第84章―24
そんなことまで、今上(後水尾天皇)陛下は考えたが、それ以外のことも鷹司(上里)美子と話し合わずにはいられなかった。
「裏では其方も承知していたようだが。伊達政宗首相から、例の(猪熊)事件で南極や南米に赴いていた面々について、大日本帝国憲法改正に伴う事実上の恩赦として、日本本国への帰国を認めるべきだ、との上申があった。朕としては、全員出家した上ならば、帰国させても良い、と考えるがどうかな」
「そうですね。流石に例の事件から10年以上が経ちますから、良いのではないでしょうか」
(猪熊事件が起きたのは、1609年であり、12年の歳月が流れている)
二人は、そうやり取りをした。
「それにしても、宮中女官複数が参加した乱交の宴を開いたのは確かに問題だが、流石に南極に送るのは余りだ、との声が一部の公家の面々から挙がったので、南極送りになった男性は出家しなくて良い、としたのですが。どうやら手緩かったようですね」
「全くだな。南極に付いていった女性と関係を持つのは、まだ目を瞑れたが。そこで二股どころか、三股まで掛けた男が出るとはな。確かに南極に妻を連れて行った男はおらず、既婚男性にしても、南極に赴く前に妻とは離縁(離婚)した男ばかりだったから。妻以外の女性との間に、子作りをしても問題無い、といえるかもしれないが、あそこまで無節操な事態を起こすとは」
二人は慨嘆するようなやり取りを、何時かせざるを得なかった。
実際、例の(猪熊)事件だが、最終的に南極送りになった男性は(史実(?)に准じて)7人だった。
尚、出家の上で南米送りになった女性は5人である。
そして、この事件で最大の罪状とされたのが、乱交の宴を開いて、それに参加したことだった。
(ちなみに、徳大寺実久と烏丸光広は、乱交の宴に誘われたものの、宴自体には不参加だったことから、数年に亘る自宅謹慎で済むことになった)
ともかく同じ場所に送っては、不道徳な関係を続けかねない、と危惧されたことから、男性は南極に、女性は南米に送られることになり、処分案の最初の段階では、共に出家の上で送られる筈だったのだが。
流石に出家の上で南極送りは余りでは、という同情の声が、主に公家社会において高まったことから、男性は出家せずに南極送り、ということになった。
その結果、実家の配慮から身の回りの世話をする女性も、南極送りの男性に随伴することになった。
そして、様々なことが考えられたことから、複数の女性が1人の男性に基本的に随伴したのだが。
その果てに、7人の男性が30人近い子どもを南極で儲けるのは、それこそ今上陛下以下の面々からすれば、完全に想定外としか、言いようが無かった。
特に酷い、といえるのが、猪熊教利で。
本人曰く、偶々です、と言い張るが、自分の世話をする女性以外、具体的に言えば、共に南極送りになった男性の世話をする女性にも手を出した結果。
自分の世話をする2人の女性以外にも、他に1人の女性との間に、合計6人もの子どもを儲ける事態を、猪熊教利は引き起こした。
「他の者はともかく、猪熊教利に関しては、出家の上で奥高野に終生押し込めとするつもりだ」
「それでよろしいか、と私も考えます。尚、(猪熊教利の)子どもとその母は四辻家が全て面倒を見る、と四辻与津子が明言しています」
「流石に与津子も庇えぬか。その代わり、兄が関係した女性とその子は、血縁の義理等から面倒を見るつもりのようだな」
「幾ら何でも当然のこと、と私は考えます。全く謹慎していない、と(猪熊教利は)轟々たる非難を浴びて当然です」
今上陛下と美子は、そこまで突き詰めた話を交わして、この件の最終処分を事実上は決めた。
何で猪熊家ではなく、四辻家が猪熊教利の子の面倒を見るかですが、猪熊家は教利が四辻家の分家として創設した家の為です。
その為に教利とその子しか、猪熊家の家族は事実上はおらず、四辻家が教利の子の面倒を見ることになりました。
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