第85章―1 明帝国の様々な改革とその影響
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1621年現在、明帝国の皇帝は泰昌帝が即位していた。
そして、徐光啓や袁崇煥といった臣下を登用し、懸命に様々な改革を断行していた。
泰昌帝の口癖になっているのが、
「何故にここまで放っておいた。夜郎自大と言う言葉こそ、かつての我が国に相応しい。中華思想を捨てて、外国の技術や思想を夷狄の産物と蔑まず、良いモノは速やかに取り入れるのだ。我が国だけの力では、どうにもならぬ。何しろ、東夷と蔑んでいた日本は、宇宙にまで人を送り出しているのだぞ。我が国にそのような技術等は無いのだ」
と言う言葉であり、その言葉に徐光啓らも同意して、帝国内の改革を断行していた。
だが、改革を断行するにしても、資金はどうにも必要である。
万暦帝の暴政により、明帝国の国民は疲弊しきっており、帝国が資金を集めるために税金を課するのさえも躊躇わざるを得ない惨状に遭った。
その資金をどうやって調達するのか。
万暦帝が自裁し、泰昌帝が即位した直後、すぐに明帝国政府上層部において問題になった。
そして、どうやって資金が調達されたのか、というと。
「良いのですか。あれだけの情報を流して」
「流した方が、綺麗になります。後は、告発合戦で自滅して貰いましょう」
伊達政宗首相と毛利輝元外相は、そんな会話を裏で交わすことになった。
日本政府は、東廠内で蔓延っていた日本からの賄賂を貰っていた宦官の名簿とその額等を、泰昌帝やその周辺に流したのだ。
この際、明帝国の宦官の害を撲滅しないと、それこそ明帝国は立ち直れない、と考えていたことからの荒療治だった。
泰昌帝やその周囲は震撼した。
帝国内の査察を行うべき東廠が、完全に日本政府に飼われていた存在だとは。
結果的に東廠の殆どの宦官が逮捕、処刑されることになった。
だが、この出来事は、それだけで済む筈が無かった。
死なば諸共ではないが、逮捕された東廠の宦官がどうせ殺されるならば、と自分の知っている明帝国の官僚の腐敗情報を告発したからである。
そして、告発された官僚も、少しでも刑を軽くしてもらおうと告発を行うことになった。
こうなっては、告発合戦の流れが止まらなくなる。
この世界では知られていないことになるが、それこそソ連のスターリン統治下において起きた「大粛清」のような事態が、明帝国内部で吹き荒れることになった。
(もっともソ連とは異なり、この明帝国の告発合戦、粛清の嵐は、いわゆる「コップの中の嵐」で済むことにはなった。
そう言った点では、この世界のローマ帝国がモスクワ大公国侵攻作戦に伴って起きた事態に近い)
最終的な結果としては、紫禁城の中に主に巣食っていた明帝国の宦官の9割以上が処刑され、財産が没収される事態が起きた。
更に地方はともかく、中央高級官僚も過半数が処刑され、財産が没収される事態が起きた。
(尚、三族族滅として、このような場合には、万暦帝以前の明帝国では家族にまで処罰が及んでいたが、日本政府の指導により、家族は犯罪行為に絡んでいない限り、泰昌帝以降の明帝国では家族の処罰は免れることになった。
日本政府としても、家族にまで処罰が及んでは、流石に寝覚めが悪い事態だったからである)
そして、この結果として、泰昌帝の下には、処刑された面々から没収された資産として、万暦帝末期の国家歳入の約30年に亘る資産が積みあがることになった。
しかも、その大半が宦官の資産だった。
泰昌帝はこの事実を知った際に、慨嘆せざるを得なかった。
「ここまで宦官が腐敗しておったとは」
更に世界各地で宦官は、ほぼ絶えつつあるのを知ったことから。
「今後、我が国は宦官の雇用を止める」
と勅令が出され、明帝国の宦官制度は廃止に向かうことになった。
万暦帝末期の明王朝の税収30年分の資産とは大袈裟、と言われそうですが。
正徳帝の治世に跋扈した宦官の劉瑾が処刑時に没収された個人資産は、当時の明王朝の税収10年分に相当したとか。
そういった事例からしても、おかしくない数字と考えます。
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