第85章―2
こうして荒療治から、明帝国は宦官の害を排除することに成ったが、それは必然的に後宮の大幅な縮小を引き起こさざるを得なかった。
更に言えば、泰昌帝自身も、その必然性を感じていた。
「後宮の美女三千人という。それだけの女性と朕が関係を持てる訳が無い。更に言えば、これだけの後宮を持つ国は今の世界ではほぼ無く、そのような国は世界からも後進国と見なされがちだとか。朕自ら、率先垂範する必要がある。それに宦官がいなくなる以上、これだけの後宮を管理するのは不可能だ」
そう考えた泰昌帝は、後宮の大幅縮小を断行した。
自らの后妃を4人として、更に直に自らの後宮に仕える女性の人員を最大30名とし、それ以上の女性を後宮から解放したのだ。
(細かく言えば、乳母等の泰昌帝の子女に仕える女性もいるので、最終的には100名近い女性が後宮に残ることになった)
だが、これは様々な哀話を結果的に引き起こすことにもなった。
何しろ幼い頃から、後宮で暮らしていた者が殆どである。
親族等を頼ろうにも、既に親族等とは完全に疎遠になっていた女性も多い。
親族等を頼れなかった若い女性の多くが、いわゆる花柳界に身を堕とすことになった。
更にもう若くなかった女性に至っては、尼僧や乞食になった例まで多発したという。
それなりに芸事に通じていた女性は、それで食べていけなくもなかったが、後宮にいる女性が全て芸事に通じている訳がない。
それこそ芸事を行わず、いわゆる家事等を基本的に担っていた女性もいたからである。
家事が得意なのを売りにして、何とかしようとする元宮女もいたが、それこそ一般の家庭と宮中では様々なことが異なっている。
だから、家事等を担う内に中高年になっており、親族とも疎遠になっていた元宮女の多くが、尼僧になったり、乞食に身を堕としたりする事態が多発したのだ。
話がやや逸れたので、話を戻すが。
ともかくこうした泰昌帝の自らの律し方は、明帝国政府に仕える官僚も律することになった。
それこそ宰相クラスに成れば、公然と妾を何人も囲う者が、万暦帝以前では稀では無かったが、泰昌帝がそのような態度なのに、公然と妾を何人も囲う訳には行かない。
勿論、ある意味では人間の性で、妾を持つ者は当然に居続けたが、公然と何人も妾を囲う者は激減することになった。
そして、アメの一環として、泰昌帝は膨大な没収した資産を活かして、官僚の給与を大幅に引き上げる一方で、ムチの一環として、今後、官僚等の収賄罪は死刑と定めた。
又、贈賄者も同様に死刑と定めた。
そして、既に「粛清」の嵐が吹き荒れた後だったこともあり、官僚不足が起きていたが、こういった状況は官僚の人気を高めることになった。
官僚の給与は引き上げられたし、今なら大幅な出世が望める、として官僚への志願者が増えた。
袁崇煥はそういった流れから官僚となって、更に出世した者の代表者と言える存在だった。
もっとも、袁崇煥は最初は文官として採用されたのだが。
文官として採用直後に自らが希望したのもあるが、軍人へと転身する羽目になった。
袁崇煥は広州で生まれ育った存在であり、日本軍についてよく知らなかったのだが、文官として採用された直後、日明戦争の詳細を徐々に知るようになり、明軍の遅れを痛感したことから、その改革に関する上申書を自分なりにまとめて、上司に提出した。
それを読んだ上司は感心して更に上司に見せ、終には徐光啓を経て、泰昌帝にまで届いた。
それを読み終えた泰昌帝は、
「我が国に文天祥が再来したようだ」
と感嘆の声を挙げることになり、袁崇煥に軍人に転じるように命令を下したのだ。
(袁崇煥はそこまでになるとは思わず、恐懼することになった)
因みに袁崇煥が当初は文官だったというのは史実準拠です。
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