第84章―4
確かに鷹司(上里)美子尚侍の法律に関する衆議院の優越に対する批判は、一理も二理もあるもので、伊達政宗首相と言えども、すぐに反論することを躊躇わざるを得なかった。
その為に伊達首相としては、別の方向からの改憲論を唱えたが、それはそれで、美子から反撃を受ける事態が起きるのは避けられなかった。
「最近というか、大日本帝国憲法制定以降、ほぼ衆議院総選挙の結果を踏まえて、新首相が衆議院と貴族院で選ばれるのが恒例になっています。こうしたことからすれば、衆議院に新首相の先議権を与えて、更には貴族院が否決しても、衆議院が過半数で再可決すれば、新首相選任に至るように改憲すべきでは」
そう伊達首相は主張したが。
すかさず美子からは冷笑的な反論が返された。
「先年に薨去された二条昭実元首相、元内大臣の経歴を把握されておられるのですか。二条元首相のことを想い出されれば、労農党党首の貴方が、そんなことは言えないでしょうに」
美子の反論に、伊達首相は、かつてのことを持ち出すな、と声を荒げたかったが。
これ又、美子の言うことが正しいだけに、伊達首相としては、唇をかみしめるしかないのが現実としか、言いようが無かったのだ。
木下小一郎元首相が逝去した際に次期首相を誰にすべきか、労農党内部は大騒動に成った。
それこそ我こそ新首相に相応しい、と言う声が何人もの労農党所属の衆議院議員から挙がる事態が引き起こされたのだ。
(流石にまだ二期目になったばかりだったことから、伊達首相はそうした声を挙げられなかったが。
当時の第一公設秘書だった片倉景綱に、
「俺が三期目だったら、新党首に加えて、新首相として立候補していたものを」
と自ら何度も愚痴る事態だったのだ)
だが、木下元首相の遺言状が公開され、更に木下元首相が、自らの後の新首相として、遺言の中で二条昭実を指名していたことは、様々な波紋を労農党内外に引き起こさざるを得なかった。
あいつが新首相に就任するくらいならば、二条昭実が新首相に成る方がマシだ、という主張が労農党の大勢を占めることになり、労農党の党首と首相は分離しよう、更に二条新首相の指名に基づいて、二条内閣を組閣するのが相当だ、と労農党の衆議院議員の殆どがいう事態に至って。
最終的に二条昭実内閣が成立して、結果的に8年間も存続する事態に至ったのだ。
更に言えば、二条昭実は(言うまでもないことだが)摂家出身の貴族院議員である以上、衆議院議員ではなく、更に労農党の党員でも無かった。
そういった背景の二条昭実が首相を8年も務めた実例がある以上。
美子は強硬に主張した。
「大日本帝国憲法を虚心坦懐に読む限り、首相を誰にするかの指名権は今上陛下にあり、更に今上陛下が貴族院でも、衆議院でもどちらに首相の先議を行っても問題無いことです。
それを衆議院の先議にすべきとか。
今上陛下の首相指名権を却って縛るモノでは。
話が大日本帝国は、あくまでも主権者は今上陛下に大日本帝国憲法上は成っています。
それを考える程、衆議院に先議権を与える等の首相承認に関する優越を認めることはできません。
実際にそれで8年も上手くやれたではありませんか」
美子がそこまで言うことに、政宗は猛反論を行いたかったが。
それをやればやる程、二条内閣を成立させて、更にそれを8年間も自らを含む労農党が支えて来たのか、ということについて、藪をつついて蛇を出す事態を引き起こしかねない。
最終的には首相指名に関する衆議院の優越について、政宗は今回の改憲案に取り入れることを最終的には断念するしか無かった。
下手に拘っては、そもそも改憲事態が上手く行かなくなる、と政宗は考えざるを得なかったのだ。
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