第85章―17
そういった経過をたどった末、1621年現在、明帝国内では、数千、数万が集うような大規模な流賊は姿を消すことになっていた。
むしろ、そういった大規模な流賊は、すぐに明帝国軍に目を付けられて、大規模な討伐対象にされるとして、流賊は小規模化、更には潜伏活動を図るようになったのだ。
1615年前後には、それこそ解放区ではないが、事実上は流賊の統治下にあるといわれてもおかしくない土地さえ、明帝国内にはあったが、1621年現在ではそういった土地は姿を消していた。
そして、明帝国の統治が徐々に全土に及び、治安も改善されつつあった。
だが、そうはいっても明帝国の土地は広大であり、又、人も膨大だった。
小規模化し、更に地下に潜伏した流賊を摘発するのに、明帝国政府、軍は苦労せざるを得なかった。
表向きは善良な市民の振りをして、裏稼業として犯罪をやるというのは、現実のそれこそ日本社会でもまま見られることである。
この1621年当時の明帝国内では、それがもっと頻繁に見られ、行われることであった。
小規模化した流賊は、現代流に言えば青幇めいた犯罪結社に徐々に変質していき、公然と武装するようなことは無くなっていった。
こうなっては、明帝国政府、軍も摘発が徐々に困難になっていく。
だからこそ、明帝国軍も更なる変革を迫られる事態が起きた。
海軍はともかくとして、明帝国陸軍の改革については、日本陸軍から様々な面々が派遣されて奮闘することになったのだが。
基本的に現場の改革、参謀本部が主に担うことは立花宗茂らが、軍政の改革、陸軍省が主に担うことは武田信勝らが、明帝国陸軍の改革を主導することになった。
そして、この人選は結果的に効果的だった、と後世で評価されることになった。
実際、流賊討伐において、立花宗茂らの行った指導は極めて効果的だった。
流賊をゲリラと見立てて、一部を外部からの支援行動への対処に充てて、主力を投じて包囲下においた流賊を徹底的に潰すことで、流賊の兵、人員を削減していくことで明帝国内の治安回復を徐々に図る、という立花宗茂らの明帝国軍への指導は極めて効果を挙げたのだ。
1615年の日明戦争勃発に至る頃までは、明帝国内の流賊は明帝国の民に対する掠奪行動を行い、それを民が拒むのならば上納金(?)を自分達に納めろ、という形で勢力を涵養していたが。
日明戦争が終結して、明帝国軍の再建が行われた後の頃からは、流賊のそういった行動は困難になっていく一方になったのだ。
例えば、明帝国軍の装備面において、流賊に対する優位は高まる一方になった。
どうのこうの言っても、前線で戦う流賊の武器は拳銃クラスが基本で、ボルトアクション式小銃等の(史実で言えば第二次世界大戦レベルの)武器を装備しているのは少数だった。
それに対して、明帝国軍の装備する武器は最前線では自動小銃が、後方部隊でもボルトアクション式小銃等が当たり前になっていったのだ。
更にそれを支援する後方部隊の装備は、明帝国軍が優越する一方になっていった。
例えば、明帝国軍が装備する通信機器の性能等の向上は急であり、それこそ1621年頃になれば、独立大隊クラスになれば、無線通信機を大隊長やその周囲が保有しているのが、当たり前になっていた。
他の補給部隊にしても、徐々に自動車化が進む等の事態が起きていた。
だが、こういった明帝国軍の攻勢に対処する流賊の装備は、外国からの本格的な支援が乏しいこともあって、基本的に従前のままだったのだ。
(ローマ帝国や北米共和国にしても、日本の足を引っ張ろうとはしたのだが。
流石に公然と行いかねる現実を前にしては、本格的な支援は出来ない現実が起きたのだ)
何だかんだ言っても、ローマ帝国等にしても明帝国内の犯罪集団と言える流賊を公然と支援することは、外聞もあって不可能に近い話なのです。
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