山頂への初登頂を果たすべきだった。極地法で登山しようとする等、登山隊として恥ずべきことだ」
と言われることになったが。
そうは言っても、世界最高峰に初めて挑む以上、少しでも安全な登山を行おうとするならば、極地法でローマ帝国の登山隊は挑むのは当然のことしか、言いようが無かった。
そして、ローマ帝国の登山隊は負傷者こそ出たもののエヴェレスト山頂への登頂を果たせたのだ。
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