第85章―8
そんな軍人としての心構えを、武田信勝らから教えられる一方で、袁崇煥は日本軍から提供される様々な武器に目を見張らざるを得なかった。
「これが歩兵用の武器ですか。自動的に連発できる銃とは」
「旧式化しつつありますが、まだまだ我が国でも第一線兵器として使われている初期の自動小銃です」
「これでも旧式化ですか」
袁崇煥は日本から提供された自動小銃に目を見張らざるを得なかった。
さて、この際に余談に奔るが。
(この世界の)日本軍のボルトアクション式小銃の口径だが、当初は6.5ミリが採用されていた。
日本人の体形からして、更にこの世界の当時の技術力からして、日本しかボルトアクション式小銃は開発、保有できなかったからで、実際に対人戦闘を考えれば充分な威力があった。
だが、これに不満を覚えたのが、北米植民地だった。
北米植民地では、それこそ積極的に植民地開拓を進めており、そうした際にはハイイログマ等を射殺できる威力が小銃に求められたのだ。
そうなると少しでも大口径の小銃が欲しい、という希望があり、7.7ミリ口径が開発されて、北米植民地では多用されるようになったのだ。
そして、この二つの小銃は、北米独立戦争で銃火を交えた。
戦後の調査によれば、あくまでも印象によるものが大きく、実際には日本軍の小銃は、北米植民地軍の小銃と、そう見劣りしない戦果を挙げているとされるが。
戦時中、日本軍の下士官兵の多くが、自軍の小銃の低威力に不満を零した。
「北米植民地の銃弾は煉瓦塀を貫通してくるのに、こちら(日本)の銃弾は貫通できない」
そんな声が大きく上がったのだ。
こうした声に負け、又、対空射撃や対車両射撃を考え、更には重機関銃との弾薬共通化を図る必要等から、日本軍の小銃は、結果的に北米独立戦争終結後になったが、7.7ミリ口径が採用された。
そして、暫くの間、その状態が続くことになり、世界的にも(ボルトアクション式)小銃というと、7.7ミリ口径が標準ということになったのだが。
自動小銃の開発、採用が風向きを変えることになった。
7.7ミリ口径の自動小銃は反動が大きく、命中率が低下する等の問題が発生し、又、自動小銃である以上、どうしても銃弾をばら撒くことになり、銃弾の補給が大問題になるという指摘が起きたのだ。
そうしたことから、日本軍において、5.5ミリ口径が新型自動小銃の銃弾として提案されることになり、様々な論争が軍の内外で行われたが、最終的に5.5ミリ口径が新型自動小銃の銃弾として採用されることとなった。
威力の低下が批判されたが、それは多くの銃弾をぶち込めばよい、との声に抑え込まれたのだ。
そして、日本軍の採用した5.5ミリ口径の新型自動小銃を、同様の問題に苦しんでいた北米共和国等も見習って、自国でも開発、採用することになったのだ。
(この世界の)1621年現在、5.5ミリ口径の自動小銃が世界各国において、第一線の歩兵部隊の装備になりつつあるが、まだまだ7.7ミリ口径の自動小銃が第二線部隊では幅を利かせているのが現実というものだった。
そして、日明戦争の余燼がまだまだ漂っている以上、幾ら友好関係に成ったとはいえ、日本は5.5ミリ口径の新型自動小銃を明軍に提供せず、7.7ミリ口径の旧式自動小銃を提供したのだ。
とはいえ、これまで旧式の火縄銃が第一線装備だった明軍にしてみれば、自動小銃は完全に時代が違う歩兵銃というしかなく、袁崇煥以下の明軍の将兵は、その威力等に驚愕するしか無かったのだ。
そして、こういった日本から提供された自動小銃等を装備して、明軍は帝国内の治安維持を第一任務として行えるように、様々な改革を行っていたのだ。
本当は他にも色々と兵器を出したかったのですが、ドンドン横路に入りそうで、自動小銃のみに絞ることにしました。
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