第85章―9
さて、この当時の明帝国軍は第一任務を治安維持においていた、と述べたが。
これは、様々な要因が絡み合った末、といっても過言では無かった。
既述だが、明帝国の周辺国は当時、非友好関係にある国は存在しなかった。
日本、後金、モンゴル、琉球とは対日明戦争の結果、改めて明帝国は友好関係を締結しており、東方、北方、西方(この世界では、チベットはモンゴルの宗主権を認めており、事実上はモンゴル領)の安全はそれによって確保されていた。
(尚、これまで描けていなかったこともあって、少し補足説明をすると)明帝国の南方にしても、(現代の言葉で書けば)ベトナムは南北に分裂し、北部の鄭政権と南部の阮政権が抗争していたが、逆に言えば、その為に明帝国に手を出す余裕等、とても無かった。
ビルマにしても、タウングー朝が崩壊した後は、小勢力が分立していると言っても過言ではなく、ナレースワン大王が崩御したとはいえ、シャム王国はその残照を十二分に未だに止めており、同盟国である日本の扶けもあって、東南アジアの地域大国となっていたことから、明帝国は四方の安全を確保できていたのだ。
その一方で、明帝国内での流賊の跳梁は、とても看過できない状況にあった。
それこそ日明戦争の結果、明帝国は開国(?)して、自由貿易が行われるようになったのだが、それ以前から倭寇による私貿易が公然と行われていたのが現実だった。
そして、このことは明帝国内に様々な武器が外国から流入する事態を引き起こしていた。
更に言えば、流賊の多くがそういった武器を装備していた。
勿論、私貿易(密貿易)である以上、そう大きな武器は明帝国内に持ち込めない。
それこそ、最大の武器がライフル銃、小銃といったところで、重機関銃やロケット砲といった武器が明帝国に持ち込まれることはほぼ無く、最も流賊の間で人気があるのが拳銃、ピストルで、少し装備の良い流賊が短機関銃や手榴弾等を装備しているくらいだった。
だが、その一方で日明戦争以前の明帝国軍は、それこそ中華主義から火縄銃が最良の装備という惨状だったのだ。
だから、短機関銃や手榴弾を装備している流賊が相手となると苦戦するどころではなく、兵力が同数ならば蹴散らされる惨状を、明帝国軍が陥ることが稀では無かった。
拳銃にしても連射が可能であり、射程が短いとはいえ、火縄銃で対抗するとなると、それなりどころではない覚悟がいることになる。
そんなことから、明帝国軍は日明戦争終結後、速やかに装備の改善を図る必要があり、日本から自動小銃の導入等に奔らざるを得なかったのだ。
だが、こういった事情から、明帝国に様々なアドバイス等をする日本としても、明帝国軍、特に陸軍については、国家憲兵(警察軍)としての性格を重視しての再建、建設計画を練らざるを得なかった。
海軍、河川水軍にしても、現実世界で言えば、海上保安庁や米国沿岸警備隊的な組織として造らざるを得なかったのだ。
実際、このことは流賊の行動範囲からしても、望ましい話と言えた。
流賊の多くが寄らば大樹の陰とばかりに、有力な頭目の下に集まる傾向があり、更に弱いと思われる地域を標的とする一方で、そこに明帝国軍が出張れば、速やかに逃げ散ったからだ。
こうなると明帝国全域を行動範囲とする国家憲兵(警察軍)でないと、流賊に対処するのは困難というよりも不可能に近い事態となる。
そうしたことも、明帝国陸軍が、袁崇煥らの本音としては、本格的な陸軍再建を志向したかったが、先ずは国家憲兵(警察軍)的な組織として建設、再建されることを引き起こすことになった。
そして、明帝国陸軍の再建の基本方針が固まって、立花宗茂らが奮闘したのだ。
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