第85章―16
最初は細かく明帝国内の流賊討伐戦の流れを描こう、と考えていましたが。
それこそ地道なゲリラ討伐戦の繰り返しになるので、思い切って端折ることにしました。
途中経過を大幅に端折ることになるが。
1621年現在、まずは華南の沿岸部からの流賊の掃討を図った明帝国陸海軍の行動は、数年掛かりの悪戦苦闘の果てに、かなりの成果を結果的に挙げることになっていた。
1年掛かりの様々な飴と鞭を伴う訓練や教導を行った結果、再建された明帝国陸海軍は、改心せずに流賊を続けていた面々を、徐々に沿岸部から内陸部に追いやり、その末に彼らの武器等を欠乏させて、彼らの大部分を処刑し、又、一部の投降を受け入れることで、明帝国内の大幅な治安改善を果たしたのだ。
勿論、それが全て上手くいったとは、到底、言えないのも現実ではあったが。
流賊の本格的な討伐が始まってから、広州からその主力は福建経由で杭州へ、又、別動隊は広州から北上して武漢三鎮へ、と明帝国陸軍は動くことで、沿岸部にいる流賊を掃討する一方、内陸部の流賊間の連携を積極的に切断しようと試みた。
この討伐行動の成功によって、まずは華南の東部の治安を大幅に明軍は改善することに成功し、又、流賊と元倭寇の間の主に武器と麻薬の交換ルートに大打撃を与えることにも成功した。
又、この軍事行動の成功で自信を付けた明軍の主力は徐々に分散して、明帝国全体の治安向上を図っていき、それは徐々に功を奏していくことになった。
これに対して、流賊らも積極的に明帝国軍に抗戦したが、最初の明軍の行動で武器の供給ルートに大打撃を受けたことから、徐々に明軍の攻勢に対処するのに苦労する事態が起きた。
更に流賊と比べて、明帝国軍には、様々なアドバンテージがあった。
日本軍から積極的に武器等が提供される一方、その用い方に対するノウハウも伝えられた。
更に明帝国軍の将兵の教育程度から、遅々としたモノにならざるを得なかったが。
有線、無線通信機器の使い方も明帝国軍内で徐々に広まることになり、こういった通信機器の使用は、流賊の位置等の特定から討伐に偉効を挙げることになった。
他にも止むを得ない事態といって良かったが、この当時の明帝国軍は、自動車よりも騎兵を重視せざるを得なかった。
何しろ、まともな道路が乏しいし、更に自動車化を推進しては燃料の確保が必須になるからだ。
明帝国内のインフラ整備が整っていない以上、機動力については、旧弊な騎兵を取り敢えずは頼みにせざるを得ないのは止むを得なかった。
勿論、徐々に明軍の自動車化、機械化を明軍のみならず、教官を務める日本軍も進めたいと考えており、実際に兵に対する教練として、自動車教練を取り入れる等の努力をしたが、それによって整備された自動車部隊を、それこそ自動車の導入から数年で、大規模に実戦、流賊討伐に投入する等、後方整備等まで考える程、どうにも無理だったのだ。
勿論、後方支援部隊について自動車化を明軍の一部が行わなかった訳ではないが、1621年現在では小規模なものに止まっていた。
又、そうしたことから、流賊討伐に対する様々な航空支援(偵察から根拠地に対する銃爆撃等々)にしても、結局は日本から派遣される軍事顧問団頼りと言うことに、この当時の明軍は成らざるを得なかった。
それこそ航空機に触れたことどころか、見たことも無いという将兵ばかりでは。
実験部隊的な存在として、まずは陸軍航空隊を設立して、十年以上先に本格的な空軍を建設しよう、ということに成らざるを得なかった。
それに既述の事情だが、現在の明帝国にとって外敵は存在せず、軍の主敵といえるのは流賊なのだ。
流賊討伐の為に、大規模な空軍建設等、無駄もよいところで、そうしたことからも、空軍建設は後回しということになり、1621年現在では陸軍傘下の航空隊という扱いにせざるを得なかった。
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